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「その人形は、待っていた」著者: 美山はる

秋子ちゃんと僕は、いわゆる、幼なじみというやつだ。隣の家同士に生まれた。年も一緒だったから、互いの両親は喜んだ。朝は一緒に幼稚園に通わせて、帰ってきたら二人で積み木遊びをした。兄弟がいなかったから、遊ぶのはいつも二人きり。小さな積み木を、どんどん積み上げて、どっちが高くなるか勝負する。秋子ちゃんは熱中した。ほおっておくと、半日でも一日でも、同じ行程を繰り返すのだ。
「そろそろ晩ご飯だから、二人ともお片付けしなさいね」
 母がそう言って、積み木を片づけようとすると、秋子ちゃんは積み木を思い切り投げつけた。そして癇癪を起こしたように泣き続けるのだ。僕はそれを、静かに見ていた。秋子ちゃんの気性が激しいからこそ、僕はおとなしい子に育ったのかも知れない。
 あるクリスマスの夜のこと。秋子ちゃんのおばあちゃんから、プレゼントをもらった。ぼくと秋子ちゃんに一つずつ、両手いっぱいに抱えるほどの大きなピンクと青の袋。ぱっと目を輝かせ、リボンをほどく僕。秋子ちゃんはうまくほどけず、じたんだ踏み出したので、ぼくが代わりに開けてあげることにした。中から出てきたのは、青い帽子を被った男の子の人形と、赤いリボンで髪の毛をツインテールに結んだ女の子の人形。
「ふたりとも、この子たちと手を繋いでごらん」
 おばあちゃんに言われたとおり、ぎゅっと男の子の手を握る。すると、
「ねえ、もっといっぱい、遊ぼうよお」
 男の子の人形が、片言で、僕に話しかけた。それがなんだか嬉しくて、何度も僕はその手を握った。秋子ちゃんは、そんな僕の様子をじっと見ていたのだが、突然口を開き、
「私、男の子の人形が、いい」
 そう言って、秋子ちゃんは僕の人形を奪った。女の子の人形なんて絶対嫌だ。僕はわんわん泣いた。だが、秋子ちゃんも負けなかった。悲鳴に近いようなわめき声で、地面を転がった。その泣き声に驚き、折れたのは僕だった。そうしてやむなく、秋子ちゃんが男の子の人形を、僕が女の子の人形を持つことになったのだ。秋子ちゃんは勝手に、女の子の人形を「アキコ」、そして男の子の人形を「ハルマ」と、自分らの名前を付けた。秋子ちゃんは、この人形達をえらく気に入った。年明けから、僕たちの遊びはもっぱら、人形の結婚式ごっこに変わった。家のそばにある深大寺では、よく結婚式が行われる。秋子ちゃんはそれに憧れたようで、僕と、そして二人の人形を連れ出して、その真似事をした。
「誓いの、チュー」
 ハルマ人形はひどく、大胆な男だった。恥ずかしがるアキコ人形を、神社の隅から隅まで追い回し、必ず唇を奪ってみせるのだから。
「ねえ、結婚式! ここで、絶対、やろう! 約束!」
 そうして今度は、僕の小指を無理矢理奪うのだから、なかなか困った女の子である。僕と秋子ちゃんは、仲が良かった。だが、秋子ちゃんは他の子と少し違っていた。声が異様に大きい。すぐに癇癪を起こす。一つのことに異常にこだわる。秋子ちゃんにとっての地獄は、小学校から始まった。
 事の発端は、入学式だった。静かに先生の話を聞く。その当たり前の空気が、どうしても耐えきれなかったのだろう。最初は小さく呻きだし、やがて体をよじり出したかと思うと、秋子ちゃんは突然、椅子の上に立ち上がったのだ。校長先生の話が、ぴたりと止んだ。僕達も、そして両親達も驚いたように秋子ちゃんを見た。先生が慌てて秋子ちゃんに駆け寄った。早く座るように促すも、秋子ちゃんは言うことを聞かなかった。積み木遊びを邪魔された時と同じように、大声で泣き叫んだのだ。僕は恥ずかしくて死にそうだった。
それから、秋子ちゃんの地獄は始まった。みんな、秋子ちゃんの隣の席を嫌がった。秋子ちゃんは勉強も運動も、驚くほど出来なかった。それなのに授業をじっと受けることも難しく、いつもどこか上の空。そして急にふらりと立ち上がるのだ。僕は秋子ちゃんと別のクラスだったが、その行為は僕の耳にも入った。僕にとって一番嫌だったのが、廊下ですれ違う時。秋子ちゃんは僕の姿を認めると、嬉しそうに駆け寄ってきた。周りの視線が耐えられなかった。僕は恥ずかしかった。秋子ちゃんと一緒にいるのが、とても。僕は秋子ちゃんを無視し始めた。最初秋子ちゃんは、自分が無視されていることに気付かなかった。後をつくように僕にずっと話しかけた。聞こえないふりをするのが、僕にはとても辛かった。だけど、みんなが僕らの様子を見ている。僕は、振り返らなかった。そんな毎日を、何日も何日も続けたある日。とうとう彼女は僕に話しかけなくなった。すれ違う直前、頭ごと大きく彼女は目をふせた。そして、僕が通り過ぎたら、その背中をじっとり恨めしそうに見つめているのだ。その視線を僕は感じていた。「ごめん」口元で何度も何度も呟く。そうしないと、罪悪感に押しつぶされてしまいそうだったから。小学五年生の頃。秋子ちゃんのランドセルが、窓から運動場に投げ捨てられた。その日を境に彼女は、特別学級に通い始めることになった。そうして中学に上がる頃。秋子ちゃんは地元の学校では無く、引っ越してどこか遠くの支援学校に通うことになるのだと、夕食の席で母から聞いた。
僕が秋子ちゃんと最後に会ったのは、小学校卒業式の翌日。満開の桜の下でトラックに乗り込む姿だった。彼女は無表情だった。僕も、声をかけなかった。ただ一瞬、ほんの一瞬だけ、目が合った。逃げるように、自分の家へ駆け込んだ僕。秋子ちゃんのお母さんだけが、僕の背中に大きく叫んだ。
「春馬くん、ありがとう! 今まで秋子と遊んでくれて、ありがとう!」
 罪悪感が涙となってこぼれた。そして後悔した。何で僕は、彼女にあんなひどいことをしてしまったのだろう。トラックの助手席に座る秋子ちゃん。その姿を、僕は自分の家の窓からそっと見ていた。秋子ちゃんはハルマを抱いていた。僕の胸は、激しく痛んだ。

