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<第4回応募作品>「アゲハ」 著者: 彦々

 写真で見た「深沙大王像」が好きだった。
「わたしのまち」という授業で偶然見つけた写真だ。
 昭和四十七年、小学一年生だった私は他の子に比べかなり見劣りする体躯だった。写真の大王は、紅い皮膚に筋肉の鎧を纏い、髑髏の胸飾りをつけている。戦闘ヒーローとは異質の存在感に囚われ、憧れたのだ。
 そんな経緯を知ってか、その年の夏、父は二日と空けずに私を深大寺に連れ出した。

 布田天神を尻目に武蔵野市場を目指す、ゆっくりと歩く父を仰ぎ夢中で話しているともう目の前に城山の細い坂道が見える。一気に上り修道院の前にたつと深大寺の森が姿を現わす。そのロケーションが体感温度を俄かに下げ再び歩く活力をもたらす。深沙堂に一礼して山門の石段の前まで来るときまって父が十円玉を一枚くれた。それを握りしめ本道の賽銭箱まで駆け上がる。呼吸を整え大きく振りかぶりピッチャーのようにそれを投げ入れると私の参拝は終わり、再び全力で駆け下りる。毛氈の鮮やかな赤が眩しい門前のそば屋の縁台に腰掛け、下りてくる父の姿を「深沙大王」にダブらせ、じっと待った。
 もっとも穏やかな夏の想い出である。

 その年の冬、安息の日々が突然壊れてしまった。父が亡くなったのだ。
 消沈する母を私は黙って見守った。年が明けると母の故郷である姫路の子供に私はなった。その日から十余年、その町でそれなりに暮らしたが、懐かしい武蔵野への郷愁はついぞ頭を離れなかった。

 昭和五十八年、沈思する母をソデにして東京に舞い戻った。京王沿線の大学に通うようになった私は飛田給にアパートを借り、心地よい堕落に浸っていた。東京競馬場、京王閣、多摩川競艇どれも自転車で通える絶好の立地で大学への足は自然と遠のいていった。時折、母から届く書留は便箋だけをそのままに僅かな札を抜き取った。
 二年目の冬、まともに連絡すら取れない息子に業を煮やした母は、電報を寄越した。「キットカエレ」。
短い文面は、淋しい今の母の状況を物語っていたが帰る気にはなれなかった、その日から母が納得できる、帰れない状況を作り出すため奔走した。先輩の紹介で漸く見つけたアルバイトは年末年始が見事につぶれる、懐かしいあの深大寺のそば屋だった。
 
繁忙期までにはある程度の仕事をこなせるようにと乞われ、十二月中旬から深大寺に通い、店頭での甘酒売りに精をだした。
そんな折、店主が私に紹介したのが年下の美大生、松田尚美だった。
「西崎宣彦です。」
なんとも冴えない、気後れした挨拶を私はした。
「松田です。よろしくお願いします。」
歯切れのいい澄んだ声をもっていた。
少し斜めに頭を下げると短めの髪が顔を覆い、それを軽く右耳にかける。すると耳の先から耳たぶにかけて小さな痣があるのが判った。アゲハの鱗粉を思わせる紫桃色の紋様が鮮やかで思わず視線が止まった。尚美もその視線を感じとってしまった。慌てて顔を戻すが眼球がそれより若干遅れた。
「隠すの止めたの、それで髪短いの」
尚美は言った。
「えっ」
私は言葉に詰まり、動揺した。

 その日を境に足繁く通う先は深大寺に変わり、バイトのできる土日は尚美の右側に立つことを意識した。アイツはいつも変な処に立っていると言われたが気にならなかった。
 なんの進展も無いまま一ヶ月が過ぎた頃、先輩がとっておきの情報をもたらしてくれた。尚美が時々アルバイトを早く切り上げ向かう先が神代植物公園であること、画材を持ってバス停とは反対方向に帰るので間違い無いと言う。私は偶然を装い待ち伏せることにした。深大寺門、正門と閉園時間に合わせて自転車を走らせたがいつも空振りに終わった。
 やがて、暖かくなる春を前にして尚美はアルバイトを辞めてしまった。

 痛恨の極みである。肝心なときに限って弱気がいつも頭をもたげる。思い切って店主に住所あるいは電話番号を聞きだそうと近づくがいつも周りに人がいてそれも出来ない。アルバイトを辞める口実も見つからない。桜が咲き、じきにバラも咲く。忙しくなるのでそれも言い出せない、自分にそう言い訳をした

