<第4回応募作品>「銃後の初恋」 著者: 唯坂 陣
父が、太平洋戦争中の思い出で唯一、楽しげに語ってくれたことがあった。
昔は北多摩郡と呼ばれた調布市深大寺で生まれ育った父。野川の流れがゆっくりと作り出した河岸段丘の坂を登った先、深大寺一帯には、武蔵野の典型的な風景があった。
父の少年期である昭和10年代といえば、屋敷林や雑木林があり、そして深大寺がいずまい正しくどっしりと構えていて、深山幽谷という言葉がぴたりと合う趣があった。
しかし、日中の緑多き風景も、少しばかり陽が陰ると、生垣の影から妖怪がわっと出てきそうな雰囲気になり、幼い父にとってはむしろ寂しい印象があったようだ。
物心つくころには太平洋戦争が始まっていて、近くの調布飛行場から飛び立つ戦闘機にあこがれたり、近所にあった高射砲陣地のあたりに入り込んだりした悪戯小僧だった。しかしその悪戯が禍して、陸軍の兵隊にビンタをくらい、そのおかげで父の左耳は聴覚を失ってしまった。
調布市を含む多摩地域一体というのは、調布飛行場をはじめとして陸軍の関連施設や軍需工場がたくさんあって、それらを狙った空襲はとてもひどかったそうだ。
そのうち、子供らは疎開をさせられることになって、父も親元から離れ、長野県の親せきの家に預けられることになった。
当時の家族構成といえば、祖父母同居、兄弟といえば6人も7人もいたりというのが当たり前の時代であったが、父の家は珍しく一人っ子の家だった。正確には兄が3人いたのだが、肺結核やらなんやらで皆死んでしまって、その生き残りが末っ子の父だったというわけだ。だからいきなり武四郎というのだ。
私の父、井上武四郎はその疎開先、長野県豊科での思い出がたいそうお気に入りで、酒を飲むとかなりの頻度で口の端に上る話題だった。父は親元を離れること自体、そんなに寂しくも思わなかったというのだが、疎開先ではやはりよそもので、子供らの遠慮のないいじめがきつかったらしい。
水田がどこまでも広がる豊科の田園風景というものは、調布のそれとはまた趣がちがって、緑の稲はどこまでも広がっていた。そしてその向こうには雄大な穂高連峰の山並みがあった。そして夏から秋には稲穂の上をわんわん飛ぶトンボの数も半端なものではなく、圧倒されるほどの賑やかさだった。
ある日の夕方、近所の川べりにいると、いつの間に近くに来たのか女の子が声をかけてきた。お下げ髪の女の子は一見して年が近いように思われた。
父ははっきりと言いはしないが、寂しかったのか、はたまた地元のガキ大将にいじめられて悔しかったのか、泣いていたのに違いなかった。なぜなら、ジャガイモのような顔の父に、女の子の方から声をかけてくるなんてことはあり得ないのだ。そしてこれもはっきりは言わなかったのだが、相当に可愛い女の子だったに違いない。
疎開先の親せきの家には年の近い子供がいなかったから、女の子とはいえ、まともに会話ができて嬉しかったのだろう、思いつくまま父は話しこんだそうだ。話をしているうちに、その娘は2つ年上だということがわかった。やはりみすぼらしくも哀れをさそう父に仕方なく声をかけてくれた優しい年上の女性だったのだ、と私は確信した。
あっという間に陽もおちて、帰る段になった頃、ようやくお互いに調布の住人だと知れるのだった。さて、父としては、また会いたいという気持ちになるのは、無理からぬことで、一応お互いに名乗りあって分かれたものの、その娘とはその後あうことはなく終戦、父も深大寺に舞い戻って、母と結婚したのだった。
古い人間の父は、子供の頃の思い出とはいえ、口にすることは今までまずなかった。しかし、2年前に母が亡くなってから、多少饒舌気味になり、こんなことも打ち明けるようになったのだ。
父の話にはまだ続きがあって、これは私としても驚いたことで、東京へ帰ったらもう一度会おうと約束をしたというものだった。彼女も調布の住人だったからこそ思い切れたのかもしれなかった。
戦時中に得られる情報といえば、彼の「大本営発表」しかなかった。東京に本当に帰れるのかどうかさえ怪しいものだと、子供の父でさえも情報の信ぴょう性を疑っていた。それでも、父は別れ際、しかもその娘の姿が見えなくなろうという時にようやく「お互い調布に戻ったら、今日、同じ日に深大寺の山門で会おう!」と叫んだのだという。大したものだ。これを約束といっていいものかは大いに疑問なのだが、父の中ではそういうことになっているのだ。
父が亡くなり三周忌法要を常演寺で執り行った。親せき連中もそこそこの数で、両親の思い出話をしていたとき、父の疎開先での話しをしてみた。一同は父の「初恋の話」を聞いて、大いに受けていたのだが、母の妹にあたる叔母は笑わず、少し妙な顔をして聞いていた。私はそれが気になり、弟に仕切り役を任せ、叔母に声をかけてみた。
「いやね、良ちゃん。私、今と似た話しを聞いたことがあるんだけどね。私たちも長野に疎開していたことがあってね…。」
と語りだした叔母の話しによれば、母の姉妹と父はどうやら同じ長野県の豊科地方に疎開していたらしいのだ。私が母はなぜ戦時中の話しをしなかったのだろうかと問うと、空襲による両親の死が原因だと叔母は教えてくれた。そうするとあの川辺で父と出会った女の子は母だったのか。
しかし、父が長野で出会ったのは母ではなく、どうやら母の双子の妹のほうだということがだんだんとわかってきた。
母は末子の叔母を含めた3人姉妹で、調布市下石原で生まれた。母は真帆といい、妹は美帆といって、双子の姉妹だった。
そして、美帆叔母は戦争が終わって実家に戻ってほどなくして、肺結核であっけなく死んでしまったのだそうだ。美帆叔母は長野で出会った少年、つまり父との再会を亡くなる直前まで楽しみにしていたことを母たちに語っていたのだそうだ。
「美帆はこっちに戻ってくること自体しんどくてね、死ぬ前まで深大寺の山門に行きたい、行きたいって言ってたの。そのとき美帆が言っていた男の子の名前は忘れてしまったけれど、まさか武四郎さんだったとわね。」
「父さんは見合いで母さんと出会ったって言っていたけど、母さんと結婚を決めたのは美帆さんの面影を母さんに見つけたからなのだろうか。」
「そうかもねえ。」
たくさんの参詣客を迎え入れている深大寺の山門は過去本堂の火災にも耐えて、創建当時の姿を伝えているそうだ。そして、ここで祀られる深沙大王という神様は縁結びの神様であるらしいことを最近知った。
ここに来るという想いが適わなかった母の妹、美帆叔母の無念さを考えると胸が詰まった。父と母がめぐりあって結婚したのも、美帆叔母の想いがそうさせたのだろうか、それとも深沙大王のお慈悲だったからなのだろうか。
「父さんの初恋かあ…。」
橙色の夕焼けに映える深大寺の山門を振り返ると、坊主頭のジャガイモ顔の父が待ちぼうけをくらう姿が思い浮かんでしまい、つい吹きだしてしまうのだった。
唯坂 陣(東京都調布市/40歳/男性/会社員)