<第4回応募作品>「池と亀」 著者: 渡辺 雅幸
小さな頃からその周辺で遊んでいて、深大寺は私の庭みたいなものだった。四本並ぶ大きな桜の内どれが一番大きいのかも、道の横に隠れている黒い石も、私に知らないものはなかった。私はそこの全てを知っていた。
だけどその池は私の知らないモノだった。
突然現れた池。それは本当に突然だった。私の記憶が確かなら、そこには地面が続いていたはずだ。毎日のように遊んでいたのだ、間違いはない。だのに今は目の前に池がある。近くに川もなかった場所なのに、今では水の満ち満ちた池がある。
池の水は澄んでいて、でも底までは見えそうもない。深いわけじゃない、なにかが邪魔をしているのだ。
大きさは両手を広げたほど。周りの雑草は、誰もここを手入れしてくれる者がいないことを語っている。きっと誰も知らない場所なのだ。私はなんだか、池に心が引かれた。
私は池に何度も通うようになっていた。でも、それは誰にも言わない。ここに池があることも、私が来ていることも。縁に座って池を眺めると、風が吹いて水面を揺らした。葉っぱが落ちてきて波紋を作った。たまに私は池の表面を撫でてみた。山と谷が交互に並んでリズムを作る。反射して、打ち消しあって、干渉し合って、水面全体に広がっていく。けれど波紋は次第に薄れ、すぐにもとの平らな水面へ。池を見ているだけで、日が暮れるのも忘れる。
いつの間にか私は、そこに池があることが自然に思うようになっていた。
健くんと出会ったのもそんな頃だ。新しい学校で、私はテニス部のマネージャーとなった。健くんは同じ学年で、同じ頃に入部した。テニスの成長は早くもなく遅くもなく、特に目立つこともなかったけれど、時間があると私は健くんを目で追うようになっていて、一年もするころには私は彼を好きになっていた。
私は学校が楽しくなった。そして、学校からの帰りには、いつも池へと行っていた。池は、ほんの小さな波だったこともあれば、大波だったこともあった。私はその変化をみるのがなによりも楽しみだった。
その日も、私はいつものように池に行った。他の誰もいない、私一人だけの時間と場所。
しかし、その日の池には先客がいた。
先客は、私がいつも座っているところに陣取って、じっと池を見つめていた。だけど、やってきた私に気付くとゆっくりと頭をこっちに向けて、短い四本の足を順番にゆっくり動かし私へと近づいてきた。私は小さく悲鳴を上げたと思う。爬虫類というものが全般苦手なのだ。
それは頭を持ち上げ、千切れんばかりに伸ばしながら私を見上げ近づいてくる。凹凸のないその頭は、妙な光沢を持ちながら、所々にしわが走り、根元に近づけば近づくほど、筋が増え、異様なグロテスクさを見せ付けた。
甲羅は、岩のように角張りごつごつしながら、しかし皮のように柔らかそうでもある。身を守る鎧のように見えて、ただ臓器を収めるためだけの、握れば潰れそうな袋のようにも見えた。
カメだった。カメはゆっくりと私に近づいてくる。私は、カメが距離を詰めたのと同じだけ、ゆっくりと後ろに下がった。それでもカメは近づいてくる。しかし距離は縮まらない。カメは諦める気配はない。私たちは池の周りを何週もした。
空が暗くなってきたので、私は帰った。
池にいる時はいつも座って、風や葉っぱの作る水面の波紋を見ていたのだが、ある時私は、もっと大きな波が見てみたくてどうしようもなくなった。池の周りを歩き回り、人の頭ほどの石を見つけた。池の縁ぎりぎりに立って、石を落とす。石は池に向かってななめに落ちていく。池は、石を受け入れるのに一瞬だけ抵抗したが、すぐに包み込み、大きな飛沫を上げて私をびしょ濡れにした。次の日わたしはくしゃみが止まらなかった。
