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<第4回応募作品>「深大寺の夕立」 著者: ハル

 高校三年の夏休みは、プールの監視員のバイトで素敵な恋を見つける予定だった。水泳部で鍛えた腹筋は、この時のために部活を引退後も維持していたのに。
 バイトの説明会の日にお腹を壊すなんて最悪だ。昨日、妹と争って食べたスイカが悪かったのか、パンツ一枚でクーラーをガンガンにつけたまま寝たのが原因なのかは分からないけど、スニーカーを履くとお腹がキューキューと音を立てて、僕を玄関から出すことを阻止した。
 そうして、僕の夏休みは近所にある深大寺の参道にある土産物屋で山盛りした氷の上に、イチゴのシロップを掛けることになった。
 真夏の境内で、お年寄りを相手に金時のつぶ餡を氷にのせるバイトも案外いい事がある。きっと、深大寺の縁結びの神様が、あの日僕のお腹に入って暴れたんだろう。
 バイト先の土産物屋のおばちゃんは、今年の猛暑にすっかり体調を崩し大学生の娘さんが店を手伝うことになった。
 僕よりも二歳年上のお姉さんが、短いデニムのパンツにチョコレートブラウンのタンクトップで僕の前をウロウロする度に揺れる胸元に、僕の視線は釘付けだ。もちろん、チラ見だけど。
 僕はダラダラと続く深大寺までの坂道を、立ち漕ぎでママチャリを走らせる。額に当たる風は木々に冷やされて街の中よりも涼しい気がする。
道端には僕の知らない花々が咲いているが、そんなものには目もくれず、僕はバイト先にまっしぐらだ。
「憲ちゃん、今日も暑いからカキ氷が売れそうね」
 店先にホースで水を撒いていた祥花《しょうか》さんは、憲一郎という名前の僕のことを憲ちゃんと呼んでくれるが、百八十を越える身長に水泳で鍛えた身体と、濃いめの体毛をもつ僕としては、ちょっと照れ臭い。
 朝から雷雨の予報があった夕方に、山の方で出来た黒い雲が深大寺の上に大粒の雨と雷を連れてきた。
「憲ちゃん、早く店先に出した物を仕舞って」
 ビーチサンダルを履いた祥花さんと僕は、慌てて店の中に土産物を入れて、古くなった入口の引き戸を閉めたけど、横殴りの雨は容赦なく店の床を濡らした。
僕が古いタオルを引き戸の桟に挟んで侵入を防いでいると、雨に濡れた髪を後ろでひとつに束ねた祥花さんの顔が目の前にあってビックリした。
 もっと、ビックリしたことは雷の音に驚いた祥花さんが僕に抱きついてきたこと。
 夕立に濡れた二人の身体は、雨の雫と汗でベタベタしてたけど離れたいなんて思わなかった。雷が鳴るたびに強くしがみつく祥花さんに、調子に乗った僕は自分の唇を顔の前に持っていってみた。
 すると祥花さんの大きな瞳が、驚いたようにパチクリとなったけど僕の唇から逸らさずに閉じた。僕だってキスぐらいはしたことがあったから、鼻で浅く呼吸をしてから唇を重ねた。
 深大寺の境内から雲がなくなり、また憎らしい太陽が参道を照らすまで、祥花さんは僕の胸に顔を埋めた。ときどき、グシュン、グシュンと鼻を鳴らすのは風邪をひいたからじゃないのは、後になって分かったことだけど。
 翌日から僕のママチャリを漕ぐ速度は、さらに加速されたけど期待するような展開が無いままに夏休みも残り一週間になってしまった。
「あの人を知ってますか?」
 朝から店の前を行ったり来たりする男性が気になって祥花さんに尋ねると、
「変質者ではないから、無視していいわよ」
と、どうやら知り合いのようだ。
 真夏にネクタイをして、時折ハンカチで汗を拭きながら店に入りそうで入らない三十代の男性は、変態じゃないかもしれないけど不審者だ。
僕と目が会うと照れ臭そうに下を向いたり、小さな笑顔を向ける男性に、話しかけようと思ったけど、祥花さんの冷たい視線がそれを許してはくれなかった。
「イチゴミルクに餡子を乗せてよ」
