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<第4回応募作品>「ガトー・オ・ショコラ」 著者: 麻生 ケイ

 小学四年生の頃、初めて好きな人ができた。もっとも、恋焦がれるというものじゃなく、気になってしまうくらいだったような気もする。ただその日は今でもはっきり覚えている。
 四時間目に理科の実験があった。実験といっても机の上じゃなくて、公園で草木や虫を観察するというものだった。
 先生は列の先頭に立って笑顔で、しゅっぱあぁつと言った。それぞれの小さな手にはルーペか虫眼鏡が握られていた。空は晴れていた。雲一つなく、落ちてきそうなくらい青い。
「ねえ、昨日言ってたことって本当?」
 隣を歩いていたユウジが聞いてきた。コイツとは記憶がないからの付き合いだったから良く分かる。僕は聞こえないフリをした。なぜなら、前後の八個の耳がこっち向かってピンとたっているのを感じたから。
「ねえ 本当?」
 こうなったら、コイツは何百回でもこの質問を繰り返すに決まってるんだ。だから小さな声で、ウンと言った。本当に小さい声だったはずなのに、前を歩く二人と後ろを歩く二人が目を輝かせて近付いてきた。体が途端に熱くなる。僕はそれを夏のせいにした。
 僕ら六人でいつも一緒に下校していた。棒切れでチャンバラをしたり、追いかけっこをしたり、前の日のテレビの話をしたりした。きっとその延長だったんだ。昨日はなぜか『好きな人』の話になった。言いだしっぺはユウジ。オレも言うからみんなも言ってよ。何の取引なのかさっぱり分からなかったけれど、他の仲間はコレでもかというくらいに乗っていた。ユウジは恥ずかしそうに、オレの好きな人は、マリなんだよねと言った。で、二番目が― 。トップで選ばれたマリはクラスのマドンナ。頭が良くて、笑うと可愛らしいえくぼができた。
「オレも一番は同じ。三番は違うけどね。」
 いつの間にか、この話は進んでいた。そして、盛り上がっていた。他の仲間もユウジと似たり寄ったりの『好きな人』を発表して、マリのここがいい、あの子のそこは直した方がいいなどと、お節介な意見交換をしていた。ねえ、ケンタはどうなの? ユウジの目がキラキラしていた。怖いくらいに。その言葉を合図にみんながピタリと話すのをやめる。怖いくらいに。目を逸らして、逃げようとしたけれど、へんてこなフォーメーションで囲まれ壁際に追い詰められてしまった。どうせ、すぐに忘れちゃうだろうと思い、多分、柏木さんかなと呟いた。一瞬空気が止まる。みんながびっくりしていた。僕はもっとびっくりしてしまった。反射的に囲いを破って走り出す。言ったことをすごくすごく後悔した。
行列をそれないように歩きながら、ユウジはなぜかうれしそうに笑っていた。この顔は何かをたくらんでいるに決まってるんだ。そこから公園に着くまでは、どのへんが好きなの? どうして好きなの? いつから好きなの? 質問攻めだった。知らない、わからないとしか言えなかった。信号で、全体とまれの合図がかかったところで、柏木さんの後姿が目に飛び込んできた。こんな話をしているせいか、僕は少し栗色の長い髪を見つめてしまう。勿論、それがユウジの目に留まり、更に攻勢をヒートアップさせてしまったんだ。
 公園に着いた。木の葉っぱは太陽の光を集めて、つやつやしていた。セミの声が遠くから、近くから聞こえてくる。ただそれより間近で質問攻めは続いてた。僕がはっきりとしたことを言わないせいで、それは終わりそうな気配を見せなかった。探索開始の号令がかかっても、僕の周りの引っ付き虫は離れようとしない。マドンナ・マリは何人かの女友達と手をつないで、どこかを目指して歩いていった。どうしてみんなと同じマリじゃなくて、柏木さんなんだっけ。そういえば― 。一つだけ思い当たることがあった。
それは小学校に入ったばかりの頃だった。僕は文字通り、迷える子羊だった。たまにユウジと話すくらいで、後はぼんやりしてた。その日の昼休みも校庭の片隅にある砂場に座っていた。ぽこーんぽこーんと跳ねるボールの音を聞きながら、一輪だけ咲いていたたんぽぽを見ていた。気がつくと影が二つになっていた。振り向くと、ハイ、あげると言って彼女は唐突に何かを手渡してきた。そしてすぐにどこかへ走り去った。何も言えないまま、その後姿を眼だけで追いかけた。僕の手の平にはシロツメグサでできた小さな輪っかが乗っていた。こんなものと投げ捨てようとしたけれどできなかった。その頃からだった。柏木さんの後姿に目がいくようになったのは。
 草叢を団子になって僕らは歩いていた。ユウジはまだ食い下がってくる。ただ、その理由をうまく言葉にできそうになかった。だから、黙ったまま。時々、手に持った虫眼鏡を振り回す。けれど、ムキになればなるほど、コイツ等は満面の笑みを湛える。どうしたらいいんだろ。草の匂いの染み込んだ風が吹く。それさえ熱を冷ましてはくれない。