 新緑の頃、持て余した時間を潰しに寄った調布駅前の書店で尚美を見つけた。躊躇する心を殺し、渾身の勇気を振り絞り尚美に声を掛けた。
「あれっ、きょうは」
振り絞った勇気が空回りする。
「植物公園に写真を・・・皆さんお元気ですか」
少し伸びた髪が右耳を隠している。
「オレも時々行くんだ。バラとか見に」
嘘である。目と鼻の先にある植物公園には一度も入ったことがない。
「バラ、まだでした」
尚美が言う。慌てた私は、
「バラの花とかじゃなくて、バラそのものがいいんだ。茎とか葉っぱとか」
尚美が笑っている。萎えそうな気持ちが上気して、畳み込むように喋り続けた。狭い書店の通路を塞いで一時間近くも尚美は笑みを絶やさず、ずっと聞いてくれた。
 それを機に、二人きりで頻繁に会うようになった。
 少しずつではあるが、尚美が育った環境、境遇も分かってきた。宇都宮で父親が小さな電器店を経営し、弱視の兄がそれを手伝っていること、やさしい母親が陰になりそれを支えていること、最近は近くに大型量販店ができ経営が思わしくないこと、私よりはるかに苦学しているのが判った。
 七月のとある日、アルバイトを早めに切り上げ、神代植物公園で待ち合わせた。デッサンする尚美の右側にそっと座り、ただその様子をじっと眺めていた。やがて閉園をつたえる音楽が園内に流れ始めると漸く尚美が口を開いた。
「隠れよう、夜の方がもっといいと思う」
私はその言葉に従った。
 道具倉庫の裏に身を潜め、時間がたつのをじっと待った、徐々に作業員達が集まりだし他愛もない会話が聞こえてくる。ふと視線を左に移すとアゲハの耳が鮮やかに浮かび上がっている。躊躇わずに見続けた。視線が重なり、ゆっくりと唇が重なった。作業員の会話が遠のき、蜩の声が消えた。
 離れた唇は自然と右耳に向い、そっと触れた。
「フッフッ」
押し殺して尚美が笑った。
 聞かれてはまずいと思う気持ちと恥ずかしさを隠すために尚美を抱き寄せた。

 私は尚美を絶えず求めた。映画を観、食事をし、喧嘩をした。狭いアパートでヌードモデルをしたこともあった。

 一年も経つと私の狭いアパートは、尚美の画材で溢れ、同時に経済観念に対する食い違いが目立ってきた。少しずつギャンブルに手を出し、夜はできるだけ遅く帰った。尚美は何もいわずに耐えていた。それもまた私の鼻についた。
 夏休みが目前に迫る頃、また母から手紙が届いた。その希望に応えるという大義を胸に私は黙って、姫路に逃げた。
 三年ぶりの母は思っていたより元気だったがその喜び様は尋常ではなく、せめて夏の間は帰京させまいとつまらぬ用事を次々作り出した。
 九月になり漸く開放された私は、すぐさま飛田給のアパートに戻った。案の定、尚美の家財道具一切が消えていた。
「短いけれど楽しかった   ナオミ」
メモだけが置かれていた。
 失ったものの大きさに戸惑い私は泣いた。
 すぐさま隣接する街のアパートに向かったガ部屋は既に引き払われ、美大に問い合わせても住所変更の届出はなかった。校門の前に何日も立ち続けたが会うことはできなかった。

 秋の風が吹く頃、私は自身を奮い立たせ全てを清算する準備にかかった。思い出の品を破棄し、髪を切り髭を剃った。

そして、飛田給を離れた。

 あれから二十年が経ち、あの頃の仲間に偶然再会した。店主は還暦を迎え、今もなお元気に采配を振るっているという「西崎はどうしている」と気に掛けてくれているらしい。

 今日、ハンドルを握って向かう先を妻は知らない、先程から転寝をしている。
 駐車場は思った通り満杯だ。満開のバラとそばを満喫するためにやってきたのだろう。

 駐車待ちの車内に新緑の木々を縫って陽が差し込む、その光はアゲハのように鮮やかな妻の右耳を照らしている。

彦々(東京都三鷹市/43歳/男性/運転手)

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