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<第4回応募作品>「月夜の願い」 著者: 押切 優

 僕の初恋の人は、「喫茶 深大寺」にいた。
 中学1年の夏休み、ただ家でゴロゴロしている僕を見かねた父が、伯父さんが経営する「喫茶 深大寺」にアルバイトとして送りこんだ事で、僕らは出会ったんだ。

 彼女の名前は、沙和子さん。普段は明るく接客をしているのに、時折漆黒の長い髪の毛を、ちょっと憂いた瞳で耳にかける様は、どことなく影があるような気がして、初めて目の当たりにする年上の女性の魅力に、僕はみるみる惹かれていった。

 沙和子さんはいつも、白い大きな貝殻のピアスをしている。

 何か意味があるのかと、気にはなったけれど、彼女の口から「恋人」の二文字が出てくるのが怖くて、聞くことができないでいた。
   
そんなある日、カウンターの端に「深大寺観光マップ」が置いてあるのに気が付いた。

「深大寺……? そう言えばこの店の名前も深大寺だけど……」

 深大寺は、市内に実在するお寺の名前。この店が深大寺近隣にあるならともかく、ここは調布駅前だ。
 僕の素朴な疑問に、答えてくれたのは紗和子さんだった。

「深大寺は縁結びの神様で、マスターが奥さんと結婚できたのは、深大寺の神様にお祈りしたおかげなんだって。だからなんじゃないかな、このお店の名前」

 それを聞いて僕は、こっそり観光マップを一枚小さくたたむと、ポケットに忍ばせた。

 その日の夜、トイレに立つと、ベランダに紗和子さんの姿を見つけた。
 僕も彼女も、夏の間だけ、伯父さんのお店兼自宅に住み込みで働いているのだ。

「沙和子さん?」

 引き戸をあけ、そう問いかけた僕のほうを「眠れないの」と言って振り返った沙和子さんの瞳は、月の光に照らされ、一瞬だけ潤んでいるように見えた。

 紗和子さんの耳には、いつもの大きな白い貝殻のピアスがついている。ピアスとは、夜眠る時もするものなんだろうか?

「紗和子さん、ピアス……」

 思わずそう漏らした僕に、紗和子さんは「ああ」と言ってゆっくりと口を開いた。

「私、ずっと好きな人がいて。その人からもらったものなの。だからこれをすれば、眠れるかと思ったんだけれど……」

 やっぱり、沙和子さんには好きな人がいるんだ。中学生の僕が沙和子さんの恋愛の対象にならないことくらいわかっていたけれど、恐れていたことが現実になったことに、僕は、胸に矢を打たれたような痛みを覚えた。

「その人は……?」
「もう、会えない」

 そう悲しそうにうつむく沙和子さんを見ていられなくて、僕は口走ってしまった。

「会えるよ!」

 何言ってんだ? 僕。
 自分でも自分の心と言葉の矛盾さにおかしくなったけれど、僕は咄嗟に続けてこう提案していた。

「沙和子さん、深大寺、行こう」
「深大寺?」
「そう、深大寺の神様にお祈りすれば、きっと沙和子さん、そのピアスの人に会えるよ。だって、ほら。深大寺の神様は、伯父さんと奥さんを結んでくれたんでしょ」

 僕は、勢いよく紗和子さんの手をとった。

「ちょっと待って。今から行くの?」
「大丈夫だよ。自転車飛ばせば、こっからだったら三十分で行ける」

 そう言って僕らは、伯父さんを起こさないようにそっと玄関の鍵を開けると、紗和子さんを後ろに乗せ、真夜中の深大寺を目指して、自転車を漕ぎ出した。

 誰もいない裏通りを、僕と沙和子さんだけが駆け抜ける。まるで僕ら二人のためだけに、世界が用意されているみたいだ。

 山門へ続く道に入ると、自転車を降りた。
 そば屋が軒を連ねるその道は、昼間はさぞかし観光客で賑やかなんだろうが、今は深夜二時。外灯はほとんどなく、そば屋の軒下に飾られた風鈴が、生ぬるい風に乗って、カランカランと響く光景は妖しく、僕の背中を汗でびっちょりと濡らすのに充分だった。
どうにか山門まできたところで、僕は自分があまりに無計画だったことを知った。深大寺の拝観時間は当然のように過ぎていて、重厚な木の門が固く閉ざされていたのだ。
 不安そうに僕を見た紗和子さんに、僕は一瞬固まったのの、次の瞬間こう口走っていた。

