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<第4回応募作品>「リトル・ラブ―それは突然に」 著者: 荒井 敦子

平造の飼っていた柴犬のゴンが死んだ。梅雨明け真近かのジメジメした日の朝にゴンは泡を噴いて玄関の片隅で冷たくなっていた。家族で話し合った結果、以前ゴンが貰われてきた頃住んでいた家に近い、深大寺の境内の供養所に翌日連れて行くことにした。平造は車の後部座席にゴンの入った衣装ケースを乗せ深大寺に向かった。その日は梅雨の合間のすがすがしい朝だった。甲州街道をつつじヶ丘の信号から左折してカーブの多いゆるい上り坂を走ると懐かしい風景が眼に入ってきた。まだ小さかったゴンの走り回る姿が平造の眼に浮かんだ。かつてここに住んでいた頃には何も無い畑だった場所に、広いスペースの駐車場の付いたコンビニが建っていた。
―まるで「バクダッド・カフェ」だな。
平造には見慣れない場所―しかもやけに開けた広い道路がそこに続く。この角を曲がると深大寺に向かう参道が右手にある、そう思いながらバックミラーでゴンの入った衣装ケースを見た。オマエの故郷でゆっくり眠れ―平造はそう呟いた。山門に曲がる道の角に小学校がある。六年生の秋までその小学校に通っていた。祖父の他界を切っ掛けに、両親は祖父が住んでいた高津区で祖母との同居を始めた。
―あの小学校は今でもアンナかな。
平造は頭の中で描く、まるでお寺みたいな門構えを思い出していた。参道に曲がる時、横目で小学校を眺めた―あの時のマンマだ。深大寺に緑があるから此処にはそんなモン要らんとでも言うように厳めしい石の塀が続く。またゴンの姿が浮かんだ。兄貴を引っ張りながら駆け出してくる子犬のゴンだ、胸がジンと痛んだ。バスの発着場の外れから深沙大王堂を通り抜け、裏手の小さな池の前から供養所のある階段を目指そうと思った時、眼を覚ますような鮮やかな青い紫陽花の下に光るものを見つけた。それはピンク色の鈍い光沢をした携帯であることがすぐに判った。両手で抱えたゴンの衣装ケースは人目に付き、しかもかなり重かったのでそのまま行き過ぎたが気になって足を止めた。
―女モンだな。
衣装ケースを池の前にそのまま置いて引き返してその携帯を拾い上げた。
―如何しよう?上の供養所の係員に、落し物だって言って預けようか?
平造はそう決めてズボンのポケットにその携帯を入れた。そして池の前においた衣装ケースをまた持ち上げ、立ち上がった。肩に担ぐと、下の湿った路に歪に散らばる木漏れ日に気付き、それから自然と眼が木々に移り空を見上げた。緑が眩しい。鉄製の安っぽい手摺りの付いたコンクリートの階段は小山の上まで続いていた。正面の四角い御影石を張り詰めた石畳の道と比べたら供養塔のある場所は裏街道みたいにひっそりと控えめに見えた。ペットの名前と飼い主の名前が書かれた青い幟が風にたなびいている。二十本ぐらいあるだろうか。

