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<第4回応募作品>「恋人遠足」 著者:藤原 康世

「どこか行きたいところとか、会いたい人はいないの?」
茜に訊かれて、美空は言葉に詰まってしまった。仕事の合間を縫って、病院まで車で迎えにきてくれた友人が、親切で言ってくれているのはわかる。だが、今の美空には難しい問題だった。
行きたいところはたくさんあった。ファッション関係の仕事をしているが、一度もヨーロッパに行ったことがない。
憧れの職業に就くために十九歳で上京し、仕事一筋で十年が過ぎた。地元でつきあっていた恋人からは、上京して一年ほどで連絡がこなくなった。今年久しぶりに届いた年賀状には、二人目が産まれますとあった。
仕事がひと段落したら、フランスを一人で回るつもりだった。体の不調を覚えることがあったが、旅行を励みに激務に耐えた。
 しかし、当分の間、それはかなわなくなってしまった。主治医を説得し、明後日には帰る約束で外出許可をとりつけたが、あとひと月は入院が必要だと言われている。
「別にないわ。茜が来てくれたし、夜には妹が上京することになっているから」
「ソレイユは?」
「真木さん? どうして?」
「どうしてって、そんなのわかるわよ」
茜は笑って、「もういろいろ我慢するのはやめるんじゃなかったの?」と言った。
真木直樹は、美空が仕事帰りに寄る喫茶ソレイユの店主だった。美空は真木が淹れる紅茶が好きだった。
真木とは、客とマスターの通り一遍の会話以外、ほとんど会話らしいものをしたことがない。趣味で写真を撮っているというのも、ほかの客と話しているのを聞いて知った。
 髪を乱し、化粧もほとんどとれかけた美空が、ドア・ベルを派手に鳴らし、「まだ、大丈夫ですか?」と駆け込むと、直樹はいつも笑顔で迎えた。しかし、それは一瞬のことだった。美空と目が合うと、わずかでも笑顔を見せた自分を恥じるように、そのあとは黙りこんでしまう。自分の感情を表に出すことを極端に警戒しているようだった。
 その真木が、手作りの写真集を持って、美空のいる病院にきた。
 検査を終えて、病室にもどる途中、長い廊下の先に、長身の男の背中があった。逆光でシルエットしかわからなかったが、美空は真木だと気づいた。
 病室にもどると、ベッドの脇には、「東京」と書かれた写真集が置かれていた。「高木美空さんへ MN」というメモがあった。
 なぜ、「東京」なのだろうとしばらく考えると、思い当たる節があった。
 体の不調を我慢して仕事をしていたころ、久しぶりに地元の女友達から連絡があり、同級生がみな、家庭の主婦として幸せに暮らしていると聞かされた。茜が一緒でカウンター席に座ったときで、「田舎に帰った方がいいのかな。東京で暮らすの、疲れちゃった」とこぼした。真木は、それを聞いていたのだ。
 写真をめくっていくと、確信を得た。真木は、東京の美しい風景をたくさん集めていた。美空が見たことのない東京だった。
 その中に、木立を写した写真があった。「深大寺・深沙大王堂」というタイトルがついたその写真が、美空は特に気に入った。
逆光を浴びた木々のシルエットが、澄んだ空気の中に浮かび上がり、石畳には、幹や葉の影が伸びていた。子どものころに、よく遊んだ裏山の林を思い出して懐かしかった。眠れない夜に、美空は写真集をめくった。
写真への愛着は、撮影した真木への淡い思いへと変わっていった。恋と呼べるような感情をもっていることに驚きながら、これは二度めの初恋なのかもしれない、恋を知ったあとだから、本物の初恋なのだと考え、空想の中で、気に入りの深大寺の風景に真木を佇ませて、眠りについた。二人で木漏れ日を浴びながら、散歩をする夢を見ることもあった。
「まだお若いのに」と同病の患者からも哀れまれる病になった運命に、美空は納得がいかなかった。体調が優れなかったり、入院生活に倦んできたりすると、気持ちがささくれ立った。仕事を一線で続けている同僚が見舞いにきたときも、心が乱れた。
反省して努めて明るく振舞うと、反動で果てしなく落ちこんだ。そんなときは、真木への思いも、自分で傷つけてしまった。
真木がいくら優しい人でも、病気になった女を相手にしてくれるわけがないとか、うまく撮れた写真をだれかに見せたいだけだとか、私にしても、ほかに考えることがないから、真木に執着してしまうのだとか。
だが、どんなにふて腐れた気持ちになっても、冷静になろうと努めて真木の写真を眺めると、心は少しずつ穏やかになっていった。
