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<第4回応募作品>「三年後にまた会いましょう」

「失恋ですか?」
 頭上で声が聞こえ、私は半ば条件反射で顔を上げた。その反動で、片手で差していた傘の露先から水滴が落ち、鼻の頭を弾く。
 今日は朝から曇り空が続いていて、昼過ぎには天気予報で言われていた通り、雨も降り出した。折畳み傘を持参していたため、雨に打たれる事にこそならなかったものの、やはり外出、しかも遠出を決めた日に雨が降れば、良い気分とは言えない。
「……はい?」どう答えるべきかと逡巡した末、私の口をついて出た言葉には、微かに険が含まれていた。唐突に「失恋したのか」と問われて、面食らわない女性も少ないだろう。
 私の言葉に、声の主は驚いたような顔をした後、一拍置いて詫びるような口調で言った。
「違いましたか? すみません。こんな雨の日に、一人でじっと縁結びのお守りを睨んでらっしゃるから、てっきりそうなのかと」
 そう言って、苦笑に近い笑顔を私に向けて来たのは、私と同じように、授与所に並べられたお守りの前に立つ一人の青年だった。年の頃は、二十代の半ばといったところだろうか。半袖のシャツにジーパンというラフな格好で、片手は大きなスーツケースのドライブ部分を握っている。旅行客かもしれない。
 私は目に付いたストラップタイプのお守りを一つ、手に取ると、そのまま目線の高さまで持ち上げ、軽く揺すった。すると、金色の小さな鈴が、ちりんと控えめな音を立てる。
「そう、失恋したんです。私じゃなくて、私の友達が。すっかり塞ぎ込んじゃって」
 自分でも驚くほど暗く沈んだ声で、私は言った。友達が、と言ってしまったが、実際に失恋したのは友達なんかではなく、私だ。
 三年間も付き合っていたというのに、終わりは拍子抜けするほど呆気ないものだった。
 この場所――深大寺には、電車を数本乗り継いでやって来た。が、やって来たは良いものの、自分は一体ここで何をしているのだろう、と思う。縁結びで有名な場所だからと言って、別に彼とよりを戻したいなどと、未練がましい思いを抱いているわけでも無いのに。
 お守りを元の場所に戻すと、私は、今度は声に出して同じ言葉を口にする。
「終わっちゃうのって、呆気ないもんですね」
 青年は私の言葉に、僅かに眸を見開いたようだった。次いで、何故か深く息を吸い込むと、嘆息するように息を吐き出し、不安と諦めのない交ぜになったような笑顔を見せた。
「そうですね。どんなに頑張ったって、終わる時はすぱーんと終わっちゃうもんです」
「すぱーんと、ですか」その、どこかさっぱりとした表現が可笑しくて、私は思わず苦笑に近い笑みを口許に浮かべた。すぱんと、か。
 授与所に背を向け、本堂と向き合うように立ちながら、空を見上げる。そこには今の自分の心境を丁寧に反映したかのような、重く暗い、鈍色の雲が広がっていた。あの雲の上で太陽が輝いている、だなんて。出来の悪いジョークにしか思えない。
 私がそんな事を考えているとも知らず、青年は私と同じように空を見上げると、おもむろに口を開いて、呟くように、言った。
「僕、雨って嫌いじゃないんです」
 人懐こい人だな、と思いながら、私は適当な相槌を打った。多分、へえ、だとか、そうなんですか、だとか、当たり障りの無いものだったはずだ。意識して言ったというよりは、半ば無意識的に言葉を返した感じ、だった。
 そんな私に構わず、青年は言葉を続けた。
「少し先の未来にも、希望を持てるんですよ。もしかすると、五分後にも雨は止むかもしれない。ひょっとすると明日まで降り続けるかもしれない。でも、ずっと降り続けることはまず無いから。いつかは晴れるんですもんね」
「なんだか詩人さんみたいですね。雨が降るたんびに、そんなこと考えているんですか?」
 そんなつもりは無かったのだが、小馬鹿にするような口調になってしまった。取り繕おうと、慌てて再度口を開いたが、しかし青年が気にする素振りも見せずに笑顔を見せたため、口を閉ざす。つられてこっちまで笑顔になってしまいそうな、柔らかな笑顔だった。
「よく言われますよ。気取った表現だって。そんなつもりは無いつもりなんですが」
「そんなつもりは無いつもり」
 青年の言葉を歌うように反芻して、私はまた少し笑った。不思議だ。もう絶対に笑う事など無いとさえ思っていたのに、自分は今、こうして笑っている。彼と別れてからずっと針山のように刺々していた心が、青年と言葉を交わしているうちに、自然と穏やかになっていくようだった。――私は青年のスーツケースに視線を転じると、何の気無しに問うた。
「ご旅行、ですか?」
 すると、青年は困ったように微笑んだ後、暫くの間黙ったまま本堂を眺め、やがて私の問い掛けとは関係の無い事を口にした。
「僕は昔、この辺りに住んでいたんです」
