<第4回応募作品>「ことのは 」 著者: 四季
高熱にうなされていた私が一命を取り留めたのは、奇跡というほかなかった。
原因不明の病気というのは現代においてもままあるもので、でもそれが自然の摂理と言えるならば、もう仕方がないのかな、とも思う。
けれども、21歳になったばかりの、女子大生の私が、いまこのまま人生を終わらせるのは、とてももったいない気がした。
苦しい、けれども生きたい。多分、生まれてはじめてそう思った。
だから、病院のベッドの上で目を覚ました時。消毒液のにおいで、ここが天国ではないと分かった時。生き延びたのだと分かった時。
涙が、にじんだ。
自分の呼吸が、いとおしかった。
光が優しく、まぶしかった。
『そんな、耳が、聞こえないんですか?
声も出ないなんて…』
医者と私の前で、母親は泣き崩れた。
『いやだ、いやです。』
母親の唇は、しきりにその言葉をつむいでいたけれど、音なし映画みたいに―私の耳には、母の嗚咽は届かなかった。
もう私の鼓膜と喉が、一生、震えることはないと知った。
半年前の出来事だった。
―深大寺が好きだ。
昔から好きだったけれど、音を失った今、なおさら思う。
高熱によって、聴覚と声帯は半年前に失った。けれども、視力が残ってくれたことはありがたかった。おかげで私は好きな絵を存分に描くことができたし、深大寺の深い緑や神代植物公園の極彩色の花々を楽しむことができた。
鮮やかな植物公園も、縁結びで名高い寺も、私のスケッチにもってこいの場所だった。
今。
私は、待っていた。
半年ぶりに。
深大寺の入り口で、彼を。
肩をたたかれ、振り返る。
『待った?』
彼の唇が、その形に動いた。
私は笑って、首を振った。
『ひさしぶり』と、音をつむがない唇を、そう動かした。
正直に言って、私の世界から音が消えたこの環境を、私はそれほど悲観していない。
今も時々泣いてしまう母には悪いが、音がない分、好きな絵に集中できるし、私が好きな人は、みんな私の目の前にいてくれる。
今日、私のスケッチに付き合ってくれるこの友人も、私のために涙を流してくれる母も。
石段を登り、お参りをする。
優しく深い味のお蕎麦をすする。
スケッチする。彼は写真を撮る。
店先で饅頭を買う。
並んで食べる。
またスケッチする。彼は写真を撮る。
縁結びの神様にお願いする。
―私たちが、いつか恋人同士になれますようにと。
昔。
私の世界にまだ音があふれ、私がそのことを当然の、毎日の出来事としてとらえていた頃。
「今、写真撮ったでしょ?」
私は振り向いて、彼に話しかけた。
「うん。」
彼は素直にうなずいた。
「私を撮ってたでしょう?ストーカー?」
彼は、今度は首を横に振った。
「写真部だから。」
大学の、美術サークルの教室で。
キャンバスに向かって、油絵を描きなぐっていた私を、彼は撮っていた。
「すごい迫力だね。」
「絵が?」
「いや、描く姿が。」
パシャ、と、また音がして、光った。
彼はまた私を撮った。そして笑った。
「鬼気迫る姿だった。」
これが出会いだった。
私はこの絵を、彼はこの時の写真を、共に大学の文化祭に出展して、私たちは友人になった。
絵や写真についてを語り合う、友人に。
ああ、でも。声が出ているうちに、『好きだ』と伝えておけばよかった。
深大寺のそば屋で。
おばちゃんが、私に注文をとりに来た。
―彼はトイレで席を外していた。
私はポケットから、小さなノートを取り出し、最初の1ページ目を、おばちゃんに見せた。
『私は耳が聞こえません。話すことができません。申し訳ないのですが、筆談でお願いします。』
見終わると。
おばちゃんは、私の顔を見て、分かったようにうなずくと、一度店の奥に引っ込んだ。
けれどすぐに戻ってきて、手には紙とペンが握られていた。
『ご注文は?』
と、おばちゃんは、丸い、優しい字で綴る。
『おすすめは、天ぷらそば』
私は、自分のノートに綴る。
『おいしいんですか?』
おばちゃんは大きくうなずいて、『もちろん。そばはここの名物ですもの』と記載した。
私は笑って、じゃあそれを、と頼む。
彼の分のそばも一緒に注文して。
『またきてね』と、帰りがけ、おばちゃんはレシートの裏に文字を書いて渡してくれた。
音がなくなってから、私はいかに自分が『優しさ』に鈍感だったかを知った。
こういう温かさは世界にあふれていたのに、私はそれを見落としていた。
見ない振りをしていたのかもしれない。
ああ、絵に描きたいなと思った。
目に見えるそのままの風景ではなくて、見えないはずの、でも心に届く、心打つものを。私が素通りしてきてしまったものを。
描きたいな、と。
私のお向かいで、熱心にそばを食べていた、彼の、隣で。
できることなら、ずっと。
そば屋を出て、私はまた道端でスケッチをはじめ、彼はそんな私を撮った。
シャッターを切る音は、もう耳に届かない。
分かるのは、目に見える刹那の光だけだ。
緑の森の中に、見える光を私は描く。
それは彼の存在であり、おばちゃんの優しい文字であり、そしてきっと、木々の生命力。私が失いかけ、憧れてやまないものたちだ。
続いていた、シャッターの光が止んだ。
彼が、何かを言ってきたのが分かった。
私は、スケッチブックから顔を上げる。
そろそろ太陽が傾きかけてきていた。
『将来は、画家になるの?』
彼の唇が、そう動いた。
私は、『わからない』とスケッチの裏の白紙に書いた。『でも、なりたいと思う』と。
彼は『向いてると思うよ』と言った。
私はうなずいて、
『あなたは、写真家?カメラマン?』文字を書いて、尋ねた。
『なれれば、いいね』
筆談を交えたこのやり取りは、ひどくまどろっこしくて。慣れていない彼に、少しだけ申し訳なくなった。
『そろそろ帰ろうか』
彼は言った。そして私に手を差し出す。
そう、日が沈むと、筆談がやりにくくなる。
私はうなずいて、彼の手を取って、立ち上がった。
けれども、彼はまだ手を離さない。
不思議に思い、彼を見上げる。
目が合う。
距離の近さに、めまいがして、スケッチブックが滑り落ちる。
後ろに下がろうとした。でも、
『きみを』
白い私の手のひらに。
彼が、指で文字を綴った。
『撮り続けたいんだ』
『できれば』
『ずっと』
「すごい迫力だった」
そう言ってシャッターを切った彼が、まぶたの裏を過ぎた。
私も、あなたの、隣で―
ずっと、描きたいと思っていたの。
『好き』
萎えた喉を震わせ、彼に伝える。
私が音を失っても、何も変わらないでいてくれた彼へ。
『あのね、すき』
―だ い す き―
ずっとあふれ出しそうだった想いを、ようやく今、届かない声でつむぐ。
抱き寄せられて、耳元で、彼が何かをつぶやいた。
もう使われなくなったはずの鼓膜の奥が震える。
縁結びの神様が、私の死んだ耳に彼の声を吹き込んでくれたのかもしれない。
「ずっと、すきだったよ。」
懐かしい、彼の声で。
ひどく甘い、耳鳴りだった。
四季(東京都調布市/23歳/女性/会社員)