 部活の帰りにカキ氷をたかりに来たのは、中学二年になった妹の空《そら》だ。
 空は山盛りの氷にたっぷりのシロップをかけた上に、もう一度、氷をのせてつぶ餡をトッピングした特製メガかき氷を食べてもお腹を壊さないのだから、同じ兄弟でも胃腸の強さは違うらしい。
 空がメガかき氷を食べ終わると、きょうも予報どおり山から雷雲が流れてきた。この前のように稲光はないけど、参道に落ちる雨は元気にダンスを踊っている。
 僕と空が引き戸を閉めて外の様子を窺うと、びしょ濡れのまま大きな木の下でガタガタと身体を震わせた男性が立っていた。
「中に入れてあげなくていいの」
 空の言葉に僕が祥花さんのほうを見ると、唇をきつく結んだ横顔で何も言わなかった。
「風邪ひいちゃうよ」
 祥花さんのただならぬ雰囲気に、図々しさが売りの空も恐る恐る言って僕の後ろに隠れた。
「いいのよ。彼が悪いんだから」
 屋根を叩く雨の音は、一層激しくなり電気が消えた。
「あの人は、私の大学の講師なの」
 真っ暗になった店の中で、祥花さんは溜息をつきながら話を始めた。
 熱心に質問にくる祥花さんを好きになった男性と、もともと男性のことが好きだった祥花さんは、映画を見たり食事をしたりと健全にデートを楽しんだ。
 でも、大学の講師と女子学生の恋は、ふたりの想いとは関係なく面白可笑しく噂となって広がり、そのことを気にした男性は祥花さんに別れを告げた。
「『恋人より出世が大切な男が、今更何しに来た』って感じですね」
 話を聞いた空は、震えながら外に立つ男性に唾でも吐き掛けそうな勢いで怒っている。
「そういうこと、私には憲ちゃんがいるからね」
 暗闇の中で、僕の肩に顔を乗せてた祥花さんの顔が濡れていたのは、雨の雫だけじゃなかった。頬を伝って落ちる暖かい雫の源泉を辿ると、きつく瞑った黒い目なのを僕は知っていた。
僕とキスをした時に鳴らしていた鼻も同じように、苦しい思いが溢れ出てきたのだということも。
「お兄ちゃんでいいの?」
祥花さんの言葉を真に受けた空が、思いっきりソプラノで聞き返した。
「お兄ちゃん、良かったね。恋人も出来ないまま十八歳の夏が終わるのかと思うと、不憫でならなかったんだよ」
妹よ。ありがとう。
 翌日から、不審な男性は見かけなくなり、不憫な僕は残り三日間で告白をしないと空に馬鹿にされる羽目になった。
「お兄ちゃんは、間抜けで気が効かないタイプだけど、背も高いし見ようによってはカッコイイんだから、頑張って告白して男らしいところを見せてよね」
 麦茶の二リットルペットボトルをラッパ飲みする、空は僕よりも男らしい。
 今日の予報も夕方から雷雨だ。今日を逃しては、次の夕立までチャンスは来ない気がしていた僕は、午後から山のほうばかり見ていた。すると、不審な男性が汗を拭きながら歩いて来て店の前を通過した。
 そして、また何か言いたそうにしながら通過した。
 黒い雲の塊は、予報どおり深大寺の上に来て森の中に漂っていた熱気を水煙で包んだ。
「本当に風邪ひいちゃうじゃんね」
 閉めた店の引き戸から、見える男性のスーツの袖口からは雨が滴り落ちていた。
僕は、『祥花さんが好きです』という代わりに、
「あの人のことが好きなんですか」
という言葉が口から出ていた。
「卒業まで待っていて欲しいって言ってくれれば良かったのよ」
僕は祥花さんの大粒の夕立に、たまらず外に飛び出した。
僕は靴の中までビショビショにした男性の背中を押して木の下から追い出し、代わりに僕が夕立が通り過ぎるまで、この木に厄介になることにした。
男性が僕の教えたとおり
『僕を待っていて欲しい』
と言えたのかを心配しながら。

ハル(東京都杉並区/男性/会社員)

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