 囁くような、静かな口調だった。このまま雨音に溶け込んでしまいそうな、感じの。
 私の返事を待つ事なく、青年はぽつり、ぽつりと、突いただけで壊れてしまう宝物にでも触れるかのように、言葉を紡ぎ出していく。
「絵を描くのが好きだったもので、学生の頃は休日になると必ず、ここに来ては様々な物をスケッチしていました。あの本堂は勿論、右側にある鐘楼に、それから元三大師堂の横にある池。五大尊池と言うのですけど、池を泳ぐ錦鯉が美しくて、どうしてもノートに収めたかったんですが、生き物ですからそう都合良く動きを止めてくれる事も無くて。結局はあまり上手く描く事が出来ませんでした」
 そう言って苦笑しているものの、その瞳にはどこか楽しげな光が宿っていた。思い出を懐かしむような、しかしどこか悲しげな眼差しだ。彼の視線の先には、スケッチブックを片手に深大寺を散策した、中学生の頃の自分が映っているのかもしれない。
 そんな彼を見ていた私は、ふと思い立ち、ひょっとしてと思いつつ、控えめに訊ねた。
「あの……もしかして、絵描きさんですか?」
「まだまだ、卵ですけどね」
 暗に肯定され、私は何故だか嬉しくなった。
 この人は昔から絵を描くのが好きで、きっと将来は絵描きになりたいと思っていたのだろう。それで、本当に夢を叶える事が出来たのだ。そう思うと無性に幸せな気分になれた。
 しかし、温かな気持ちで微笑む私に向かって、青年は、それはもう唐突に口を開いた。まるで今までの会話は全て前振りに過ぎないのだ、と言わんばかりの気迫、があった。
「……これから僕は、日本から遠く離れた国へ行って来ます。とても貧しい国で、子供たちは読み書きも出来なければ、絵を描いたり、見たりする機会も無い。そんな子たちに、絵を教えてあげたいと、僕は思うんです」
 そう言った彼は、恐らく不安だったのだろう。もしかすると、ずっと誰かに話を聞いて欲しかったのかもしれない。自然とそう思った私は、だから黙って彼の言葉に耳を傾けた。
「でも、その国は危険な国で――……地雷は当たり前のように埋まっているし、病原菌の蔓延している場所もある。正直、無事に帰国出来るかどうか、分かりません」
 それに、と青年は付け加えた。続きを口にする事を、躊躇っているかのようだった。
「僕には、僕を待っていてくれる人がいません。両親は早くに他界していますし、唯一の血縁である兄も、就職せずに絵ばかり描いている僕に愛想を尽かして、家族の縁を切られてしまいました。だから向こうで子供たちに絵を教えるという目的を達成した時、僕はどこかに帰る意味も理由も、無くなってしまう」
 諦めたような口調が、ひどく悲しかった。
 それでも青年は、話を聞いてもらえた事で少しは気が楽になったのか、幾らか申し訳なさそうな、どこか情けない様子で告げた。
「すみません、初対面のあなたに変な話をしてしまいました。誰かに聞いて欲しくてつい」
「でも、あなたは帰って来たいんでしょう?」
 青年の言葉を遮って、私は静かに訊ねた。
 彼はと言うと、どこか驚いたような、複雑な表情になった後、悩むような素振りを見せつつも緩慢に頷く。なら、答えはひとつだ。
「だったら、帰って来て下さい」自分でも驚くほど、その言葉はすんなりと飛び出していた。「とりあえず、日本では私があなたの帰りを待っていますから。帰国はいつですか?」
 いつの間にか、雨は止んでいた。
「二、三年後の予定ですが……」
「だったら三年後ですね。三年後の今日、ここに来て下さい。待ってます。あなたが行く国の子供たちと描いた絵を、見せて下さい」
 そう言って、私は笑った。笑えていた。
    *
 日傘を差しながら、私は深大寺の山門をくぐり抜けた。今日は天気も良く、観光客の数も多い。私は授与所の前までやって来ると、小さく息を吐いて傘を畳み、辺りを見渡した。
 三年と聞いた時は「長い」と感じたが、過ぎてしまえばあっという間だった。私は短かった髪を伸ばし、化粧の仕方も少し変えた。
 三年の間に私は少し変わったが、深大寺とその周辺は、当時と比べ少しも変わった様子が無い。そして私はその事を、嬉しく思った。
 もう一度辺りを見渡す。カメラを構えて、娘と思しき少女を撮る父親、仲良く手を繋いで歩く老夫婦、砂利を蹴散らしながら走る幼い子供達。その中で、私はたった一人を探す。
 やはり三年前の約束など、覚えていないのだろうか。それとも、帰りたくても帰れない状況とか。そう言えば相手の名前も聞いていなければ、自己紹介もしていない。段々と不安になり、私は俯いて暗い表情になる。
 すると、そのとき。
「失恋ですか?」
 すぐ側で、笑みを含んだ声が聞こえ、私は私は泣きそうになりながら顔を上げた。

(東京都港区/15歳/女性/学生)

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