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<第4回応募作品>「バス・ストップ」 著者: 福本 驚

「バス・ストップ」というイギリスの古いバンドの曲があり、僕はこの曲を今朝も、バスに乗りながら聴いている。そして僕の視線の先には常に彼女がいる。
僕が彼女を知ったのは、深大寺植物公園前のバス停の列で、今年の春の、ある雨の朝、先頭に並んで一心に文庫本を読んでいる姿を見た途端、僕は彼女に恋をしていた。
僕が聴いているこの曲は、男の子が女の子に、雨の日に傘を差し出して、恋が始まるという内容で、僕の場合はそう巧くはいかなかった。だけど僕は彼女に恋をしてしまった。
僕はバス停に、高めのフェンスに囲まれた植物園を横目に見ながら、かなり歩いていく。
二歳下の妹はバス停まで行くのが面倒臭くないかと聞く、本人は自転車通学だからだ。
僕は彼女と会えるのと、四季折々に姿を変えるこの道が好きで、苦に思ったことはない。
彼女を初めて見た時は、桜が咲いていて、道路脇を両列並んでいるのを楽しみ、梅雨の時は、まるで夜の暗い原生林の様な植物公園の横を歩き、明けて夏が訪れると、光り輝く様な木々の緑の眩しさに目を細めて歩いた。
夏休みが終わり、残暑も過ぎた頃は紅葉が風に吹かれ落ち葉は舞い踊り、木々の葉が大部分落ち、すっかり寂しくなると冬を迎えた。
その間、僕は季節と共に彼女の変化を楽しんだ。梅雨の前には衣替えで、暗い色調の制服から、目の冷める白いシャツと空色のスカートの彼女に見蕩れ、そして再び冬服に着替え、寒さが増すと、冬服のセーラー服の上に、同色のコートを着て、可愛らしいマフラーに、白い顔をうずめている彼女を見る事ができた。
季節の移り変わりは、彼女の服装だけでなく、彼女自身も変化させた。
梅雨の鬱陶しさが去り、暑さが本格的になると、彼女は背中の真中辺りまでの長かった髪を、肩の辺りまで切り揃えた。
それは初夏が、彼女の新しい髪形と共にやってきたような印象を僕に与えた。
僕は吃驚したが、それはとても好ましく思えた。実際、見蕩れてしまったほどだった。
その髪を切った日、僕は彼女と初めて目を合わせた。普段なら込んでいて座れない座席に彼女は座れていて、後から乗って来た僕を、上目遣いに見ていた。
彼女の手は切り揃えた髪を、所存なさそうに触りながら、僕の事を密やかに、しかし、しっかりと見上げてきたのだ。
まるで自分の新しい髪型はどうか?と、問うて来ているように感じられ、心の中で『似合ってる。本当にすごくいいよ』と意気地のない僕は口に出せずに何度も繰り返した。
ただ伝わるかどうか解らないけれど、肯定の意思を込めて微かに微笑んで見せた。
僕の意を汲んでくれたのか、彼女は頬を赤くし、小さく頷きながら、窓の外へ目をやり、もう一つ小さく頷いた。
秋を越す頃、再び彼女は髪を伸ばし始め、束ね方による髪型の変化は僕を楽しませた。
しかし僕は彼女の事を殆ど知らなかった。
名前などは論外、解っているのは、バスを降りた調布駅で下り電車に乗る事と、その制服から割り出した、中学生である事、そしてチラと覗き込んだときに確認した、胸元のバッジで三年生であるという事だけだった。
僕は高校三年なので歳の差は三つ。
僕は付属高校に通って、成績もそこそこだったので進学は決まっていたが、彼女は今、受験勉強に励んでいるのだろう。
そう考えると、彼女に対して『がんばれ』と、これも声にならない声で応援した。
そしてある冬の朝、彼女はバス停に居なかった。受験の為に時間帯が変わったのだろう。
僕は次の春にまた、彼女に会えるのだろうかと思いながら、バスに乗り続けた。
僕にとっては長い冬が終わり、桜の開花と共に春が訪れた。
そしてまた、彼女に出会うことができた。
同じように列の先頭で、薄茶色のブレザーの上着とチェック柄のスカートを身に着け、文庫本に目を落として、バスを待っていた。
僕は大学に無事進学し、野暮ったい学生服から私服に着替えて、新しい生活を迎えていた。それにその日は、彼女に会える希望を胸に、自分なりに精一杯のお洒落をしていた。
これまではなかったことだけど、彼女の視線が文庫本から離れて宙を泳いだ。そしてその視線は、眩しそうに彼女を見つめる僕のそれと、一瞬絡み合った。
僕は目が良い方で、彼女の目に安堵の色が浮かんだのを見て、それが僕を見た時だという事を確信した。
同時に都合のいいように考えるのは、恋している人間が良く陥る罠だと自省もしたけれど。
視線を外した彼女から、僕は目を離せなかった。久し振りに見られた事と、先程の意味ありげな視線、何より彼女の淡い桜色に塗られた唇に、目を奪われたのだ。
