<第4回応募作品>「どんな風に笑う 」 著者:桐島 千明
枝先を切らた樫の木は体全体をぐるぐると包帯まきにされ、静かに目を閉じて眠っているように見えた。まるで麻酔がきいているかのように。黙ってその木を見つめていると、ついさっき切り離された木の枝がクレーン車のロープにぶら下げられて、不安そうに宙を浮く姿が視界に入ってきた。一本の太い枝から何本かの細くて長い枝が分かれ、そこからまた無数の細い枝が伸び、わずかに葉をつけていた。雲の少ない青い空に自分が切り離した枝のシルエットが漂う。
「今、どんな気持ちなんだと思う?」
仕事を終え、ぼんやりと空を眺めていたので急に話しかけられビクリとし、手に持っていた缶コーヒーをこぼしそうになった。その姿が滑稽だったのか、隣にはサナエさんが笑って立っていた。彼女はまるで気配を感じさせなかった。
「どんな気持ちって、何がですか?」
「あの木のことよ。枝を全部切られちゃって寒そうね。まぁこれから夏になるから丁度いいのかもしれないけど、木を見る側からしたら枝が無いのは可哀想だし惨めよね。夏はやっぱりたくさん葉をつけててほしいわ。それに切られた枝もまさか自分が空を飛ぶなんて思ってもなかったでしょうね」
サナエさんはクスリと笑いながら話した。
「あなたも同じこと考えてたんでしょう?」
「え?」
「ずーっと、あの木を見つめて、ぽけーっと立ってたからさ」
「いやー、そんな深く木のことなんか考えてないですよ。俺はただ、あの木を見て一仕事終わったっていう気分に浸ってただけで・・・。あの木が一段落したんで、明日からは中庭の方に取り掛かりますね」
なんだか、彼女にすべてを見透かされているようで適当な嘘で会話をぼかした。彼女は寂しそうな表情をしながら、ただひたすら包帯でぐるぐる巻きになった木を見つめていた。
「昔はよくあの木に登って遊んだんだよ」
「ええっ、あんな高い木に?」
「うん」
「意外とやんちゃなんですね」
「おじいちゃんがね、こっそり木に梯子をかけてくれたの。お母さんたちは危ないからって木登りは絶対に許してくれなかったんだけどね。おじいちゃんはあたしが木に登りたがってるの、分かっていたらしくって。協力してくれたの。お父さんとかお母さんが見ていない隙に小屋からはしごを出してきてね、登るの。おじいちゃんとあたしは共犯者だったんだ、見つかったことは一度もなかったんだよ」
「今も登ったりするんですか?」
「三年前にね共犯者が死んじゃって。おじいちゃん、体も弱くなってたし、二人で悪さしてたのは子供の時だけ」
「そうなんですか」湿っぽい話をからっと話す彼女に、なんて言葉を発したらいいのか分からなかった。
「明日も来るんだよね?」
「はい」
「じゃ、明日またね」
彼女は静かに微笑み小さく手を振ってパタパタと庭の砂利道を駆け玄関に姿を消した。
彼女と初めて会ったのは二週間前だった。枝先が死んでしまった木の切断と庭の手入れの仕事でこの家にはじめて来たのは七月の初めだった。これまでたくさんの家の庭を見てきたが、こんなも花に彩られ草木が茂る家を私は見た事がなかった。夏椿の白、百日紅のピンク、紫陽花の紫、金糸梅の黄色、ノウゼンカズラの赤、他にも名前の分からない花々が庭中に咲き乱れ、この世に存在する色のすべてが集まっているようだった。足を一歩踏み入れた瞬間、まるで不思議の国にでも迷い込んだ感覚を味わったのを今でも覚えている。
中庭に行くと真っ白なワンピースを着た女性がホースで草木に水をかけていた。ホースの先からいくつもの水滴が空中を舞い、キラキラと世界を輝かせていた。その水滴が彼女の瞳に映り、まるで涙を浮かべているような、潤んだ切なそうな表情に見えた。
一瞬、轟々と激しい風が吹き草木がなびき、花が散り、彼女のワンピースの裾がひらりと舞ったのと同時に、水滴が彼女を濡らした。風がやみホースの水の流れも、スカートも草木もすべてが元道理になると呆然と立ち尽くす私に彼女は笑顔を向けた。
「パンツ見えた?」
「あ、はい」
それが私と彼女の初めて交わす会話だった。
仕事が終わると仕事の先輩と蕎麦を食べて帰るのが日課になった。河内先輩は、蕎麦の正しい食べ方なんだと言って、山葵だけを食べてみろとせがみ私はいやいや山葵だけを口に運んだ。ツンとした刺激が鼻の先を刺し、涙目になると河内さんに笑われた。
