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<第4回応募作品>「虹」 著者: 北野 香菜

新緑が濃い緑に変わり始めた頃、私は失恋した。友人からのメールで、彼が結婚するらしいと知ったのだ。しかもいわゆる「できちゃった婚」とのことだった。
咄嗟にメールの内容を理解することができなくて、何回も読み返すうちに全身から冷たい汗が吹き出てきて、私はその場に座り込んでしまった。
最近、避けられているのはわかっていたが、こういうことだったのか。
三年越しのベタ惚れの恋だったので、途方にくれた私は、とりあえず友人に会って話を聞いてもらったり、ビールを飲んで泣いたりしてみた。
でも本当に辛いのはそれからだった。

その頃私は、資格試験の勉強をしながら、深大寺の近くにある小さな食品会社で受発注のバイトをしていた。毎日九時に出勤し、データを打ち込んだり、読み合わせをしたりして、四時半になると退勤して、一人暮らしのアパートに帰って勉強した。
朝はバスを利用して通勤したが、交通費の節約と運動不足の解消と気分転換を兼ねて、帰りは三鷹にあるアパートまで三十分かけて歩くことにしていた。
園芸店が軒を並べる深大寺脇の坂道を上り、植物公園の裏門を過ぎてフェンス沿いに進み、桜並木が美しい公園通りを渡って、自由広場の中を突っ切るのがお決まりのコースだった。
自由広場にはシロツメクサのなだらかな丘があり、その丘の向こうにはこんもりと木立が茂っていて、どこか外国の公園みたいな雰囲気が気に入っていた。私は時々ベンチに腰掛けてボーッとしたり、ジョギングや散歩をする人を眺めたりして時を過ごした。

人はあまりに辛い時には、その辛さを感じないように、全ての感覚を麻痺させてしまうのだろうか。
私の日常生活はそれまで通りに続いていたが、何を食べても美味しくないし、お笑い番組を見ても笑えない。道行く人がきれいね、といって指差す花にも、心が動かない。全ての出来事が別世界で起きていることのようによそよそしく感じられて、生きているという実感が持てなかった。
ただ、もくもくと仕事をこなしている時はそんなことを考えなくてすんだし、仕事帰りに緑の中を歩きながら頬に風を受けたり、鳥の声を聞いたりしている時だけ、化石のように固まった心に血液が流れ込む感じがして、乾いた瞳から涙が滲み出たりした。

夏も近いそんなある日、自由広場のお気に入りのベンチに座って、白い大きな花をつけた泰山木を眺めていると、隣のベンチから争うような大きな声が聞こえてきた。
横目で見ると、そこには時々見掛けるゲイのカップルと思われる男性二人がいた。彼らは天気の良い日など、仲良く草の上に寝転んだり、ベンチでそれぞれ本を読んだりしていた。一人は筋骨隆々のマッチョタイプで、一人は線の細い美少年タイプだ。
梅雨明け前なのに早くもランニング姿のマッチョが、怖い顔で腕組みをしている。美少年の華奢な腕の中には茶色の塊があり、もぞもぞと動いている。どうやらその塊が争いの種らしい。
「オレはごめんだね。生き物はキライだってこと、知ってるだろ?」
しかもブサイクな犬、とマッチョは付け足した。
うーん、確かに。美少年の腕の中の塊は毛の艶も悪く、お世辞にも可愛いとはいえない貧相な面構えの小犬だ。
「じゃあ、このコはどうすればいいの?」
懇願するような声を出した美少年と目が合って、私は胸に痛みを感じて下を向いた。やや垂れ気味の潤いをたたえた目の形や眉間のホクロが失恋した彼に似ていたからだ。
夫婦ゲンカは犬もくわないと言うし、私は早々に席を立ってベンチを離れた。自分の立場を理解しているのか、小犬がくうんと切なそうな声をあげた。
その夜、彼の夢をみた。辛い出来事は何かの間違いで、全てが以前と同じハッピーな状況に戻っているという夢。彼の優しい笑顔に安心して、私は心から笑っていた。
目覚めたら真夜中だった。私はぼんやりとした頭で、あのメールが伝えた事実は何も変わっていないと悟った。布団にうつ伏せて声をあげて泣いた。
朝起きたら、少し元気になっていた。

