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「手のひらの上」著者: 雪村りょう

今日も浜野は酔っている。
蕎麦屋に入ってもう二時間。浜野は日本酒をひとりであおり続けていて、白いはずの顔は病的なほど赤くなっていた。
「すいません、日本酒、お代わりで」
ラストオーダーです、とやってきた店員に言うと、浜野はざるに残っていた蕎麦をつるん、と飲みこみ、満足げに頷いた。瞼はすでに力を失っているのか、垂れ気味の目が思い出よりプラス十五度くらい垂れている。
「やっぱ二八蕎麦はいいよなあ。十割もいいけどさ、つなぎがいくらか入ってる方が、俺は好きだわ」
でも蕎麦粉だけの十割蕎麦の方が蕎麦らしいじゃん、と言いかけるも、思い直して深大寺ビールで口をふさぐ。そして、わかるわかる、という風に頷いてみせる。
「村井も飲んでみなよ」
一升瓶を抱えた店員が去ると、浜野は不安定に揺れる小さな水面を眺めながら、ゆっくりと桝を滑らせてきた。こぼさないよう慎重に口に含み、返すと、浜野も赤くなった唇で桝に触れる。あ、間接キス、と言いかけるのを私は喉元でぐっとこらえる。
「ねえ、ずいぶんとペースが早いけど。どうしたの?」
「まあ別に、ね」
浜野は空になった桝を脇によけると、私の深大寺ビールを取りあげて瓶ごと口に含んだ。ごぅっごぅっと体の中から響く、くぐもった音に合わせて喉ぼとけが激しく波を打つ。それは彼の嚥下音なのに、まるで自分の鼓動が大きな音をたてて響いているようで、私はうつむき、膝の上で手を握りしめた。

小学校の高学年からずっと、私は目の前の男、浜野に恋をしていた。白く透き通った肌に垂れ気味の大きな目。スポーツが得意で、発売されたばかりのゲームは誰よりも早くクリアするし、みんなを笑わせるギャグセンスも抜群、クラスの人気者で友人も多かったこの男――私とは正反対のこの男に。初恋だった。
告白して振られてからも、諦めることなんてできなかった。消しゴムや絆創膏に浜野の名前を書いたり、すれ違うたびに呪文を唱えたり。両想いになれるというおまじないを片っ端から試したりした。でも全部、だめだった。だからまさか成人式で再会してトントン拍子に二人で会うことになるなんて、当時の私が知ったら驚くに違いない。
おまじないは効かなかったけれど、縁結びの神様は本当にいる――。私は右手を開き、縁結びと書かれたお守りをそっと見た。

「行こうか」
ごとん、と瓶を置くと浜野は荒々しい音をたてながら、椅子を滑らせて立ち上がった。
参道では色とりどりのランドセルが揺れていた。近くに小学校でもあるのだろうか。ぽつり、ぽつりと小さなグループをつくって、深沙堂の方へと流れている。浜野は大きな体を前へ後ろへ、右へ左へと揺らしながらも、彼らの流れにするりと入り込んだ。私は数歩あけて、浜野の広い背中と、ポロシャツから覗く太い襟首を見ながら歩いた。
途中、滝の音にまぎれてかちり、という音が降りてきた。見ると、背中の向こう側から煙が昇ってゆくところだった。
「ちょっと、歩き煙草はやめなよ。まずいって」
「いいじゃん、少しだけ」
浜野が煙草を吸う、それも歩き煙草をするのは正直嫌だ。私の知ってる浜野じゃない、と思う。それでも空にばらばらに消えてゆく彼の呼気を一つの粒子も逃さず吸い込みたくなって、そばに寄った。煙がつん、と鼻を刺し、視界がふわりと白く染まった。