深大寺の蕎麦を初めて食べた時、ずいぶんとまばらだなと思った。一本一本が短かったり長かったり、薄かったり厚かったりしていた。それらは均等な形をしていない。機械ではなくすべて人間の手によって作られたものの気配が漂っていた。口に運ぶと芳醇な蕎麦粉が香り、浸した蕎麦つゆと刻み海苔や、葱、わさびが、それぞれの味で私の口の中を楽しませてくれる。
「お前、あの娘と仲いいのか?」河内さんが不意に質問してきた。あの娘ってサナエさんの事かなと、なんとなく思った。
「あの娘、引きこもりらしいな」
「え?」
「もう何年も家から一歩も出てないらしいぞ。こないだな、あの娘のお母さんと話す機会があってな、そんな事ほのめかしてたんだよ。若いのにな、お前と同じくらいだろ年も」
そう言われると確かに、ほぼ二週間サナエさんの家に通っているが、彼女はいつも家にいるし外に出たところなんて見た事がなかった。
「病気かなにかですかね?」
「いやぁ、そこまではさすがに聞けなかったけどよぉ、見た目は健康そうだし、精神的なもんなんじゃねぇのか?」
私は黙って残りの蕎麦をすすった。蕎麦湯が運ばれてきたので麺つゆに注いだ。真っ黒だった液体が白身を帯びて薄まっていく。口に広がる蕎麦湯の香りをゆっくりと飲み込んだ。
中庭の木の剪定に取り掛かったその日、仕事をしていると太鼓や笛の音が耳に入ってきた。ここへ来る途中も浴衣を着て涼しそうに歩く人達とすれ違った。季節はすっかり夏になろうとしていた。毎日触る木々の葉は生き生きと緑色を増し、この庭に咲く花々も競って個を主張するかのように彩を増す。前よりもいっそう強く。それらを見ていると眩暈がしそうだった。本当にこの庭は迷宮のようだ。
刈り終わった葉を集めていると縁側にサナエさんが立っていた。
「お疲れさん」彼女は缶コーヒーを私に向けて投げた。驚いて缶コーヒーを落としそうになる私の姿を見て、彼女はいたずらっぽく笑った。
「庭、きれいになったね。ありがとう、色々とやってくれて。お母さんも満足してたよ」
「それなら、よかったです」
「水かけてもいいかな?」彼女はホースを引っ張り出し、刈り終わったばかりの木に向けて水をかけはじめた。その姿は初めて彼女に会った時の光景そのものだった。
遠くからどーんと低い太鼓の音が響いた。
「あぁ、今日はお祭りなんだ。そんな季節なんだね」
「お祭り見に行きません?」彼女は驚いたような表情を見せた後、すぐさま困惑した表情になった。
「行きたいけど、行けるかな・・・」私は黙って俯いて困っている彼女の手を引いて庭の外に出た。後ろを振り返ると俯いたままだったが彼女に抵抗はなかった。
木々に囲まれた道を下ると、太鼓の音が近づき、心臓に響いた。赤提灯に囲まれた空間には色とりどりの浴衣を身にまとった人達が音に合わせて踊っていた。人だかりに近づくと彼女は瞳を潤ませ始めた。今まで見たことのない弱々しい顔に私も少し動揺した。
「人ごみはだめですか?」彼女はコクリと頷いた。人だかりを抜け、蕎麦屋が立ち並ぶ通りを歩くと、葱の香りや、饅頭を蒸す甘い湯気の香りが鼻を刺激した。
「あ」彼女が小さく何かに反応した。細い坂の前で立ち止まり嬉しそうに見上げていた。「・・・懐かしい、この坂、よくおじいちゃんに手を繋いでもらって登ったんだ」
「登ってみます?」
「・・・うん」人気のない坂を彼女と二人で登った。
お団子屋や花屋が並ぶ坂を上ると矢印で延命観音と書かれた道が現れた。人の気配はなくうっそうと茂る木々が夕方の影を作っていた。
風が少し吹いた。ざわざわと葉が揺れ私の心の中にそのざわめきが響いた。
彼女の手を引き歩こうとすると彼女は動かなかった。
「久しぶりに外に出たの。・・・わくわくするけど少し怖いの」あの庭では見せたことのない弱々しい顔でそうつぶやいた。初夏の冷たい風が汗を冷やし、自分の腕に鳥肌が立つのがわかった。
「大丈夫ですよ、怖いことなんかなにもありません」
坂の下からは人のざわめきが聞こえた。
そして太鼓の重低音が・・・
どーんどーんと心臓にまで響く太い音は鳴り止まなかった。
桐島 千明(東京都調布市/23歳/女性/会社員)