*

「年金婚 」著者:新井由行

 路線バスを降りると、郷愁に誘われた。都内にありながらも何か子ども時代に見た懐かしさがあり、新緑に包まれた閑静な参道を歩くと気持ちが若返った気がした。
話には聞いていたが、深大寺を初めて訪ねる。両側に蕎麦屋が並ぶ。昔、遊びで蕎麦を打ったことがあったが、素人には上手につながらなかったことを思い出した。いつもの癖である頭の体操で、「蕎麦とかけて……」と、なぞかけを考える。
ここ数年の休日は、心と体の健康を考えて御朱印帳を持って神社、仏閣を回っている。
今日は百八回目で、いつの間にか、煩悩の数と同じになったなと頬を緩めた。
同い年の妻、文子を大腸ガンで失ったの五年前だった。
印刷会社の人事部で働いていた春岡和也は当時、六十歳の定年を迎える半年前だった。子どもがいないので、二人で余生をどう過ごそうか考えていた矢先だった。
結局、その会社で週三回勤務の嘱託を選び、六十五歳までと決め、勤めて来た。独り残され、炊事や洗濯など日々の生活は、ようやくどうにかなるようにはなった。いよいよ会社人生も、あと三ヶ月だ。退職すれば、ますます一人で過ごす時間が増える。
住宅ローンを完済したマンションがあるが、月に二十万円程度の年金と約三千万円の貯金だけで過ごせるのか。
それよりも大きな問題は、精神的な支えだ。未だに文子のことが忘れられない。三十年も連れ添ったのだから仕方ない、と自分に言い聞かせているものの、そろそろ前向きに生きるきっかけがほしい。このまま老いて行き、病気になったらどうなるのだろうか。
そんなモヤモヤとした頭の中を整理したくて、ファインシャルプランナーで、大学時代の友人、木村晶子に連絡したら、いきなり「婚活に興味はあるか」と質問が来たので、「ないことはない」と、つい答えてしまった。今度、深大寺に参拝するからというと、山門前の蕎麦屋「田島屋」で午後三時に待つように指示されたのだった。
調布駅前に住む彼女はバツイチで子どもはいない。学生時代にはマドンナだった。何を隠そう和也もひそかに心を揺らした一人だったが、相手にもされなかった。もしかして、その婚活相手が晶子なら、この心の穴を埋められるかもと期待しないでもない。
店内は、昼食のピークが過ぎ、ゆったりとした時間が流れる。
金色に染めた髪をした晶子は、フリフリの付いたピンクの洋服を着て店に入って来た。年相応の格好の方がいいのにと、思い出に失恋した。
晶子は、和也がテーブルの上に置いた御朱印帳を見るなり、こう言った。
「あら、まだ、文子さんのことを忘れられないの?」
 いきなり失礼なことを言ってくる奴だ。亭主の浮気が原因で離婚した人とは違い、こちらは愛妻を亡くしたんだ、と反論したかった。
「当たり前だろう」
「まぁ、そうね」
 気を取り直して、本題に入ろう。
「それで、電話で話したように、これからの生活が不安なんだ」
「その年齢だと、大した収入もないし、再婚もできそうもないし……ね」
 随分とズケズケ言ってくれるじゃないか。まだ「男」を捨てていないぞと気持の中で反発した。この女は美人だが、昔から口は悪かった。
 晶子は、店の奥に向かって「ジュンコさーん」と呼んだ。
「はーい」と、現れた女性は「田島潤子」と名乗った。和也の御朱印帳を見て、「私も以前、たくさんの神社仏閣を回りましたよ」とほほ笑んで語りかけて来た。六十三歳だというが、目鼻立ちと肌がきれいで五十代前半に見える。品と落ち着きのある栗色に染めた髪で、紺の和服を着ている。晶子のクライアントで、ここのオーナーだという。店は、甥夫婦に任せて、隣で土産物屋を営んでいるらしい。 
「潤子さんも、ここでお蕎麦屋さんをしていたご主人を病気で十年前に亡くしているのよ」
 娘さんが二人いるが、千葉と埼玉でそれぞれ家庭を持っているという。
「ねぇ、春岡くん、潤子さんの第一印象はどう?」
「どうって言われても……」