成人式後の飲み会でも、浜野は顔を真っ赤にしながらビール片手に煙草を吸い続けていた。中学卒業以来、たった五年会わなかっただけなのに、身長が伸びて、髭がうっすらと生えて、どこかくすんだ翳のある男に彼はなっていた。
飲み会の終盤、ふいに目が合うと、浜野はふらふらと私のいるテーブルへやってきた。数秒間、私たちは見つめ合っていたが、先に口を開いたのは浜野だった。
「村井って三鷹の大学に行ってるんでしょ? 俺、調布の大学行ってるんだよ。隣じゃん」
煙を吐きだしながら向かいに腰を下ろし、怪しい呂律で言ったのだった。
その後は必死だったから、何を喋っていたのかよく覚えていない。とにかく気がつけば、お互いのスマホが触れあいそうになるほどの距離に近づけて連絡先を交換していた。浜野のデータが私のスマホに入ってくる――若いエネルギーがぶつかり合い、きらきらとした喚声が飛び交う居酒屋で、私は浜野の白い呼気に包まれながら手を震わせていた。
後日、何度かメッセージのやり取りをするうちに、私たちは二人で会うことになった。待ち合わせの場所は、データ交換の夜以来、浜野との縁を願い続けていた深大寺だった。

水車のある蕎麦屋を通り過ぎたあたりから、参道の風景が変わった。木々が生い茂り、影をつくる。参道脇に流れる水が、酔いを醒ます。きゃはは、と駆けるルビー色のランドセルが深緑のなかで眩しかった。
「そういえばさ、村井って彼氏とかいるの?」
「いないよ、ずっといない。浜野は彼女とか……気になる人とかいるの?」
浜野は小学生の流れを抜け、深沙堂へ続く階段を上った。緑はいっそう深く、暗く、それでいて柔らかく、まるで膜のようにお堂を包み込んでいた。私はポケットに入れたお守りを強く握りしめ、浜野の言葉を待った。
しかし歩を止めた浜野は、私を見ることもなくお堂に向かって言った。
「実はいい感じの子がいるんだけどさ、次の彼氏ができるまでのつなぎにされてるっぽい」
「え? つなぎ?」
「一応そうゆう関係なんだけどさ、扱いが雑なんだよ。連絡取れない日があるし、この前だって、あいつの誕生日だったのに会えなかったし」
冷えた汗がじわりとあふれ出し、手のひらに食い込んでいた爪がぬるりと滑った。
「ってなわけでさ、今日は縁結びのお寺に付き合ってもらったってわけ。女々しいっしょ」
風が吹いて、緑の膜が揺れた。視界もぐらりと揺れた気がする。それなのに、背後からの小学生の無神経な喚声が妙に心地よくて、まるで緑の中で踊っているみたいだった。
――いや違う。みたい、じゃなくて私は本当に、ひとりで踊っていたのかもしれない。
浜野はきっと、私の気持ちを分かっている。分かっているからこそ、私を誘ったんだ。自分の寂しさを埋めるために。自分の傷を癒すために。つなぎにされた自分のプライドを、誰かをつなぎにすることで保つために。浜野は、ずるい。
――でも、敵わない。
「大丈夫、大丈夫だよ。せっかくかっこいいんだからさ、頑張って」
「はは、そうやってドキっとすること言うんだから。ま、頑張るよ」
嘘。頑張らないで。何も祈らないで――。
想いが言葉になる前に、すがるような、頼りない目から喜びが浮かび、すぐにくしゃりとした笑い皺に包まれてしまった。そして浜野は煙草を携帯灰皿にしまうと、お堂に向かって手を合わせた。
多分私も手を合わせるべきなのだけれど、何を祈ればいいのか分からない。ただ陶器のように美しく、繊細で、この手で力を加えればすぐに壊れてしまいそうな浜野の横顔を見つめるだけだった。

深大寺通りへ向かう途中、カップルとすれ違った。彼らは手をつなぎ、親しげに歩いていった。私はつなぐことのなかった自分の右手を見る。爪が手のひらを刺し続けていて、じくじくと痛い。
「今日は付き合ってくれてありがとうな」
「ううん、いつでも付き合うよ」ひとり立ち止まって振り返り、私は言った。
「縁結び、叶うといいよね」
返事の代わりなのか、かちり、という音が降りてきた。視界が白く、歪み始めた。

雪村 りょう(神奈川県横浜市/33歳)