<第4回応募作品>「恋、夏の。」 著者:ハヤミ ケイ
恋をしていたのだ。
十八歳の夏。夏至も近づこうという季節。その頃ぼくは、夜が明けるのを合図に、歩くのを日課にしていた。薄暗いうちに家から人気のない道に出てしばらく行き、川を渡って、坂を下る。するとそこはぼくのお気に入りの場所、深大寺だ。早朝の薄く明けゆくやわらかな陽射しを受けて、たおやかに浮き上がる木々の緑。あたりは鳥のさえずりと小川の流れる音しかしない。ぼくはそんな静かで楚々とした空気の中を歩くのが好きだった。
その日も、ぼくは朝露に輝く草叢や、木漏れ日の下を歩いていた。深い緑を透かして溶け込むように射す光のもとで、風に揺れる枝の音や小川のせせらぎの音が心地よかった。と、その中にいつもと違う音がするのに気づいた。音ではない。音色だった、ゆっくりと繰り返し音程を変えながら繰り返される笛の音色。
朝方の深大寺で、曲の練習をしていることは、珍しくはない。しかし、それはなにかちがった感慨を与える音色だった。ひとことで言えば、曲の練習には聴こえなかったのだ。どちらかというと、流れるように変化しながらつづく、ひとつのフレーズのようだった。ぼくは、音色に惹きつけられ、それが聞こえるほうへと足を向けた。なぜなら、その音色はとても、美しかったから。
音色の主はすぐに見つかった。
一本の大きな樹に寄りかかるようにして、ひとりの女性がいた。彼女は両手で縦笛の穴を押さえて、一心に吹いていた。肩まで流れた髪にさえぎられて、顔はほとんど見えなかった。そのときの姿は、いつまでもぼくの心のすみに残ることになった。彼女の傍らには、苔むした石垣と清水が流れていて、そちらを向きながら、彼女は一心に笛を吹いていた。あたりには流れ出る清水の、鈴の音のような響きと、笛の音だけが聞こえた。ぼくと彼女以外誰もおらず、ふたりだけだった。
ぼくは、なぜかどぎまぎして、少し足早に彼女のわきをすり抜けて、歩を進めた。ぼくはそのとき、彼女のほうをちらっと見た。
笛の上を何度も試すように、ためらい、うごく、細く白い指先。ときとぎ当たる木漏れ日で、一瞬銀色に輝く髪。一陣の風が、その髪を少し揺らせたように見えた。このときの印象がぼくの胸に残った。ぼくは、家に帰りついてからも、ほんの一瞬見た彼女の姿をなんとなく思い出していた。
いや、ちがう。思い出さずにはいられなかったのだ。夜になり、シーツにくるまっているとき、心の中で何度も立ち現れる彼女の姿は、朝見たときよりも一層、はっきりと焦点を結んでみえるようだった。それまでぼくは、こんな感じで人のことを思い出すことは、一度もなかった。
翌朝、ぼくはいつもより早く起きて、深大寺まで向かった。なにかにせきたてられるように。早足で。
笛の音はしなかった。最初ぼくは、彼女はいないのだと思った。しかしそうではなかった。彼女は昨日とおなじ樹の下に佇んでいた。笛を持っていたが、奏でてはいなかったのだ。ぼくは彼女がいないと思って歩き続け、不意に彼女の前に来てしまい、正面から彼女を向き合ってしまった。ちょっとどぎまぎしていると、彼女は、ぼくを見て、小さく会釈した。ぼくも軽く頭を下げると、「きのうもお会いしましたね」と彼女は言った。そのとき、ぼくが不思議そうな、顔つきをしていたからだろう、彼女は小さな声で、自分が何をしているのか話してくれた。
「わたしね、ここの木と緑、清水と小川の声を聴きに来ているの。木とか小川の声を聴くのには、朝、とっても早くがいちばんなの」彼女は分かるでしょといった顔つきをした。「ここに来たら、目をつぶってね、深呼吸して息を整えるの。朝の空気って澄んでいてきもちいいでしょ。それを静かに吸って、ゆっくりはきだす。それから耳を澄ます」と、彼女はあたりの木々を見渡し「そうすると声がね、声がいっそう良く聴こえてくるのよ」
「どんな声です?」
「ひとことでは言えないけれど、近くの、この水のしずくが落ちる音とか、遠くの風が枝を通りすぎる音とか、いろんな音が聞こえてくるでしょ。音は音色。音色の奥に声を持っているの」と、彼女は手を伸ばし、石垣からつたい落ちる清水に触れた。
「ささやき声や喜びに満ちた声。それが聴こえてくるまで、ここでじっとして、待っているの」
「それからどうするんですか」
「それを写し取るのよ」
「うつしとる?」
「そう、この笛を使ってね」と彼女は一息ついて「でも今日はあなたが来た」
ぼくはちょっと恥ずかしくなり、あたりの景色を見た。鳥のさえずりが大きくなったように感じた。
「ううん、気にすることはないわ。もし聞きたければ、そのあたりにすわって」
言われるままにぼくは石の上にすわって、彼女の様子を見ていた。しばらくすると彼女は、縦笛を口にあて、ひとつの音色を奏ではじめた。静かで控えめな音。その音色は、朝日に照らされはじめた木々の間を抜けて、森の中へと吸い込まれていった。それから少しずつ音程を変え、いくつかに区切られた音を、丁寧に重ねるように吹いた。そんなことを何度か繰り返していくうち、笛の音色は、流れのあるひとつのまとまりになってきた。
