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「しくん 」著者:岩田寅次郎

 天気だけがよかった。弘樹は深大寺山門前まで来て、苦い顔をした。わざわざ休日に来たために人がたくさんいる。弘樹はあまり人ごみが好きではない。平日は長い雨続きで、梅雨が来たと気象予報士が言っていた。しかし今日は雲一つない快晴だ。おまけに湿度も高い。まわりの人の中にはすでに薄着姿がいて、さらには日よけ帽子や傘なども見られた。
弘樹は門前まで来ていながら、参拝をするために続々と門をくぐっていく観光客を見送っていた。弘樹はその様子を尻目に、ゆっくりと右の道を行った。
バッグから大学ノートの切れ端を引っ張り出して、中空で広げる。嫌々でもここに来なければならなかった理由。それがこの薄汚れたノートの切れ端で、菜々美が送ってきたものであった。
菜々美とは高校のときに市の図書館で知り合った。同年代で本好きが少数派だったというところから話をするようになった。学校の図書室でも頻繁に会うようになり、そこで初めてお互い図書委員だったということを知った。弘樹はやがて菜々美に対して好意を抱くようになった。大学は同じところに進み、どちらからというわけでもなく、一緒にいる時間が多くなり、自然と交際が始まっていた。
 その後、菜々美は大学卒業後、地元の公務員に、弘樹は東京で就職したため、互いの距離は身心とも徐々に離れていった。そんなある日、彼女から突然手紙が届いた。味気ない白い封筒に入っていたのはノートの切れ端で、そこにはこう書かれていた。
「あの時の深大寺のお蕎麦屋さんの話、覚えてる? 場所を書いておくから行ってみて。しくん」
 二年ぶりの連絡が手書きの手紙かと思えば、内容は短く一方的なものだった。突然の手紙に謎の文面、それだけで弘樹は困惑していた。それと同時に、大学時代二人で立ち寄った立ち食いそば屋での会話を思い出した。
「ねえ、深大寺って知ってる?」
「いや知らない」
「そこのすぐ近くにあるお蕎麦屋さんがね、すごく美味しいの」
「へえ、寺とか行くタイプだっけ」
「昔、家族で行ったの。雰囲気もよかったし、今度二人で行かない?」
 立ち食いそばなんかより絶対美味しいって、と店主の前で力説する菜々美を制しながら、内心興味がないくせに、いいよ、今度行こうか、と軽い口約束をしてしまった。その後、何回か催促されたのだが、結局その約束が果たされることはなかった。
 そんな約束をふと思い出して、菜々美はわざわざ手紙を送ってきたのだろうか。しかし弘樹は、すすめられて店に出向くほど蕎麦好きというわけではなかった。ただ蕎麦を食べるために出向くのは億劫だとも感じたのだが、なぜあの時のことをいまさら手紙で伝えてきたのだろうか。そして最後の「しくん」とはなんだろうか、弘樹は不思議に思った。泣いているのだとしても、菜々美は文面でそんなことを書く性分ではない。明らかに不可解な点が多く、それは仕事中でも頭の中から消えることはなかった。
そして今日、深大寺に足を運んだというわけだ。
 店は菜々美が言っていた通り本当に深大寺の近くにあった。門前を右に曲がり、石畳の道を少し歩いたところに、その店はあった。立派な和風の建物で、敷地内は庭園のようになっていて、蕎麦屋というよりは茶屋のようだと感じた。
店に入ると女性の店員が明るく迎えてくれた。店内は昼近くということもあってか、家族連れも多く賑わいを見せていた。すみません、座敷はすべて埋まってしまっているのでと申し訳なさそうに案内されたのは、縁側に小さなテーブルと座布団が置かれた席だった。腰を下ろすと快い風が顔を撫でていった。注文は? と聞かれ、蕎麦屋といったらざるそばかなとも思ったが、菜々美が立ち食いそばより絶対美味しいと言っていたのを思い出し、かけそばを頼んだ。
