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<第4回応募作品>「睡蓮の夢」 著者: 星野 有加里

「渋滞で一人遅れてるんだ!もう間に合わないっ。君、頼むよ、代わりに演(や)ってくれっ」
 予報通りにパラパラと降り始めた雨を避け、神代植物公園の大温室に入るや否や、突然、男性からハンドベルを突きつけられた。
「えっ…?」
 呆気に取られて、二十歳くらいの男性とハンドベルを交互に見比べる。休憩室の方から、ラテンギターの弾き語りが聴こえてくる。どうやらコンサートが開かれているらしかった。
「きらきら星は知ってるだろ?『ラ』のベルの出番は二回だけ、簡単だよ。もう時間がない、あのギターの次なんだ。マジで頼むよっ」
 彼は強引にハンドベルを私の手に握らせようとし、慌てて振り払った瞬間、リーンっ、と真夏を跳ね返す涼やかな音色が響き渡った。
「無理よっ、そんな急に言われても困る、だいたいハンドベルなんてやったことないし」
 私は警戒心も露わに彼を睨みつけた。よりによって何で私なの?誰か他にいるでしょ?
「本当に困ってるんだ、どうか頼むよ」
この空のように半泣きの必死な形相で懇願され、思わず私は怯んだ。『神』という名を冠したこの公園(ばしょ)で、情けを無視したらバチが当たるだろうか……。数秒ほど逡巡した後、観念して不承不承、ハンドベルを受け取った。
「…ミスしたって、文句は言わせないからね」
「ありがとう!大丈夫、絶対君はミスらない」
彼は一転して、大温室の睡蓮のようにパっと華やかな微笑を咲かせ、確信的に断言した。
「な、何を根拠に、」
「ヤバイっ!もう出番だ、行くよ、急げっ」
ラテンギターの旋律が止まり、慌てて彼は私の腕を掴んで休憩室の方に走り出す。
「ちょっと待ってよっ」
 もつれそうになる華奢なサンダルで、既に他のメンバーが待つ簡易ステージに駆け上る。
「皆さん、本日は、コンサートのテーマである睡蓮のような美人の飛び入り参加です!」
 彼が軽快な口調で客席に私を紹介すると、観客たちはまばらな拍手をした。私は、二十人足らずの観客と右手のハンドベルを見下ろしながら、皮肉げに自嘲の笑みをこぼした。
ハンドベルだって?きらきら星だって?こんなわずかな観客を相手に、しかも植物公園の温室なんかで?一年前、大ホールでソロコンサートを開いたこの私が?…嘲笑(わら)っちゃう。
「『ラ』の出番は二回。ドドソソララソの『ララ』だけだから。『ソ』のオレの次に鳴らして」
 隣に立つ彼が、素早くこっそり耳打ちする。
最初のベルが鳴り、演奏が始まる。私は緊張しつつも、なんとかミスなく役目をこなした。
「ブラボー!ノーミスじゃん、グッジョブ!」
 彼は満足げに笑い、ピっと左手の親指を立てて見せた。私もホッとして、笑って応じる。
皺だらけの手で懸命に拍手をする老夫婦。ニコニコとそっくりな笑顔で拍手をする高校生カップル。小さな手のひらで力いっぱい大きな拍手をする無垢な男の子。ここには二つとして同じ拍手などない。一人一人の素朴で純粋な優しい感動が、私にまっすぐに届く。
かつて、大舞台で演奏した時のような盛大な拍手でも喝采でもなかったけれど、長らく忘れていた充足感や手応え、悦びが、確かな浸透力で私の内部へじわじわと染みこんできた。
「ありがとう、マジで助かったよ。お礼に、深大寺名物の蕎麦を奢るよ。昼飯まだだろ?」
 休憩室を出ると、彼は気さくに誘ってきた。
「まだだけど…。あ、それよりねえ、さっき、絶対君はミスらないって断言したのって…」
「ああ、大温室の人だかりの中で、手だけを見て選んだ。形の良い甲、長くて細くて、しなやかな指。楽器の才能がある手だったから」
 彼は指先で私の手を示す。私は驚愕の余り言葉を失い、彼を凝視したまま立ち竦んだ。
「あ~、無事に終わって安心したら、急に腹減っちゃったよ。早く蕎麦食いに行こうぜっ」
彼に促され、複雑な心境で温室を出ると、いつの間にか雨は止んでいた。中庭の池には、満開の睡蓮が咲き誇る。真夏の太陽を存分に享受し、白く気高く清廉に、暑気を振り払う涼しげな佇まいで池に漂う。不意に彼は立ち止まり、愛おしそうな眼差しで睡蓮を眺めた。
「今日のコンサートは、ウォーターリリーコンサートって言って、睡蓮がテーマなんだ。ウォーターリリーって、睡蓮って意味だよ」
「そう言えば、さっきそんなこと言ってたね」
「睡蓮は、朝陽が昇って明るくなると花が開き、暗くなると閉じるんだ。夜が来れば、ちゃんと眠る花、だから『睡蓮』って言うんだ」
 ハっと胸を衝かれた。夜、眠る花…。眠りを失った私には、睡蓮の健やかさが急に眩しく映った。一瞬にして睡蓮に心を奪われる。
 ねえ睡蓮、昼は灼熱の太陽を謳歌し、夜には冴え冴えと光る冷たい月影にその熱を溶かして眠り、あなたはどんな夢を見ているの?   
私も眠りたい。太陽と月の光を乱反射させた水面に神秘的にたゆたえる睡蓮のように、厳かな静謐と安息に抱かれて眠りたい…。
「太陽に愛されている花なのね」
 純白の気品を振り巻いて、燦然と浮かぶ睡蓮を羨みながら呟いた。夜になっても眠れない私は、太陽に愛されていないのだろうか?
「君が飛び入り参加したら、急に雨が止んだ。晴れ女、君も充分、太陽に愛されてるじゃん」
 彼はまるで私の心を見透かしたように、すっかり晴れ上がった空を仰いで言った。彼の言葉は、嵐の前の突風のように私の心を吹き抜け、渦巻いていた暗雲を一気になぎ払った。
「じゃあ、その晴れ女に感謝して、深大寺一とびっきりおいしいお蕎麦をご馳走してよ」
 照れ臭くて、強気に言い放ち、歩き出した。 