「上ろう!」
「え? 上る?!」
「そう! せっかくここまで来たんだもん。壁上って、中、入ろうよ」
「でも、どうやって」
「えっと……、あれ!」

キョロキョロと辺りを見回して、一軒のそば屋の軒下に、ビールケースが積んであるのを見つけた。

「あれを台にして上っちゃおう」

 こうして何とか境内に忍び込んだ僕らは、まずは本堂にお参りを済ませ、その後、元三大師道に上った。
僕の隣で、紗和子さんが手を合わせている。
 何を祈っているのかわかっているだけに、胸が苦しかった。こんなに近くにいるのに、沙和子さんの心は、僕にはない。どこにいるのかもわからない、離れた男のところにある。
 紗和子さんが合わせていた手を解くのを待って、僕は精一杯明るく紗和子さんに言った。

「あのね、知ってる? ここのおみくじは、おみくじの元祖って言われてるんだよ。ねえ、引いてみない?」
「え、引くって言ったって、閉まってるし」

 深大寺のおみくじは、筒を振って、出てきた番号を巫女さんに伝え、おみくじを出してもらうため、巫女さんがいない時間帯はひくことができない。
 でも、僕は構わず紗和子さんに問う。

「上中下、どれがいい?」

 きょとんと僕を見つめた後、「じゃあ、上……?」と、小さな声で言った紗和子さんに、僕は手に隠していた葉っぱを一枚差し出した。

「おめでとうございます、大吉です。あなたの願いは何でも叶います!」
「あっはっは、本当に大吉?!」

 そう言って、目をぱっと輝かせて笑う沙和子さんを見て、やっと笑ってくれたとほっとする反面、胸が苦しかった。
 紗和子さんの笑顔は、僕を幸せにする。でも、紗和子さんの幸せの中に、僕はいない。

「ねえねえ、月がキレイだよ。満月なのかな」

 紗和子さんはそう言うと、元三大師堂の階段に座って、済んだ夜空を見上げた。僕も紗和子さんと並んで、夜空を見上げる。
 境内の木々が夜風に吹かれて、サラサラと音を立てる。

「気持ちいい」

 沙和子さんが風が吹くほうに向かって目を閉じる。月明かりに照らされ、うっとりするくらい妖艶で綺麗だった。
 沙和子さんの左腕と、僕の汗ばんだ右腕が接触する。
 僕の心臓は、もう一生分の力を使い切ってしまうのではないかと思ってしまうくらい、激しくポンプ運動を始めた。
 満月の光と、深大寺の神様の仕業か、僕の気持ちが、これまで以上に昂ぶった時だった。
  
「今日はありがとね」

 それはほんの一瞬の出来事。
 沙和子さんの唇が、僕の唇に、ほんの一瞬だけ重なった。

 次の朝、店に入ると、いつも僕よりも早く入り、掃除を始めている紗和子さんの姿がなかった。その代わりに、僕は伯父さんから、封筒を渡された。
 開けてみると、白い大きな貝殻のピアスが入っていた。

「何これ?!」
「ああ、ピアスだったのか。それ、死んだ大事な人からもらった形見だって言ってたよ」
「死んだ大事な人?! そんなの聞いてないよ。紗和子さんは?!」
「言うなって言われてたから黙ってたんだが、紗和子ちゃんのバイトは昨日までだよ。今朝は九時の快速に乗るって言ってたから、今追いかければ、まだ間に合うんじゃないか?」

 僕は店を駆け出ると、自転車に飛び乗った。
 夢中でこいで駅に着くと、改札に紗和子さんの後ろ姿を見つけた。

「紗和子さん!」

 僕は人目もはばからずそう叫んでいた。

「紗和子さん、僕、大きくなるから。紗和子さんの、このピアスの男性を超えてみせる。だから……、待ってて……」

 最後の僕の声は、もう紗和子さんには届かなかった。

         *

「これから、どこ行こうか」
 そう言って、コーヒーを口にした女性グループに、僕は「深大寺はどうですか?」と、「深大寺観光マップ」を差し出した。
結局僕は、中学一年の夏が終わっても「喫茶 深大寺」でアルバイトを続け、紗和子さんと深大寺にもぐりこんだあの日、十二歳だった僕は、十八歳になった。「へー、縁結びの神様なんですね。いいかも!」とはしゃぐ女性の後ろで、ドアベルがカランと、新しいお客の来店を告げる。いつも通り「いらっしゃいませ」と顔を上げて、僕は目を疑った。
 そこには、忘れもしない女性の姿があったから。
 言葉を発することができず、ただただ無言で見つめる僕に、彼女は優しく微笑んだ。
「ねえ、知ってる? 私があの夜、深大寺の神様に、何てお祈りしたか」

押切 優(東京都武蔵野市)

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