その年最初の蝉が鳴き始めた頃、私は泰山木の見えるベンチで、ブサ犬を連れた美少年と再会した。私が例のごとくボーッと座っていると、彼らがやってきて隣のベンチに座った。なんとなく元気がない。
「このコが粗相しちゃったの」
自分が失敗したかのように美少年がしょんぼりとつぶやいた。ブサ犬も神妙な面持ちでおとなしくしている。私は曖昧にうなずいた。
「小さいんだもの、仕方ないわよね」
言いながら美少年はブサ犬の鼻をつついた。
「ところであなた、最近、虹を見た?」
唐突な問いかけに、私はつい彼の顔を正面から見てしまった。そうして自動的に胸がズキンとするのを感じた。
「虹?」
「そう、この景色には虹が似合うと思わない?」
私は丘に続く木立とその向こうに広がる空を眺めて、虹が架かったところを想像してみた。確かにぴったりだ。虹。虹なんて随分見ていない気がする。
その時、子供たちの歓声が聞こえてきた。見ると、保育園のお散歩なのか、若い女性に連れられて五、六人の子供がはしゃぎながら歩いていた。
「小さい子って可愛いわよね。」
美少年が目を細めて、子供たちに手を振った。
「私たちって子供が作れないから。」
美少年が付け足すようにぽつりと言った。
子供。好きな人の子供を産むって、きっと最高に幸せなことだろう。
私も大好きな人の子供は産めなかった、と心の中でつぶやいた。

その日はお昼を過ぎた頃から、雲が厚く空気が重たい感じだった。遠くの空でごろごろと怪しい音が響いていた。夕立が来る予感がした。
職場を出る頃には大粒の雨がボツボツと降り始めていた。足早に歩いていると、深大寺の山門を過ぎたあたりで雨足が強くなり、みるみるうちに土砂降りになった。雷の音も大きくなってきた。
雨宿りする場所もなく、私はびしょぬれになりながらほとんど用をなさない折りたたみ傘をさして坂を上った。着ているものはべったりと肌に張り付き、足元が小川の流れようになった道を歩いていると、ぼんやりしていた感覚が覚醒していくような気がした。
総合体育館前の信号を渡るころには稲光まで加わったので、私は屋根のある休憩所に駆け込んだ。一息ついて傘をたたむと、そこには先客がいた。
例のマッチョとブサ犬だ。私が会釈すると、マッチョもブサ犬を抱いたままうなずいた。ブサ犬は雷鳴が怖いのか、きゅうきゅうと情けない声を上げてマッチョの腕の中で小さくなっている。
私たちは黙って夕立が去るのを待った。ごろごろピカッが来ると、マッチョが「よしよし」とか「大丈夫」と、怯えているブサ犬に声をかけていた。私は手提げからハンカチを出して、気休めに顔や腕をぬぐった。
やがて雨は小降りになり、空が明るくなってきた。そこに美少年がやってきた。
「無事でよかったわ」
美少年は持っていた袋の中からタオルを取り出し、一枚をマッチョに渡し、もう一枚でブサ犬を拭いてやっている。よくみると、ブサ犬はブサイクななりに愛嬌のある表情になっていた。
「あなたもどうぞ」
美少年が振り返ってタオルをさしだした。胸がちくっと痛む。
「銀行の粗品だから、遠慮しないでどうぞ」
目を細めて微笑む彼に頭を下げて、私はタオルを受け取った。
「ラブ、行くぞ」
マッチョがブサ犬に声をかけた。ラブ、というのがブサ犬の名前だとわかると、私は泣きたいような笑いたいようなくすぐったい気持ちになった。
再び日が差してきた広場の方へ歩き出した二人と一匹は、何だか家族みたいだった。
粗品のタオルはふんわりと柔らかくて良い匂いがした。私はびしょぬれの頭や腕をごしごしと拭いた。
気がつくと、蝉が再び合唱を始めていた。深呼吸して見上げた空に、大きな虹が架かっていた。

北野 香菜(東京都調布市/45歳/女性/嘱託職員)

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