健くんとの喧嘩もそんな具合だった。私は彼に喜んでもらいたくて色々なことをした。マネージャーの雑用だって進んでやった。ユニフォームの洗濯だって、備品の後片付けだって、選手への連絡事項だって嫌な顔せずにやった。
でも、健くんは、それが当たり前のことだと思っていたようだった。私は健くんに褒めてもらいたかったのに、全然褒めてくれなかった。いや、健くんは全く気付いていなかった。
私は不満を露わにした。そして、喧嘩になった。
帰りに池に行くと、またあのカメがいた。カメは私を見つけると、のっそりと近付いてくる。私はカメの速度に合わせて後ずさる。
池を周回しながら、私は考えていた。このカメは私と同じだ。カメは私に触れたくて近付いてくるのに、私が逃げてそれは果たせない。健くんに喜んでもらいたくて行動するのに健くんが喜んでくれない、私と同じだ。
カメに同情した。自分がいくら望んでも、相手が全然応えてくれない、それほど悲しいことがあるだろうか。
私は足を止めた。カメは着実に歩を進め、間を詰める。頭を持ち上げ、私をまっすぐ見つめたままだ。私はしゃがみ、カメを待つ。
ほら、触りたいんでしょ。
近付いてきたカメの頭を撫でようと、私は手を伸ばした。カメは変わらない目で私を見つめている。
カメの頭は一体どんな感触がするのだろうか。光沢を見る限り、ぬるぬるしているだろうか。それとも乾いてざらざらだろうか。温かいのかな。生温かいのか、冷たいのか。
カメなんて見るのもいやだ。触るなんてもってのほかだ。けれど、私はこのカメに触れてあげなきゃいけない。このカメは私と同じだ。求めているのに、得られない。そしてそれを悲しんでいる。私が触れてあげなきゃ、このカメは泣いてしまう。
だけど。
カメは、ふいと顔を背けると、歩き出した。私とは違う方向に。
え?
どうして? あなたは私に触れたいから近寄ってきたんでしょ?
カメは一度だけ振り返り、こう言った気がした。 同情はいらない。そして、カメはそのまま姿を消した。
カメはただ望んでいただけだった。自分が望む通りの結果を得るために、努力していただけだ。私に対して何も要求してこなかった。私が無理をする必要は何もなかった。私が何かすることなんて、カメは望んでいなかったんだ。だからカメは帰った。私に触れられることなく。
私はどうだ。健くんからの見返りを期待していた。そして要求した。そして、それが得られないことに不満を述べた。勝手に健くんに対して行動して、健くんの不作為に怒っていた。でも、私が健くんに何かするのが私の自由なように、健くんが私に何もしないのも健くんの自由なんだ。見返りを期待した行動で、見返りが得られないからって、怒るのはおかしいことだ。間違っていたのは私だった。
次の日、池に来ると、カメは縁に腰を下ろして池を眺めていた。私はカメの横に座った。
私、健くんに謝ってきた。あなたのおかげよ。ありがとう。
カメは言葉が理解できないという風に頭を上げた。いつものように私を見上げる。倒れそうなくらい全身を立たせ、千切れそうなくらい首を伸ばして。
私はカメに手を伸ばした。カメの頭はすべすべしていた。ちょっとだけ温かい。でも不快なものじゃない。
カメは私を受け入れてくれていた。目を閉じて気持ちよさそうにしてくれる。あごを撫でるとぴくんと跳ねた。首をさすると上下に揺らした。けれど、もう十分というように頭を上げると、カメは池へ歩き出した。水面を見つめるカメを見て、私は少し怖くなった。カメが溺れてしまうんじゃないかと思い。
カメは頭を水面につけ、少し揺らした。波紋ができる。広がって、しだいに薄れていく。
「あ」
地上でのゆっくりとした動作が嘘のように、カメはあっという間に池の中へと消えていった。大きな波紋が私の心に広がる。
渡辺 雅幸(東京都八王子市/20歳/男性/学生)