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<第4回応募作品>「紫陽花の季節に想う事」 著者:加藤 はるき

「ごめん、結構待たせちゃったね」
恭子はまだスニーカーがちゃんと履けていないのか、つま先をトントンと叩きつけながら私の方へやってきた。
「それじゃ光太郎、行こうか」
スキップのような足取りで恭子が私の横を通り過ぎていく。私もふぅっと一泊呼吸をした後、後を追いかけるように歩き始めた。そう、今日はいつもと同じ日曜日だ。
私のような生活をしているとほとんど曜日の感覚が無くなるので、恭子と一緒に歩くこの日だけが来て、始めて一週間が終わる事に気づく。それくらいこの恭子と同じ時間を過ごせる日曜日は新鮮で、待ち遠しい一日なのだ。
「今日は一日中晴れるらしいよ。良かったね、光太郎。明日からはまた雨みたいだけど…」
今年は五月でも雨が多く、春らしい爽やかな風が吹く日が少なかった。私も恭子も大好きな眩しい春を素通りしてもう梅雨に入ってしまうのだろうか?
「うわっ、綺麗な紫陽花」
武蔵境通りをまっすぐ歩き、「深大寺入口」と書かれた交差点を左に曲がると「深大寺通り」に入る。石畳とも言える歩道を進んでいくと季節に彩られた植物たちがここに来る者を迎え入れてくれる。春なら艶麗な桜並木、そしてこの季節は淡い青、白、緑の紫陽花たちだ。恭子も紫陽花の前にしゃがみこんで頬杖を突きながら見惚れていた。
「そうだよね…。もう今日から六月か。一年なんてあっという間だね」
恭子の目の奥にも淡い紫陽花が映るが、どこか物悲しさが漂っていた。私も恭子も六月が来ると憂鬱な気分になってしまう。理由は二つ、ジメジメとした梅雨がやって来るから。そして、私の兄である賢太郎の命日がやって来るからだ。

 私の兄である賢太郎は五年前の六月八日、この深大寺通りで交通事故に遇い亡くなった。その日、兄は恭子と紫陽花を見に植物公園へ行く予定だったのだが、約束の待ち合わせ場所へ彼女がなかなか現れなかった。
『今日じゃなかったのか?』『待ち合わせ時間を間違えたのか?』『何か事故にでもあったのか?』
寂しさと不安に押しつぶされそうになっていた兄は、一時間後、向こう側の道路から走ってこちらに向かって来る恭子をようやく見つけた。余程うれしかったのであろう、私と違い感情がストレートに出る兄は恭子しか見えなくなり、彼女の姿を見るや否や道路を駆け渉ろうとしてトラックに轢かれてしまったのだ。

「今年も一緒に紫陽花が見られて良かったね、光太郎」
恭子はそんな昔の出来事を振り払うかのように私に微笑み、その後、またあのスキップのような足取りで歩き始めた。私は大きく頷くことしか出来なかった。恭子が一緒に見たかった相手は私なのか、それとも…。俯きながら歩く私を尻目に彼女は深大寺に向かって行く。その後姿が少しずつ小さくなって映る事に私と恭子との距離が本当に離れてしまうような錯覚を覚えた。一瞬目の前が暗くなる。そして、いつも恭子が私に向かって話してくれた言葉が真っ暗な視界から救い出す一筋の光のように甦ってきた。

「光太郎、本当に想っている相手なら、喋らなくたって顔を見れば何を考えて何を求めているのか分かるものなのよ」
記憶の中の恭子が私の顔を覗き込みながら話しかけてくれる。私の思いとは…。
「私は光太郎を想っている。だからあなたの事は全てとは言わないけど、何を望んでいるか位は分かっているつもりよ。光太郎もそうでしょ?」
そうだ。私も分かっている。恭子が何を望んでいるか。何を求めているのか。叫べるものならいつでも叫んで伝えてあげたかった。
私は分かっている。恭子も分かっているはずだ。求めている事がもう叶わない願いであるという事も。彼女が立ち止まってこちらを振り返ってくれれば、周りの人など気にもせず私は声を大にして叫んであげたかった。もうどうする事も出来ないその残酷な願いを早く忘れてもらえないかと。