彼は深大寺通りに面した蕎麦屋に連れてってくれた。打ち立ての新鮮な麺は、もちもちと弾力があり、プツっと潔く噛み切れて本当においしかった。私は、ざる蕎麦を食べ終えるまでに、彼の名は翔で、二十一歳の大学生で、音楽サークルに所属し、フルートやハンドベルをやっていることを知った。翔は、天ぷら蕎麦を完食するまでに、私の名は舞で、町田に住む二十五歳だということを知った。
蕎麦屋を出た後、旧暦の七夕飾りで華やぐ山門前を歩いていると、彼は心配げに尋ねた。
「舞さん、顔色悪いけど大丈夫?気分悪い?」 
「大丈夫よ。ただ、夜眠れないだけだから」
「眠れないって…、不眠症ってこと?」
 翔は驚いたように、目を見開いた。
「ん…、まあ、そんな感じかな」
「なにか、眠れない理由でもあるの?」
 遠慮がちに問われ、不思議と私は初対面の翔に、躊躇いなく自然に話していた。
「翔くんの直感通り、私、これでもそこそこ名の知れたピアニストだったの。それが一年前、コンサート本番で大失敗をして、もうボロボロ。批評家たちにも目茶苦茶こきおろされた。それから…弾けなくなっちゃったんだ。未だに、何度もあの時のことを夢で見るの。だから寝るのが怖くなって、いつの間にか眠れなくなっちゃった。…なんか弱いよね、私」
 極力、感情を交えずに淡々と話した。何も答えず黙って歩く翔に、にわかに不安になった時、彼はフラリと通りがかりの土産物屋に入った。そして、紙縒付きの短冊を買うと、店主にペンを借り、何やら短冊に書き始める。
近づいて覗き込んだ瞬間、ハッと息を呑んだ。
『舞さんが眠れますように。 翔』
「昔から、どうにもならないことは、後はもう神頼みって決まってる。深大寺の神様経由で、彦星と織姫に願い事を届けてもらおうぜ」
翔は、店の前に飾られた笹に短冊を結びながら軽やかな口調で言った。
熱い感情が渦になって込みあげてくる。
「…ありがとう」
泣きそうなのを堪えると、声が低く掠れた。どんなに共感を訴える慰めの言葉より、親身で的確な助言よりも、遙かにずっと救われた。
「極めつけに、ついでに深大寺に寄って、祈願していこう。舞さんが爆睡できるようにさ」
 わざとおどけて言う翔の心遣いが染みた。何十枚もの祈りが捧げられた笹に、新たな願いを託した金色の短冊が、ひときわ奔放に一陣の風に揺れていた。

「舞さんは、マリーゴールドか。『オレンジ色の花が、希望と心の輝きを呼び、幸運を招きます』だって。へえ、舞さん良かったね!」
 参拝の後、深大寺本堂の回廊で、『花おみくじ』を引くと、オレンジ色のマリーゴールドの押し花が添えられたお守りが入っていた。
真夏の陽射しに照らされた翔の横顔を、私は眩しげに眼を細めて見上げた。数時間前に偶然出逢ったばかりの彼が、私に希望の序曲を聴かせてくれた。燻っていた心が、徐々に輝きを取り戻す。止まっていた時間が、ゆっくりと流れ始める。今日帰ったら、ほったらかしのままのピアノを調律してみようか…。
「オレは矢車草だ。人と人との縁を結ぶって」
 翔は、ピンク色の押し花のお守りを見せた。
「そう言えば、深大寺って恋の神様なんだよ」
 意味深にお守りを私に突きつける翔に、ドキっと鼓動が高鳴る。四歳下も有効…かな?
「ねえ、舞さん、今度、深大寺の山門で野外コンサートをやるんだ。オレ、ソロでフルート演(や)るからさ、良かったら観に来てよ」
 得意げに誘う翔に、頷こうとした瞬間、ふっとある企みが脳裏を掠めた。
「ねえ、そのコンサート、一曲、追加可能?」
「えっ?」
「フルートとピアノのデュオなんてどう?曲は勿論、『きらきら星変奏曲』で」
「あ~っ、いいねっ!それ最高っ!」
 私たちは同時に共犯者のように笑い出した。絡み合うソプラノとバリトンの笑い声(デュオ)は、恋の前奏曲(プレリュード)。いつまでも響き続ける延音記号(フェルマータ)。深大寺の恋の神様に聴こえるように、二人だけの新たなる自由な恋の狂詩曲(ラプソディー)を奏でよう。     
笑い声は夏空に弾け、響き渡る。久しぶりに、今夜はぐっすりと眠れそうな気がした。真夏に咲く、真っ白な睡蓮の夢を見ながら…。

星野 有加里(静岡県島田市/女性/教員)

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