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<第4回応募作品>「夕陽の丘」 著者: 牧野 功

僕が君を愛し二人で築き上げてきたことが、今崩れようとしている。失われていくのだ。
君のいないこれからの人生なんて僕には考えられない。君と歩んできた想い出の数々。
激しい雨の上り坂や暖かな陽の当たる楽しい下り坂も一緒に歩んできた。君の日々は僕の毎日でもあった。君がどう感じ、なにを喜びどんなとき微笑むのか。君の一挙一動も呼吸のタイミングまでも僕のものとしてきた。
君にとって煩わしいこともあっただろうが、いつも笑顔で応えてくれた。その君が僕から離されていく。君の意思ではない。
魂が天に召されるのだ。僕には止めることができない。最新の医学も高名な医者たちも助けることができない。僕の深い悲しみや嗚咽の声も、神への祈りさえも君を引き留めることができない。まだ元気なころ紅葉を観たいという君を連れて山門をくぐったのが最後になった。そこから見る一面の深い秋景色にまだ残る緑のなんと鮮明だったこと。それに抜けるような青空が僕には、ねたましかった。
君は来年も見たいと言った。しかし、目を奪う赤や黄色の艶やかな落葉が日を経ずして、くすんでいくように君が急速に生気を失っていった。現在があるからこそ過去も分かち合える。まして、これからの人生を君なしで築き上げることはできない。どうか浅い眠りなら覚めておくれ。これからどう生きていけばいいのか、教えておくれ。

僕たちが恋に陥ったときのことが鮮明に甦える。音楽会のことだった。座席を間違えた僕をとがめることもなく、隣りですから、そのままでいいですと言った。僕は今までに感じたことのない戦慄を覚えた。そのときは言葉も交わせず、ただ横顔を盗み見ることしかできなかった。偶然がもう一度起こった。
一ヶ月後別の音楽ホールで座席を確認すると隣りに君を発見したのだった。僕はもとより君の驚きは困惑を越えて笑顔を作っていた。偶然というよりも運命ではないかと思った。心の底から湧き上がるものが身体の芯から僕を激しく揺さぶった。君のあくまでも清楚な明るさが僕の内部でこだましたのだった。
君は水の精のようにどんな形にもなれたし、その姿を溢れる泉のごとくいつも新鮮さを保っていた。僕には汲みきれない不思議な泉。それが君だった。深い泉なのに涌き出る底まで濁りなく見透すことができた。君の目を見つめたときの僕の印象だった。会うたびに泉の溢れる水が僕の心の隅々を潤してくれた。僕は最高の宝物を手にしている喜びを実感した。この思いが君にも伝わって、君の笑顔を見たとき僕たちは確信した。将来を誓ったのだ。一緒に歩もう。共に暮らそう。ふたりで始めよう。新しい生活を。素晴らしい人生を切り開こう。この誓いが昨日のことのようによみがえる。あの山門を抜けて、小高い丘から見る森や木立は若葉に萌え、僕たちを祝福してくれた。空は、どこまでも高く青く、僕たちを迎え入れてくれたのだった。

時間は、ゆっくりと流れていた。僕たちの生活は毎日が楽しいことの繰り返しで、いつもその余韻を語りあった。それは、まるで雲の上か草原を泳いでいるようだった。花々がいろどりを競い、風に乗って花びらが舞う。
見上げると樹々の先から止めどもなく落ちてくる。僕たちは降り積もる花びらをかき分けはるか梢の先に大空を臨んだ。そこには白く大きな雲がゆっくりと流れていた。

ひとりなって、この丘に来たが、どうしても心が重くなるばかりだ。音もなく雲が行き過ぎる。残された者の気持ちは寂しさだけではない。静寂がいっそう重苦しさを募らせる。
遠くの木立から数羽の鳥が飛び立つのを合図に夥しい鳥たちが一斉に大空へ向う。森の上で二三度遊弋しつつ、その輪を広げながら陽の沈む方へと向った。小高い木々の梢が長い影を作る。僕の心の中から君がだんだんと遠くへ行ってしまうのを覚えた。本当に君は、この夕陽に吸い込まれてしまうのか。
鳥たちが朝になると舞い戻ってくるように君も明日には帰ってきておくれ。どうして僕だけを置いて逝ってしまうのか。約束したではないか。いつでも僕たちは一緒だって。
死ぬときも。どんなときだって。逝かないでほしい。戻っておくれ。僕のところへ舞い戻っておくれ。

なにもかもが去ったあとに感ずる静寂。
足下から冷気が忍び寄るさびしさ。寂寥感がひしひしと感じられる。このままじっとしているだけで、安らいでいくものではない。
ひとつひとつの共にした時間の長さが今ではその長さだけ孤独を深めさせる。思い出が僕を悲しみの底に追いやるのだ。君もひとりで旅立つのは、きっと寂しいだろう。
君の力になれない僕を赦しておくれ。時間よ止まれ。時間よ、昔へ戻れ。元気なころへ戻ることができれば、僕はすべてを捨ててもいい。よく腕の中で静かに目覚めていた君が今ではもう永遠に眠りから覚めなくなる。
前夜の楽しい夢を語ってくれた君はもう言葉を知らない。耳たぶに君の囁きが聞こえる。明るい声が僕の耳底に染みついて離れない。目を閉じれば瞼の裏に焼きついた君の笑顔がある。このすべてが過去になっていくのか。想い出になってしまうのか。残される僕がひとりぼっちになっていく。

山門に春がやってきた。ここから植物園へ抜ける緩やかな坂。途中の丘に若い緑が拡がるころ僕は君との想い出を懐かしむ。バラ園の芳香と鮮やかな深紅が好きだった。坂道に沿って花が咲き乱れ、虫たちが飛び交う。
ここからの眺めを楽しんでいた君。斜面の芝生で仰向けになって雲の流れを眺めたこと。
さまざまに変わっていく雲の形が可笑しくて笑い転げた君。天道虫が這い上がり大騒ぎをしたこと。すべて懐かしい思い出となった。この丘もいつかは若木が大きな樹となり、やがては小さな森になって鳥たちを宿すことだろう。戻ることができるなら、僕たちも生まれ変わり、その森で再び出会いたい。
そうだ、きっと僕が君を迎える。太陽を背にした君が近づいてくる。夕陽を受けた僕の顔が火照り、眩しさに圧倒されながらも君を待つ。そしてこの手で君を迎え、しっかりと抱きしめるのだ。もう誰にも渡さない。渡すものか。梢から一群の鳥たちが空を目指す。
僕たちの頭上で大きく旋回する。祝福してくれる。生きている。新しい人生が始まる。
そして待つ。君の笑顔と明るい声が僕をこの上ない幸せで満たしてくれることを。

牧野 功(東京都三鷹市/65歳/男性/システムアドミニストレータ)

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