 立ち上る煙を見ながら平造は泣いた。その感情がすっかりピンクの携帯の事を消し去っていた。車まで戻ってキィーを差し込むまで気が付かなかった。シートに当たった携帯のコツンという感触で初めて思い出した。
―ヤバイ、持ってきちゃったよ。
 ため息が出て、余計なことしてしまった、面倒だな、と後悔した。持ち主と連絡つける方法はないかとリダイヤルとか着信履歴を無闇に押してみたが埒が明かない。保存メールに気が付いて押してみる。
―悦っちゃん、無理だよ。いくら待っても俺は行かないよ。娘との約束がある。いいね?
 ヤバイ内容だな、そう思ったが好奇心から平造はその一つ前のメールを見た。
―そうだな、でも今度にしよう。深大寺なんて辛気臭い処、俺の趣味じゃない。
―楽しかったよ、昨日のデート。お台場のレインボーブリッジ見せたかったんだよ。
 悦っちゃんと呼ばれるこの女の子が、不倫らしい年上の相手とのメール交換をしている。そしてあの場所に携帯を落とした、きっと此処で待ちぼうけだったんだろう。
―仕方ない、甲州街道に出てから交番にでも届けよう。
 平造はそう決めて車のエンジンを掛けた。駐車場を出てすぐに、助手席に置いた携帯から着信音が鳴った。YUIのナンバーだ。
「もしもし。」
平造はドキマキしながらその携帯の電話マークを探してプッシュした。こんな時の言葉なんて見つからない。第一相手が誰かも分からない―持ち主の友達か、もしかして無くした本人かもしれない。どういう受け答えが不信感の素を撒き散らせずに済むか、そればかりが頭を廻った。
 「あの、見つけてくれた人ですか?」
 戸惑いがちではあったが、明らかに嬉しそうな声―ホッとした感じだ。どっかで聞いたような声、そんな第一印象だった。携帯を持つ手を右手に持ち替え、車のフロントガラスの向こうの新緑の木々に眼を移した。懐かしい風景―深大寺の山門が左手に見えてきた。
 「はあ、そうなんですけど・・」
 平造は曖昧な返事をしたが、持ち主本人で良かったと内心喜んだ。
 「有難うございます。今、何処ですか?」
 躊躇いを見せながら声の主は訊ねてきた。
 「あ、深大寺の山門の前―車なんです。」
 「え、それならすぐにそっちに行けます。十っ分ほど掛かりますがお待ちいただけますか?」
 平造はゆっくりとブレーキを踏み、車を車道の左脇に止めた。
 「いいですよ、別に急ぐわけじゃないから。」

 そう言って電話は切れた。車をバスの発着所の手前の有料駐車場に止め、歩いて深沙大王堂に向かった。鬼太郎茶屋を右手に見てバス停の裏道を急いだ。そんな裏道で、犬と見間違えるほど大きな外国種の雑種猫が寝そべっていた。茶色と黒と白が混じった可笑しな猫だ。またゴンの姿が眼に浮かんだ。アイツ、猫を脅かすの好きだったな―思わず笑いが込み上げる。
 そんな訳で、彼女が携帯を無くした紫陽花の前で待つ羽目になった。そこが山門からそんなに遠くも無く、左手の格式のある日本蕎麦屋の庭から小さな滝音が聴こえる目立たない場所であることが分かっている、きっと地元の人間に違いない、平造はそう判断した。相手が若い女の子であり、なんとなく期待感があって心が弾んだ。好奇心もあった。相手は自分を何も知らないけど、平造はあのメールを盗み見た、だから相手に関する予備知識があることで立場は違った。
 待ちながら平造は考えていた。大学を卒業する去年まで平造はバンドを組んで張り切っていた。その時の平造は音のシャワーの中で生きていた。調布の音楽フェスティバルにも出た。それが今年は正社員としてコンピューターの会社の新入社員だ。電子音がその音に変わった。
―仲間は俺を詰った、夢を捨てたって。
金色と赤の長髪を黒い七三刈りに切って、毎日電車のラッシュアワーにもまれている。好きでそうなったワケじゃない、夢を捨てたって言われても困る。才能が無いって諦めたわけでもない、只々かったるかった、このままでいいのかって思うと途轍もない不安が押し寄せてくる。一体本当に何が遣りたいのかって自分に聴くと、どうもハッキリしない。毎晩、いや毎朝と言ったほうがいいのかも知れない―白々と空けてゆく空に冷たく蒼い月が掛かる歩道を冷めやらない興奮が残る頭と疲れ切った体を引き摺りながら帰っていく日々。これって本当の自分なんか、平造には分からなかった。
 そしてゴンが死んだ。故郷の深大寺に葬ってやろうと考えた時、俺の中で何かが弾けた。小さい頃のゴンの姿と平造の幼い姿が甦った。不思議なもので、自分というのは外から見えるモンじゃないのに、その時はハッキリと自分の子供時代の姿が頭の中で刻まれていた。なんか懐かしくなって引き摺られるように深大寺まで来てしまった。
 「すみません、お待たせしちゃって。」
 後ろで誰かの声がした、携帯の持ち主、悦っちゃんと呼ばれる女の子。
 「いえ、大丈夫です。」
 そう答えて彼女の顔を見た。何処かで見たことあるよな?平造はそんな気がした。白いちょっと丸っこい頬、細くて目立たない眼元、小さくキュンと絞まった形のいい唇。
 「ひょっとして、平ちゃん?」
 相手のほうがむしろ驚いたようで、女より男のほうが子供の頃と変わらない風貌をしているらしく、彼女にはすぐに分かったようだ。
 「もしか・・悦っちゃん?木元悦子だろ?」
 思い出した―平造が六年まで通っていた深大寺小学校の時の幼馴染の木元悦子だ。いつの間にか悦子は自分と同じぐらいの背丈にすらりと成長していた。女にしては大きなほうだ、しかし女は男よりデッカク見えるから一メートル六十五センチぐらいだろう、平造は今までの経験からそう判断した。