「やっぱり好きじゃない。」
「あれはウソだよ、ウソ。これでいい?」
 僕は噛み締めるようにそう言った。眩し過ぎて見上げられないくらいに太陽は光っていた。下を向くとコソコソ蟻が歩いている。目の前で仲間たちがどうしよっかと相談している。僕は、僕の胸の奥は、さっきまでの熱が一斉に集まって焦げるように痛む。
「じゃあ、証明してよ。」
代表者になったユウジが言った。他のみんながハトのようにバラバラに頷く。いいよ、そう答えていた。
 僕は柏木さんを探した。後ろにはコバンザメが五匹。僕はまだ名前すら呼んだことがなかった。席が近くになって、たまたま目が合っても逸らしてしまう。後姿を見つけると、泣きそうなくらい何かが乾いた。だから、だからこそ、変てこな噂を立てられる訳にはいかなかった。歩く。緑を踏む。見つけたいという気持ちと同じくらい、いないで欲しいと思う。体中が汗で濡れていた。やがて、何もかもと裏腹に切ない後姿を発見する。
「どうするの? どう証明するの?」
「いいから、だまってろ。」
 僕は彼女の方へ向かって歩き出す。彼女は友達と二人で小さな花を見ている。構わず近付いていく。目と目が合った。息を呑む。今度は逸らさないように。虫眼鏡を強く握って。
「あのさ、一緒に探さない?」
 柏木さんは困ったような瞳で僕を見る。そんな眼で見て欲しくなかった。お願い、と嘆願する素振りをして、目を閉じ、両手を合わせる。彼女はいいよと言った。僕の胸はドキドキしていた。耳はヒリヒリした。
「じゃあ、この辺でおもしろいものを見つけたら教えあいっこするのでいい?」
僕は頷く。ガチガチのロボットみたいに。彼女たちと少し距離が空くと、どういうつもり? どうするの? どう証明するの? 五匹のハイエナが寄ってくる。大丈夫だよ、任せとけとだけ答える。だれど、正直なところこの先は全く考えていなかった。断られるもんだと思っていたから、それで誤魔化してしまおうとしていたから。
 僕は焦っていた。それに追い討ちをかけるように、ユウジが彼女の方へ向かって歩き出す。他の四人もそっちへ流れていく。そして、小さな花を中心にして輪を作る。柏木さんとなにかを話し始める。笑い声が聞こえる。あんな風に笑うんだ。喉がカラカラに渇いていた。ユウジがこっちに来いよと目で合図を送ってくる。でも行けそうにないよ。悔しくて仕方なかったんだ。歓声が上がるたびに僕の想いは遠のいていく。でも、どうしようもなくて。だったら証明してやろうと思ったんだ。僕はゆっくりと歩き出した。
この前の理科は虫眼鏡を使った実験だった。ものをよく見るんじゃなくて、太陽の光を一点に集めて黒い紙を燃やすというものだった。すごく楽しかった。だから、紙だけじゃなくて、落ち葉や小石を焦がして回った。
 誰にも見つからないように近付いていく。光はたくさんある。後は集めるだけ。本当はこんなことしたくない。でもそうせずにはいられなかった。もし、昨日のことを話されたら嫌われちゃうかも。もしかしたら、初めからそうなのかも。だったら―。何度もやっていたから簡単だった。白い足に写った不細工な光をキレイな丸にする。ユウジが僕に気付き、なにやってんだと言うのと同時に、イタイという叫び声が聞こえた。
 目の前に仁王立ちした先生が手のひらで僕の頬を殴った。やっていいことといけないこと。お前なら分かるだろ、ジンジンしたけれど、胸の奥はもっと痛かった。
あの後、彼女は泣いて、仲間の一人が僕を突き飛ばした。体に力が入らず、そのまま地面に尻もちをつく。しょうがねえなと言ってくれる味方も、よくやったなと肩を叩いてくれるヤツもいなかった。僕だって泣きたかった。でも我慢して、我慢して、彼女のほうは見れなくて。逃げ出したい、そう思ったんだ。
 学校帰り、ユウジが一緒に帰ろうと誘ってくれたけど、今日はいいやと言って笑った。トボトボといつもとは逆の方へ向かって歩く。
 お寺は僕にとって夏のお店みたいなものだったから、お祭りで露店がやるときくらいしか行ったことがなかった。
 門を抜けると、樹の影がたくさんあるせいでひんやりとしていた。脇目も振らず、まっすぐお寺のほうへと進む。我が家の決まりが『男は人前で泣くな』だったけれど、もう我慢しなくていいよね。ヒックヒックとしながら、賽銭箱の上でがま口の財布を開く。チャリンチャリンと百円玉が落ちていく。胸がいっぱいになった。土砂降りみたいに涙が出てきた。ジャラジャラするのも忘れて、祈った。
 ゴメンナサイ、ゴメンナサイ。
 手と手を握り合わせて。何度も何度も。

麻生 ケイ (東京都町田市/26歳/男性/アルバイト)

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