 あれから、二十年が経った。僕にはもう、家族がある。職場結婚した僕は久しぶりに、五歳になる娘をつれて実家に帰省した。そこで娘はボロボロの人形を、押入の奥から見つけてきたのだ。
「パパ、見て見て! しゃべるお人形さん!」
 そう言って、僕の背中で聞こえたのは、懐かしいしゃがれたあの声。
「ねえ、もっといっぱい、あそぼうよお」
 二十年も経っているのに。アキコちゃん人形は一瞬で、僕を遠い昔へと引きずり戻した。
「置いて行きなさい、そんなもの。新しい人形、買ってやるから」
 目を背けながらそう言った僕の手を振り払って、娘はアキコちゃんを抱きしめた。手のひらを押すと、しゃべり始めるその人形。娘はえらく気に入ったようだった。
「あんたたち、お昼なんだけどね。私たちもう済ましたから、外で食べてらっしゃいよ」
母が言うので僕は、人形を抱いた娘を連れて、家の近くの深大寺へ繰り出した。
「蕎麦で、いいか?」
小川のせせらぎが、涼やかだ。深大寺に面するように立ち並ぶお蕎麦屋さん。その中の一軒に僕らは入る。お冷やを飲んで、一息吐いた時だ。背筋が、凍った。僕は気付いてしまったのだ。店の最奥、薄暗いテーブルの上に、見覚えのある人形が飾られていることに。
「はい、ざる蕎麦二丁。お待ちどうさま」
「すみません、あの人形は」
 蕎麦をテーブルに並べてくれる、おばちゃん店員に、思わず僕は尋ねた。
「ああ、あの人形ねえ。三年くらい前かしら。ふらっと入ってきた女の人が、置いていったのよ。変わった人だったわ。初恋の思い出なんですって、それ。なんでも今度結婚するから、形見にどうしてもこのお寺の傍に置いていきたかったんだとか」
「結婚、ですか」
 間違えるはずがない。あれは、ハルマ人形だ。幼き日の秋子ちゃんの顔が、鮮明に蘇った。永年積もっていた罪悪感が、静かにゆっくりと、溶け出し始めた気がする。そうか、秋子ちゃんは結婚するのだ。誰かを愛し、愛してもらえる。そんな当たり前の幸せを、彼女も手にすることが出来た。そう思うと、何故か胸が熱くなり、目頭に込み上げるのを感じた。娘はじっと、自分のアキコ人形を見ている。だがふと、何か思いついたように立ち上がると、ハルマ人形の方に駆け寄った。そして、自分の人形をその隣に置いてにっこり笑って振り返る。
「お嫁さん、できたよ! じゃじゃーん、結婚式!」
 ああ、駄目だ。二人並んだハルマ人形と、アキコ人形。僕は涙を、堪えることが出来なかった。

美山はる(大阪府/25歳/女性)