―草もちのお焼き、蕎麦せんべい、ソフトクリーム、田楽、蕎麦、草団子
山門の右手に赤い座布団の茶店、左手に赤い橋のかかった池、金色の鯉がいる。
入り口右手に鬼太郎茶屋。
 平造と悦子は深大寺の茶店を見ながら懐かしい思い出話に話が弾んだ。そうだ、もうすぐ七夕。派手な短冊が重そうに垂れ下がった笹が茶屋の表に飾ってある。話しながら平造はメールに書かれてあった言葉を反芻していた。
―コイツ、辛い恋をしてるんだろうな。
 父親を早くから亡くしていた悦子は、あの頃もどこと無く若い男の先生にくっ付いて歩いていたっけ。お河童頭みたいな短い髪で寂しそうに池を眺めていた姿が甦った。
 「ムカつく、タスポかよ。ここには自動販売機しきゃ無いんだよな。」
 ―そうだよ、七月からタスポカードのスタートってか?
平造は自動販売機にお金を入れてから気が付いた。返却ボタンを押すとお金の落ちる音がむなしく響いた。
 「煙草やめなよ。」
 悦子が寂しそうな笑顔で言った。
 「誰が止めっか!」
 平造は虚勢を張って言い放った。
 「男の人ってみんなそうね。」
 独り言のように悦子がそう言った。平造にはそれがあのメールの男のことだとすぐに分かった。
 「楽焼やりたくない?」
 平造はワザと話題を代えるためにそう言った。
 「そうだね、それいいかも。」
 その話に悦子が乗ってきた。二人で山門の前の茶店に入った。沢山の楽焼―お皿や動物の置物、灰皿、花の絵が描かれた小皿、所狭しと並んでいる。楽焼の風鈴が涼しげな音を立てる。
 「久しぶりだなあ、こんな感じ。」
 悦子が素焼きの動物の並んでいる工房の前に立ちボソッと言った。
 「こんな感じって?」
 「なんか落ち着くって・・ホントは好きなんだよね、こんなダサい感じが。肩肘張ってるのが・・馬ッ鹿みたい。」
 平造はなんとなく嬉しかった。悦子が屈託無く笑ったからだ。
 「ねえ、ねえ、これ良くない?」
 悦子はラッコの素焼きを指差して言った。お腹を上に向けた丸いユーモラスなラッコだ。平造は犬の素焼きを見つけた、しかしその犬は耳が垂れたコッパ スパニエルみたいでゴンのイメージには程遠い。他には狸、梟、猫、ライオン、それと福助―いろんな動物なんかが何段も棚に置いてある。後ろの白いわら半紙が敷いてある三つの長テーブルには、赤や黄色の溶き絵の具と十本ぐらいの筆が突っ込んである丸い筆立てが並んでいる。奥に見える工房では誰かが町興しのウルトラマンの絵を何枚も描いている。
「俺、このライオンがいい。」
ラッコの隣に並んだライオンに決めた。きっと、多分、茶色く塗ったらゴンに似ている。