次の朝、僕は少し早目に家を出た。自分の心が抑えられなくなってしまったからだ。
今日こそは、列の先頭の彼女に近づいて、何か一言でも話しかけるつもりだった。
しかし予想外の出来事が起こった。僕がこれなら先頭の彼女の次に並べると思って、バス停に向かっているとき、彼女もまたバス停に向かっているのが見えたのだ。
バス停にはもう人が二人並んでいて、僕らは鉢合う様に丁度その後に並ぶことになった。
僕の横に彼女がいる。桜色の唇で大人びた彼女が横に立っている。
それだけでもう、心臓は破裂しそうだった。でもどうして、遅れたことのない彼女が今日に限って……妄想かもしれない、馬鹿馬鹿しいと笑われるかもしれない、でも僕は彼女が意図的に遅れてきたのではと考えてしまった。理由は僕と同じ、僕の近くで並ぶために……。
その日は何もできなかった。顔を俯けて僕と同時にバスに乗り込む彼女、僕は何か話掛けたかったけど、何も言えずにバスを降りた。
次の日こそが正念場と、僕は前夜から意気込んで、バス停に向かった。
僕は馬鹿だった。
バス停では、彼女と同じ制服を着た少年が、並んで楽しげに話し合っていた。
遠くからそれを確認した僕は、足を遅め、いつものように最後列に並んだ。
駅に着くと二人は、並んで改札を通っていき、僕はその場に取り残された。
桜色の唇は、僕ではなくアイツの為……。
僕は駅を後にして歩き始めた。当ては特になく、甲州街道を過ぎた辺りで、自分が深大寺の方へと向かっていることに気が付いた。
僕はそのまま歩き続け、深大寺の境内まで来て、今朝の光景を見るまでは普段は賑わうこの辺りの店を、彼女と歩くことまで考えてたことを思い出し、益々足取りが重くなった。
そして深大寺の中の、色々な所を登ったり降りたり、暫く彷徨った後、側に隣接する小さな青渭神社に来ると、賽銭箱の前に座って、目の前を通り過ぎる車を見ながら、涙ぐんでいるのに気づいて、目を拭って家に向かった。
次の日も学校を休み、その後は調布駅まで自転車で通い、バスとは縁を切った。
ある夜、妹が「今から料理道具を譲って貰いに行く、遅いから付き合え」と言ってきた。
妹は菓子造りが趣味で、通っている教室の先生から、教室が終わった後、古い道具を譲って貰えるというので、時間柄、護衛兼、荷物持ちとして同行させられるらしかった。
妹は足取り軽く進んでいくのだが、その先は植物園の方だったので、僕は苦い記憶を思い出し、対照的に重い足取りでついていった。
散り送れた桜が舞う中、僕の気も知らず、妹は植物園のバスターミナルに向かっていく。
去年一年間の様々な記憶が甦り、僕は耐えきれず、真剣に妹を残して帰ろうとした時、あのバス停に人が立っているのに気が付いた。
僕は目を見張った。そんなことは有得ない、どんな偶然が働こうと。しかし、現実に実際、彼女があのバス停で、夜桜の花弁の風に巻かれて、こちらを向いて立っている。その彼女に妹が駆け寄っていった。
そして僕を手招きすると妹は、彼女とは大分前に料理教室で知り合った事、最近、元気がないので相談に乗ると、これまで何度か聞いていた、好きになった相手が、自分を避ける様に、姿を見せなくなった事、もしかすると高校でしつこく迫ってくる上級生と、一緒に居る所を見たからではないかと悩んでいるという事を、彼女は語ったのだという。
彼女の小さな胸を痛めさせている、相手の事を詳しく聞いていく内に、妹は状況と相手の容貌から、我が兄ではないかと疑念を抱き、写真を見せて面通しし、確認を取った後、さてどうしたものかと頭を捻ったそうだ。
僕はしっかり、妹の言葉を聞きながらも、視線は彼女から外す事が出来なかった。
料理道具云々は方便で、僕と彼女を引き合わす口実だったのだ。
僕は呆然としながらも、一つだけしなければならないことは、はっきりと解っていた。
あの曲の男の子は雨の中、傘を差し出し女の子を恋人にした。今日は雨が降っていないし、僕は傘を持っていない。
だけど彼女に傘を差し出す時が来た。
「こ、ここの植物園、小さい頃来たきりで、最近は来てないんだ。今度一緒にどうかな?」
我ながら心もとなく情けない傘だなぁと思いながらも、彼女の返事を待った。
「私も引っ越してきてから、まだ一度も……お願いできますか?」
彼女は僕の差し出した、見えない傘の中に入ってきてくれた。
僕は去年の春に恋に落ちて、今年の春に恋を手に入れた。
最後の桜が、僕らの間を風に吹かれて舞い上がっていった。

福本 驚 (東京都調布市/33歳/男性/会社員)

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