ソレイユに、お礼の電話をかけたことがある。電話口の真木は、感激してまくしたてる美空の話を静かに聞いてくれてはいたが、美空が喜ぶようなことは言わなかった。
外出許可が出たときも、真っ先に電話をかけた。あれこれと言うことを用意していたが、呼び出し音が鳴り続けただけだった。
誰とどこに行きたいかと訊かれれば、真木とあの木立の中に佇んでみたい。そんなささやかなことも、自分には難しいことなのだ。
ふいに目頭が熱くなって、美空は窓の外に視線を向けた。体が不調になって以来、感情が極端から極端へ走ることが多くなっている。車窓を流れる街の景色には、緑の彩りが濃くなっていた。初夏は、美空が一番好きな季節のはずだった。
「大丈夫? 具合が悪いの?」
茜がのぞきこんだ。余計な心配をかけてはいけないと、美空は笑顔を作り、「最近、彼とはうまくやっているの?」と訊ねた。
茜には、三か月ほど前から、つきあっている年下の恋人がいる。彼女には珍しく、自分から交際を申し込んだ相手だった。
この間撮った写真があるはずよと、美空にバッグからデジタルカメラを出させると、信号待ちの間に、ディスプレイをセットして差し出した。
何枚か写真を見た後、「なあに、これ?」
と、美空は吹き出した。
芝生の上で茜と恋人が足先を合わせてVの字に寝転がり、相手の方に腕を伸ばしている。いびつだが、満面の笑みの二人がつくったハートだった。周りには人も写っている。
「見ての通り、遠足で撮った人型ハートよ」
「遠足?」
「正確には、恋人遠足って言うんだけど。デートを二人だけのオリジナルの呼び方にしようって、彼が言い出して。私が考えたのよ」
「恋人遠足ねえ。私が苦しんでいるときに、茜はこんなことして遊んでいるのね」
あきれたように言いながら、美空は久しぶりに心が軽くなっていることに気づいていた。
「私もがんばっているのよ」
 大げさにため息をついた茜は、「ちょっと真面目なことを言うけど、聞いてよね」と前置きをして続けた。
「彼と付き合うまで、愛されるのが当たり前だし、愛されていなくちゃいやだと思っていたけど、自分が愛していれば、それでいいと思うようになったの。愛する方が楽しいのよ。その方が自分に合っているって、今ごろ気づいたの」
 車が、美空の住む町に入った。真木のいるソレイユも近い。
「どうする? あとで迎えに来てあげるけど」
そう言って、茜が車を店の横に止めると、真木が中から出てきた。
「そういえば、マスターが、明日は店を休みにするって言っていたわよ。美空たちも恋人遠足したら?」
次の日、美空と真木は、深大寺界隈を散歩していた。空は青く晴れ渡っていた。
 昨日、美空は、真木の淹れてくれた紅茶を飲んだあと、「明日、遠足に行ってくれませんか? 」としどろもどろになりながらも、自分から誘ったのだった。
「高木美空さんて、素敵な名前ですね」
 深沙大王堂の前で、「ここには縁結びの神様がお祀りしてあるんです」と説明したあと、真木がふいに言った。
「僕は真木直樹で、縦に伸びるようなイメージですが、あなたのお名前は、僕のさらに上にあって、無限に広がっていくイメージです。この木々やその上に見える空は、僕たち二人のことだと思いませんか? 僕はここに来ると、いつもあなたのことを思い出すんです」
 そう言って、真木は空を仰いだ。
 思いがけない告白に、美空はそっと涙をぬぐいながら、私も負けてはいられないと思った。愛することを生きる意志に変えて行こうと、昨晩、一人になったとき、真面目に考えたばかりだった。
 空を仰ぐと、複数の梢に切り取られた空が、真木の出身地だという四国の地形のように見えた。真木にそのことを教えると、喜んでシャッターを切った。
視線を動かすと、すぐ近くに別の形も見つけたが、真木には教えず、美空は自分のシャッターを切った。今日はこれまでめったに使わなかったデジタルカメラを持ってきた。
あとひと月離れている間、美空も自分の思いをこめた写真を真木に届けるつもりだった。
 帰りの車の中で、美空は、
「私たち二人の空です」
と真木にカメラのディスプレイを差し出した。梢の黒い影が、空をきれいなハート型に切り取っていた。
美空は、この写真に、「深大寺・恋人遠足」というタイトルをつけようと決めていた。

藤原 康世(東京都調布市/41歳/女性/主婦)

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