待っているあいだ心地よい風に身をさらしていると、葉擦れの音が聞こえるのに気がついた。庭園には、何本か竹が長く伸びていた。庇に遮られてみえないが、竹の葉が風に揺れて擦れる音が静かに聞こえた。そこではっとし、弘樹はバッグから乱暴にノートの切れ端を引っ張り出した。「しくん」という文字を見て、次に竹を見た。
「しくんって、まさか此君のことか」
前に本で読んだことがあった。古代中国の晋に徽之(きし)という王がいた。その人は竹がとても好きで、仮住まいの家にも竹を植えさせた。なぜかと人が問うと、何ぞ一日も此の君無かるべけんや、という詩を詠んだという。そこから竹のことを此君と呼ぶようになったと。その話をきいた菜々美は興味深そうにうなずき、
「でも確かに、本当に好きなものっていつまでも傍に居てほしいもんだよね」
と笑いながら言っていた。あの話を菜々美が覚えていたとしたら。前に来たと言っていたこの店に、竹がこうして生えているということを知っていたはずだ。弘樹は手紙の意味がようやくわかった。すると店員がかけそばを持ってきた。ごゆっくりと言われたが、慌てて啜った。二口目も続けて口に運び、あっという間に完食した。
美味しかった。コップの水を一気に飲み、ふたたび竹を見上げた。やはり葉のある上の方は見えなかったが、耳には心地よい葉擦れの音が響いていた。
「何ぞ一日も此の君無かるべけんや」
弘樹はひとり呟き、ノートの切れ端を強く握った。
早々に会計をすませ店を後にした。店を出るとすぐに携帯を取り出し、菜々美の文字を探し当てた。
携帯を耳に当て、しばらくの沈黙。掛かっていなかったかと一瞬思った時に、呼び出し音が鳴った。一コール、二コール、三コール。六コール目をすぎたあたりで、緊張で膝が震えだした。手は気温のせいではなく汗ばんでいる。駄目かと諦めようとしたとき、ガチャと音がした。
「もしもし」
『はい』
「久しぶり」
 緊張で声が裏返ってしまい、背中が冷たく感じた。よく聞くと受話器の向こうでも、速い息遣いが聞こえた。弘樹はゆっくり息を吸い込んだ。
「今日、深大寺に来た。蕎麦も食べたよ」
 反応はなかったが、そのまま続けた。
「でも手紙の内容が気になりすぎて、味が正直わからなかった」
『ごめんね、急に変なことして』
 懐かしい菜々美の声。しかし普段は明るい性格である彼女の、こんな静かでか細い声を聴いたのは初めてだった。
「今度そっちに帰るからさ、良さをちゃんと教えてよ」
そういうと菜々美からの返事はなく、深呼吸をするような息遣いだけが聞こえた。何か言おうと思ったとき、彼女の咳払いがした。
『いいよ、仕事忙しいでしょ。無理しないで』
「いや、大丈夫だよ」
『良さを教えるんだったら、食べに行った方がいいでしょ。私がそっち行く』
いいよ、と言われた時、弘樹は頭が真っ白になったが、さらに次の言葉も理解できなかった。そういえば菜々美は、妙なところで意地になることがあったなあと懐かしさを感じた。
「わかった、来る日にちが決まったら教えて」
『たぶん夏になると思うけど』
そこまで言うと、二人で黙ってしまった。しかしそれは気持ちの悪い沈黙ではなく、どこかほっとした安堵の沈黙だった。
「じゃあ、また」
『また』
すぐに菜々美の方から通話が切れた。先に切りたがる癖は治ってないんだなと弘樹は笑った。道の途中で、親子連れが紫陽花を指差しながら話しているのを見かけた。通りすがりに紫陽花を覗くと、花びらが開き始めていた。子供がそろそろ梅雨だね、と言うのを聞いて、その次は夏だなと弘樹は思った。せっかくだから深大寺にお参りしていこうと、門の前まで行き、階段を上った。門の下に入ると暗くなり、抜けると明るくなった。空を見上げ、本当に今日はいい天気だと思った。

岩田寅次郎(東京都葛飾区/21歳/男性/学生)