 「平ちゃん、どうしてここに居るの?なんか用があったの?」
 幼い頃の親しみの籠もった眼で悦子が言った。ソフトクリームを二人で食べていた時だった。
 「覚えてる?俺の家で飼ってたゴン。昨日、アイツが死んだ。ここに埋めてやろうと思ってね。」
 寄っ掛かった欄干に肩肘を付けて悦子は平造を眺め、ハッとしたような顔付をした。白い頬に水面の揺れる光がチラチラと当たっている。
 「お爺ちゃんになったのね。」
 「そう、十五歳だよ、アイツ。」
 「悲しかったでしょ?」
 「まあな。」
 平造はそう言って黙った。悦子は下を向いてしばらく何も言わなかった。
 「カレシいるの?」
 話題を代えようと選んだ言葉がいけなかった―気が付いた時にはもう遅かった。悦子は無表情な眼差しで俺を見詰め、その眼をすぐに逸らした。女ってヤツは勘が鋭い、平造は自分が携帯のメールを見てしまった事を悦子に見破られたなと思った。
 「いるよ。でもカレシって言えるのかなあ。逢いたがるのは私のほうだけみたい。」
 そう言って悦子は池の方に体を向け寂しそうに笑った。
 「そんなカレシ、止めちゃいな。」
 「そうかも。」
 悦子はそのまま横顔を見せてもう一度力なく笑った。
 「その代わり、俺がカレシになるっての、どうかなあ。」
 振り返り、悦子は怪訝そうに平造の顔をまじまじと見た。
 「平ちゃんが?」
 「そう、まだ頼りないガキかも知れんけど、悦っちゃんの期待に応えられるような人間になると思うよ。」
 平造は、鼻を少し鳴らして虚勢を張った。悦子はプッと笑って噴出した。
 「それって、コクリ?」
 平造はムッとして悦子を睨んだ。なんだか自分が馬鹿にされたような気がした。
 「笑ったりして・・ご免ね。」
 「いいよ・・別に。」
 平造はそう応えるのがやっとだった。悦子に笑われて胸の中は恥ずかしさでズタズタになっているのが自分でも分かったが、どうすることも出来ない。
―俺、何言ってんだろ!これって「隙に乗じて」ってヤツ?俺って汚ねーな。
 平造は自己嫌悪に襲われた。ホワイトナイト気取りってヤツ!
 「いいよ、私で良ければ。」
 意外な言葉が悦子の口から出た。
 「私、もう背伸びするのが嫌になっちゃった。平ちゃんといるとなんかホッとする。ありのままの自分でいいのかなあって・・思えてくるから不思議だね?」
 悦子は飛び切り可愛い笑顔で笑った。
 「悦っちゃんのその顔、すっげーいいよ。」
 そう言ってから、平造は照れくさそうに笑った。悦子は何も言わずに水面を見詰めている。そして何を思ったか、バッグから例のピンクの携帯を取り出し少し躊躇した後、平造の胸の前に押し付けてきた。
「平ちゃん、これ池に投げてくれない?」
「どういうこと?それに・・不法投棄は禁止だぜ、ヤバクない?」
「いいの、いいの、早く!」
「俺、これ、拾って渡したんだよ。携帯って、ダイヤルメモリーなんか要るんじゃない?」
悦子は悪意の籠もった眼差しをチラッとその携帯に眼を遣り、少し笑った。
「これ、専用電話なの。だから要らない。」
平造は悦子の感情の激しさに気が付いた。水面の下に流れがあるように一見穏やかに見える心は、何かを投げ入れると時折その激しさを見せる。
「良いん?それでホントに。誰かに怒られても、俺、知らんからな。」
平造は半分その気になっていた。
「弱虫!優柔不断!」
悦子はさも面白そうに笑って平造を見ている。後に引けない、平造は思い切ったようにそれを力一杯に遠くに投げた。石切のように二、三度跳ねて波紋を残し携帯は沈んでいった。その時突然に―平造の頭の心髄に音のシャワーが降り注いだ。胸騒ぎみたいに―それでいて光みたいに透明なシャワーが満遍なく全身を覆った。
―俺、やっぱ音楽止められん。
音のざわめきが再び甦った。社会人になっても続けることは出来る、諦めたんじゃない、小休符だったんだ。平造はそう思った。今まで見たいな音楽とは違った旋律が頭を駆け巡った。

荒井 敦子(東京都調布市/60歳/女性/会社員)

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