「賢太郎と光太郎と私は必ず出会う運命だったのよ」
 また記憶の中の恭子が私に向かって話しかけてくれる。私と兄は八歳も離れていて、しかも腹違いの子だった。兄は鼻筋も通っている父親似のハンサム、活発で好奇心に溢れどんな人ともすぐに打ち解ける事が出来た社交的な存在、私はどちらかと言えば母親似でコミュニケーションを積極的に取るより、一歩引いて人を観察している方が好きな性格と兄弟といえども容姿・性格どちらも全く異なっていた。それでも兄・恭子・私はいつも皆一緒に行動し、恭子は私と兄に対して平等に接し愛してくれた。
 『光太郎、俺は恭子と結ばれたいわけじゃない。俺と光太郎が恭子にとって、ずっと忘れられない存在として残っていたいだけなんだよ』
私と兄の二人でいる時、兄は私にいつもこう話してくれた。私はまだ幼くその言葉の意味がちゃんと分からなかったが、情熱的な目を輝かせて想いを語る兄に対して
『でも、兄さんと恭子はお似合いだと思うけどな』
と言うと、兄はいつも照れくさそうに笑っていた。兄と恭子が並んで歩き、それを見守る自分がいる。皆が一緒にいる、それが幸せだと思っていた。

深大寺の境内に入ると紫陽花は一層輝きを増したかと思えるくらい鮮やかなブルー一色に季節の壁画を作っていた。咲き並ぶ紫陽花を手で触れながら嬉しそうに恭子は本堂に向かっていく。
「光太郎もちゃんと目を瞑ってお祈りをするんだよ」
恭子がお賽銭を入れ手を合わせる。私も一緒に目を閉じる。いつもここで私が願う事はただ一つ、これまでと同じく何ら変わることなく恭子と同じ時間を過ごせますように。願い終わった私は横目でチラリと隣を見る。彼女は何を願っているのだろうか?
「ねぇ、光太郎。今日はこの後、あそこに寄ってもいいかな?」
目を開けた恭子が真剣な眼差しで話しかけてきた。私は無言で頷く。向かう場所は分かっている、兄の処だ。私と恭子は本堂を抜け石畳の脇道に出た。木々が光を遮っているので、先程の深大寺通りとは違い空間全体がひんやりとしている。
「今日もね、光太郎とずっと一緒にいられますようにとお願いしたんだよ。嬉しいでしょ?」
私は精一杯嬉しそうに笑ってみせたが、実際に認めてしまうと恭子の言葉の裏を探ぐろうとする今の自分の心境が冷えた石畳の感触と重なり体の奥にまで侵食しくるようで『うん』と言葉では言えなかった。いつもは立ち寄る花屋も通り過ぎ、恭子はまっすぐ歩いていく。また私は小さくなった後姿を追いかけなくてはいけなくなってしまった。恭子はどんどん離れていく。
いつの間にか私は走っていた。懸命に走った。息を切らし走りながら彼女を追いかけた。追いかければ追いかけるほど、目の前の恭子ではなく記憶の中の恭子が視界に広がってくる。白く靄がかかった私の想い出の中の恭子はベッドの上で泣いていた。
「賢太郎、寂しいよ。賢太郎…」
私は知っている。恭子が仕事で疲れていた後や、何か不安になった時に眠りながら兄の名を呼ぶ事を。目から涙が零れ落ちている寝顔を見ながら、私は何もしてあげる事が出来なかった。ただ、彼女を包み込むようにして一緒に眠りにつくことしか出来なかったのだ。兄が亡くなってからの五年間、その情景は幾度となく繰り返された。幾度も幾度もそれ自体が終わらない夢の如く繰り返されたのだ…。

「ほら光太郎、もうすぐ着くよ」
どうにか追いついた私の目にも天まで聳え立つ位大きな慰霊塔が見えてきた。あの慰霊塔の下に兄は眠っている。走りながら、恭子を追いかけながら、私ははっきりと分かった。私は恭子を想っている。恭子を見守りながら想い続けている。しかし、恭子が今も心からずっと想い、愛し続けているのは兄なのだと。そしてもう一つ、兄が言っていたあの言葉の意味も。
「久しぶりだね、賢太郎。また逢いに来たよ」
今日、墓前で私は兄に改めて報告が出来るだろう。恭子はずっと兄の事を想っている。兄をひとときも忘れた事はない、恭子の中で今も一緒に生きているという事を。
「ほら光太郎、一緒に目を瞑ろう」
恭子が目を瞑った。うっすら涙が見える。私は目を瞑らず、ただじっと聳え立つ慰霊塔をゆっくり見上げた。兄に報告するためだ。
私も兄もこれからずっと恭子と結ばれる事は無いだろう。それでも構わない。結ばれる事だけが幸せではないからだ。その人にとって忘れられない存在になる事、それこそが私と兄の幸せなのだから。そうだろう、兄さん。
私は力いっぱい吼えた。慰霊塔の脇に建つ紫陽花が供えられた墓石の主の名を。
―   愛犬 賢太郎 ここに眠る 享年 十歳 ―

加藤 はるき(東京都府中市/27歳/男性/会社員)

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