たぶんそれは正確に言うと音楽ではなかったのだろう。少なくとも、ぼくがいままで聞いたことのないものだった。しかしそれは美しかった。高くなったり低くなったりしながら、樹の間を流れていく音色は、周囲の木々と緑に問いかけているようだった。ぼくは、彼女のおもいが伝わってくるのを感じた。朝の空気の中で、彼女はあたりの木々と話しているようだった。
しばらくして、その独特な演奏が終わると、「また明日も来ればこの続きを吹くわ」といって、彼女は去っていった。ぼくは、そこにひとり取り残され、佇んでいた。
翌朝から彼女の演奏を聴きに行くのがぼくの日課になった。彼女ははじめ笛だけを持ってやって来たけれど、あるときから一冊のノートを持ってくるようになった。そのノートは五線譜のノートで、彼女はそれを広げ、片手で笛を拭きながら、思案し、メロディを書きとっていた。ノートにはさまざまな音符が記されていった。書き込まれた音符をすべて消すと、また書き直したり、重ね書きしたりするのだった。五線譜は、たちまち音符でいっぱいになった。
ぼくは、そんな彼女の姿を、傍らにいて、ずっと見ていた。鉛筆を片手にして、ページをめくる彼女。今でもぼくは、そのときの彼女のしぐさ、瞳の動き、口元、そして髪の毛の一本一本まで、つぶさに覚えている。その夏、彼女の姿と、あたりの木々や石垣、なにもかもが忘れられない景色となって、ぼくの心の中に焼きつき、同時に、彼女に対するぼくの気持ちも、大きなしゃぼん玉のように膨れ上がっていった。
彼女とぼくは、夏のあいだ、そんなふうにふたりの時間を共有していた。ぼくらのまわりでは季節が移り、せみの鳴き声も変わっていった。しかしぼくは彼女の住所や名前を聞くこともなかったし、彼女もぼくについて質問してきたことはなかった。興味がなかったわけではない。ただ、聞かなかった。彼女にはそんなことなどどうでもいい、とでもいうような、不思議な力があった。だからある日、彼女が来なくなってしまったとき、ぼくには彼女の消息を調べるすべがなかった。今にして思えば、ぼくはその日が来るのを、怖れをもって予期していたのかもしれない。
それは突然だった。
二週間ほど経った朝、いつものようにぼくは、樹のところに行ってみると、そこに彼女の姿はなかった。樹も景色もいつもどおりだったけれど、彼女だけが欠けていた。ぼくは、しばらくあたりを見渡したけれど、柔らかな陽に照らされた草花以外何も動くものはなかった。
しかしいつも彼女がいた樹の下に、白いノートが置いてあるのに気づいた。ノートの上には、飛ばされないようにというのだろう、石が載せてあった。
彼女は来ていたのだ。
ぼくは石をどけ、ノートを慎重に取り上げた。いつも彼女が持っていたノート。ページを広げると、何週間ものあいだに書き付けられた音符が散りばめられていた。何ページも続くものもあれば、数小節分の、断片のものや、走り書きでなにが書かれているのか、判別できないものもあった。
そして最後のページには、丁寧な字で、文章がつづられていた。
「あなたにこれをあげます。ここで、わたしが聴いた、この森の言葉たちです。それは、わたしと一緒にあなたも聴いたのです。残念ながらそれはまだ未完成。でも、ここでわたしが聴きとった音楽は、この夏、一度かぎりのものです。この楽譜のなかには、鳥の、樹の、小川のささやき、が記されています。そのなかには、あなたの存在もはいっているのです。ずっとそばにいてくれた、あなたの」
ぼくは、ノートを閉じて、しばらく立ちつくしていた。不思議と哀しくはなかった。ノートを抱えて、ぼくは彼女のことを想った。縦笛を吹く姿や、その音色。微笑んだり、考えごとをする彼女の横顔が、浮かんでは消えた。それはみんなまぼろしのようだった。
夏の陽射しが、強くなったように感じた。それにつれて鳥のさえずりも大きくなって、まるで話しているかのように聴こえた。ぼくにはそれら、夏の朝のさまざまな音ひとつひとつが、音色になって聴こえたように感じた。いや、まさに、聴こえていたのだ。この楽譜のなかにある彼女の音楽は、この自然の、すべての音からつむぎだされたものなのだから。
ぼくはノートを、彼女の音楽を、胸にあてて耳を澄ましていた。耳元を撫でるように一陣の風が吹いて、木立の葉を揺らし、さざめかせていた。ぼくはうれしさとも、哀しさともわからない、涙をためていた。それからノートの何も書かれていない最後の一枚を破り、折りたたんで近くの枝に結びつけた。その五線譜は風にたなびいて、ぼくに音楽を奏でているようだった。
ハヤミ ケイ (東京都狛江市/46歳/男性/自営業)