<第4回応募作品>「ヘブンリー・ブルー」 著者: 豊田 耕志
その男のすることを見て、涼子は思わず噴き出してしまった。寺で柏手を打ったのである。そんな涼子に男が気づき、二人の目が合う。境内には蝉の声。
「……すいません……」
涼子が謝ると、男の方は笑いながら首を横に振った。気にするなという意味らしい。
「やっぱり変ですよね。僕もそう思います」
なんだ、変と分かっててやったのか、と涼子は心の中でつぶやいた。しかし、ならば何故。すると男が
「あの、変ついでにお尋ねしたいのですが、この辺りに”モンゼン”という蕎麦屋さんがあると思うんですが、ご存知ないですか?」
やっぱり変だ。”門前”ならその名の通りこの寺の門前にあって、ここ深大寺に来る途中で見かけないはずはない。キャリーバッグを引いているところを見ると、どうやら旅行者のようではある。しかしそのバッグの中にはガイドブックを入れていないのだろうか。
「……お店までご案内しましょうか」
「わぁ!いいんですか?それは有り難い」
お店の前に連れて来ると、男は、あれ?あれ?と繰り返しながら辺りを見回した。
「あれ?ここは通ったはずなんだけどな」
当たり前だ、と涼子は心の中でつぶやく。
「あ、そうだ。お礼と言ってはなんですが、何か召し上がって行かれませんか。もちろん私がおごりますよ」
「いえ、結構です」
涼子は能面のような無表情で断った。
「あー、やっぱりそばしふぉんケーキだけでもおごってもらえばよかったなー」
昨日のことを思い出しながら涼子はつぶやいた。門前のそばしふぉんケーキは涼子の大好物である。
神代植物公園の中は夏の草花で彩りに溢れていた。涼子は卒業研究に行き詰まると、気晴らしによくここを訪れていた。
さくら園まで来たところで、涼子は昨日の男を見つけてしまった。男は花の無いジンダイアケボノを見上げている。やっぱり変だ。関わらないようにしよう。そう思って通り過ぎようとしたが、残念なことに目が合ってしまった。
「あっ!昨日はどうも!」
あなたのおかげで旨い蕎麦にありつけましたと男はにこやかに言い、お辞儀をする。
「……今、何を見てたんですか」
涼子は疑問を素直に言葉にした。あぁ、やっぱり見られちゃってましたか、これはお恥ずかしい、と男は照れくさそうに笑いながら
「……アサガオ…を見ていました」
「…幻覚剤か何か服用でも」されてるんですか、と途中まで言葉にして、はっと涼子は口をつぐんだ。男はきょとんとしている。
「いや、あの、私、ICUの学生で、メジャーが生物で、その、ゼミの先生がこの前”アサガオの種子には幻覚作用がある”って言ってたのを思い出して、つい……」
涼子は慌てて弁解しようとしたが、時既に遅し。男は空を見上げて黙り込んでしまった。目には涙を浮かべている。
なにも泣くことはないじゃないか、と涼子は心の中で小さく反発する。すると男がぽつりとつぶやいた。
「…幻覚…だったのかもしれない…」
境内と同じ蝉の声。身動きのとれない気まずい空気。沈黙の中、涼子は我慢出来なくなり、口を開いた。
「あ、あの!何か召し上がりませんか!え、園内に、その、あぁ、そう!おいしい喫茶店があるんですよ!」
その男は佐藤康太と名乗った。福岡の商社マンだが、今は溜まりに溜まった有給を消化している最中なのだということだった。
「えっと、小林さんって呼んでいいのかな。すいませんね。何だか気を遣わせてしまって」
まったくだ。何で女子大学生が社会人に気を遣わねばならんのだ。
「あー、それで、他に何か聞きたいことはありますか?」
「柏手」
涼子はぶっきらぼうに言い放った。
「…怒ってます?…まぁいいや。あれはですね…あれは、そのー…恋人がよくやっていたんです。ありがたそうなものにはいつも。それで僕もやってみたくなって」
「…やって…”いた”…?」
「…ええ。本人はその…半年前に、病気で」
しまった。重い話に首を突っ込んでしまった。康太がつとめて明るく振る舞うのがかえて痛ましい。
「彼女はこの辺りの出身でして。それで、何て言うのかな、彼女と同じ物を見聞きしたくて、感じたくて」
「それで柏手。じゃあアサガオは?」
「彼女、アサガオが好きだったんです。それと入院中に一度だけ”神代公園には私だけのアサガオがある”って言ったことがありまして。なんでも一番好きな種類の種をどこかに埋めたみたいなんです。でもこれだけ広い公園でしょう?探しても一体どれが真希のものかわからなくて…それで、せめて心の中だけでも…木々一杯につるをからませて、空に向かって咲き誇るアサガオ達を想い描こうと思って…」
女々しい。が、こんなに一途な男性も今時珍しい。次第に小さくなっていく男を見ていると、涼子は更に尋問を続けたくなった。
「それで、幻覚かもしれないというのは」
「…何だか全てが嘘だったような気がしてしまって…。アサガオは見つからないし、門前の蕎麦を前にしても、そこに彼女の笑顔はありませんから」
そう言いながら、康太は急にふふふと笑い出した。
「彼女、可笑しいんですよ。どこの蕎麦屋に連れて行っても、不服そうな顔をするんです。”深大寺の、それも門前の蕎麦しか認めない”って。それでも蕎麦は好きだから、もの凄い勢いで食べてしまうんです。でね、本当はおいしかったくせに”まぁまぁね”って言うんですよ」
言い終えると、康太はふいに寂しげな表情になった。
「…一度、門前の蕎麦を前にした彼女を見てみたかった」
気まずい沈黙リターンズ。重みが増さないように、慌てて涼子が口を開いた。
「い、いつまでこちらに?」
「…明日の夜の便で。だから昼過ぎには空港へ向かうつもりです」
そう…ですか、と、涼子は俯きがちにつぶやいた。
翌朝、康太の携帯電話がけたたましく鳴り響いた。着信・小林涼子。
「どうしたんですか、こんな早くに」
「今すぐ深大寺まで来て下さい!」
「何かあったんですか?」
「いいから早く」
身支度もそこそこに深大寺へ向かうと、そこには涼子がいた。康太を急かすように手招きしている。
「早く!早く!」
そう言うや、涼子は駆け出した。康太は言われるまま後ろをついてゆく。着いた場所は”神代植物公園・深大寺門”。
「見て」
そう言いながら涼子が指差した先には、目の覚めるような、美しい青のアサガオが数輪咲いていた。
「私、思ったんです。折角アサガオを植えても公園が開く時間には花がしぼんじゃうって。でも、だとすると真希さんは、公園が開かなくても見られる場所にアサガオを植えたかもしれない。だったらきっと、公園の周囲のどこかだって。それで探したら、ここだけアサガオが咲いてたんです。だからきっと、これが真希さんのアサガオです。」
涼子の言葉は途中から康太に届かなくなっていた。康太は膝をつき、両手ですくい上げるようにして花に手を添えた。朝露を涙が打つ。康太が涙声で、精一杯言葉を出す。
「…綺麗な青ですね…まるで…まるで夏空を写し取ったような」
「”ヘブンリー・ブルー”って言うんです。”天上の青”」
涼子の言葉を聞いて、康太は泣き崩れてしまった。もう涼子の言葉は届かない。どんな言葉をかければいいのかも分からない。ただ、今は小さく見えるその背中を、涼子は強く抱きしめたくなった。
豊田 耕志(神奈川県/25歳/男性)