 婚活に興味があるかとは、このことだったのか。
「潤子さんの方は、春岡くんの第一印象はどう?」
「誠実そうな方でいいですね」
和也は、そう言われて悪い気はしないし、潤子に対する見方がさらに良くなった。
晶子は、胸を張って言う。
「そうなのよ、春岡くんは、大手企業の人事部で働いているの。中途採用の担当だから、人を見る目はあるわよ。だから、今回のお仕事にちょうどいいんじゃないかと思ったのよ」
えっー、今回の仕事って何のことか、と和也は不思議そうな顔をした。
晶子は、「詳しいことを話してなかったわね」とカバンからパンフレットを出した。
『ハッピー仲人協会』というゴシック文字が見えた。和也が、中をペラペラめくると、仲人協会のフランチャイズ・チェーンのオーナー募集だった。『独身者に喜ばれるやりがいのある仕事です』『これから益々ニーズがあります』という宣伝文句が並んでいる。
 潤子は、笑顔で説明する。
「恋愛成就のパワースポットの深大寺だから、仲人業を副業にするにはいいかもしれないとひらめきました。それで晶子さんに色々と相談したのです」
その副業を手伝ってくれそうな人を探しているので、自分に白羽の矢が立ったわけか。
 人と人のマッチングなら、これまでの自分のキャリアが活かせそうだし、潤子のような美人とビジネスパートナーになれるのも楽しそうだ。
 晶子が提案してくる。
「じゃあ、春岡くん、仲人になるための勉強会が今度あるから、参加してみる?」
「うん、ぜひ」
 晶子は、「春岡くん、この仕事で多少の収入にはなるから、悩みの半分は何とかなりそうね。問題は、あと半分ね」と肩を叩いた。
「数年したら老人ホームへの入居を検討した方がいいのかな?」
「それも一つね。でも、結構お金がかかるわよ。かといって、一人暮らしのままだと、病気になったら困るわね。第一、寂しいわよ」
「もしかして、潤子さんの仲人会の顧客第一号になれって話?」
 ミイラ取りがミイラか、と和也は、笑って質問した。
「そうじゃないの。最近、『年金婚』って考えているのよ。これ、私が勝手に名付けたんだけどね。春岡くんみたいに、一人暮らしに不安を覚える人は多いのよ。でも、いざ結婚となると、子どもがとか、お墓がとか、財産がとか、様々な問題が出てくるでしょ。恋愛はするけど、結婚はしないで、お互いの年金を共有して生活するの。二人で住めば、住居費や光熱費も一軒分で済むしね。何かあれば、救急車を呼んでもらえる。そんな適度な距離を持った関係を考えるんだけど、どうかしら……」
 その話を聞いていた潤子の目が丸くなった。
「それは、新しい生活形態で、これからの時代に合っているわね。その仲人協会の方針に沿わないようなら、加盟しないで、年金婚もオーケーの独自の仲人会にすればいいだけよね。どんな形でも、結ばれて幸せになることが良縁だと思うの」
「年金婚か、面白そうだね。恋愛は若者だけの特権じゃないね。この深大寺は、むしろ中高年のデートコースだよ。人生の年輪を重ねたからこそ、その良さが分かるように、年金婚活者同士が交流できる蕎麦打ち教室や落語会などを開いてもいいなぁ」 
 そうでしょ、という顔で晶子が二人の顔を交互に見る。
「これからは高齢者に商機ありよ。そうだ、二人で年金婚してみてはどう? 自ら幸せになった仲人カップルが、橋渡しをした方がありがたみあるでしょ」
あれっ、やはり潤子とのお見合いなのか。相手が潤子になるかは分からないが、仮に年金婚なら、文子と同じ墓に入れるから、言い訳が付く。老後の生活に少し前向きな気持ちになって来た。 
 潤子は、とりあえずは、仲人業の仕事仲間が見つかったと、店の奥に向かって「ざる三つ」と乾杯の盃代わりに注文した。
運ばれてきた蕎麦はコシがあって歯ごたえがいい。和也は、ようやく思いついた。
「蕎麦とかけて、婚活と解く。そのこころは、〝つなぎ〟が大事でしょう」

新井由行(東京都台東区/53歳/男性/会社員)