*

「調布七中ラブマニュアル」著者: 小呂深雪

           一
 調布第七中学校、略して七中の屋上は午後四時半というのに、真夏の太陽がコンクリートに反射し、ゆらゆらと陽炎が立っていた。僕は陽炎の向こうの鉄のドアをじっと見つめていた。僕の名前は横山武志、三年二組のみんなからはよっちんと呼ばれている。
ドアが重そうな音を立てて開き、ショートカットの頭が見えた。来た! 同じクラスの松本有紀。「何? よっちん、こんな所に呼び出して」有紀ちゃんが不思議そうに聞いた。僕は大きく息を吸い、さっきから何度も心の中で唱えていた台詞をどなった。
「あの……有紀ちゃん、僕と付き合ってください!」
僕は頭を下げて右手を差し出した。僕の頭ごしに有紀ちゃんのさほど驚いたようでもない声が聞こえた。「いいよ、っていうか、最初は友達としてなら」
「じゃあ、デートしてくれる? こんどの日曜日」
「うん」有紀ちゃんがにっこり笑った。よし、第一関門突破したぞ! 僕は差し出した右手を引っ込めて小さくガッツボーズを作った。
次はデートだ。デートには自信があった。なぜなら、僕には強い味方があるからだ。七中の三年男子だけに代々伝わる「調布七中ラブマニュアル」女子はマニュアルの存在をしらない。このマニュアルがあれば、初デートで絶対にキスに持ち込める、と四組の玄樹が言っていた。玄樹もこれで綾ちゃんとのキスに成功したのだ。
デートの前日、夕飯を食べた後、シュミレーションをするため、僕は早々と部屋に引き上げた。僕は机においたジャポニカ学習帳を開いた。プーンと古い紙の匂いがする。裏表紙を見ると「昭和五十八年」と書いてある。マニュアルを見ながら、頭の中で復唱する。まず、読売ランドでお化け屋敷に入り、女子に恐怖を感じさせて自然と手をにぎるだろ。次に深大寺の深沙堂に行き、絵馬にいつまでも一緒にいたいと書くだろ。それから深沙堂の脇の坂道を登って、神代植物公園入り口のベンチに座って、夕日がきれいだね、と言ってからキスをするだろ。僕はマニュアルの注意事項を声を出して読んだ。「キスする時は顔を斜めにすべし。特に初心者は鼻をぶつけることがあるので注意が必要。それと、一番重要なのは、キスをする前に歯を磨いておくこと。息の臭い男子は一番嫌われる」。
リュックの中の旅行用歯磨きセットを手探りで確認した後で、ベッドから枕をとって、顔を斜めにして枕にキスをした。よし、完璧! 僕はにんまり笑って枕を抱きしめた。
 翌日の初デートは順調に滑り出し、マニュアル通り読売ランドのお化け屋敷に入った。想定外だったのはお化け屋敷が思った以上に怖くて、僕が先にお化け屋敷から駆け出してしまったために、手を繋げなかったことだ。
 調布からバスで深大寺へ。三時半、深大寺到着。日没まで時間はたっぷりある。どこかのタイミングで手を繋ごうと僕は考えていた。
 先ずは深沙堂へ。「絵馬書かない?」と僕がいうと、有紀ちゃんは笑って言った。「ここで二人で絵馬を書くと、一生一緒にいられるんだって」ドキッとした。まさか、マニュアルのこと、女子にバレてる?「お姉ちゃんが言ってた。無理矢理彼氏に書かせたって」なーんだ。僕は大きく息を吐き出すと、走って売店に絵馬を買いに行った。さあ、書こうと思ったその瞬間、僕はシャーペンしか持ってこなかったことに気づいた。まずい! 売店に置いてないのかよ、マジックとか。リュックをごそごそしていたら、「はい、これ」有紀ちゃんがにっこり笑ってグリーンのマジックを差し出してくれた。天使のような有紀ちゃんの笑顔に僕はフリーズした。固まっている僕を見て有紀ちゃんが言った。「別の色がよかった? ピンクとか」「ううん、これでいい」まずは有紀ちゃんがピンクの大きな相合傘を描いた。僕は夢見心地で傘の中に自分の名前をグリーンで書いた。
それから深大寺の参道でそばぱんバーガーを食べ、鬼太郎茶屋に入った。僕は鬼太郎、有紀ちゃんは猫娘のタオルハンカチを買った。
本堂でお参りをして、スマホを見ると六時半。そろそろ夕日を見に行かなくちゃ。僕らは本堂の裏手の階段を上って行った。曲がり角をすぎると左手にお墓が見えた。お墓の脇を通っている時に有紀ちゃんが言った。「ねえ、知ってる? ゲゲゲの鬼太郎って、ホントは墓場鬼太郎って名前で、お墓に埋められた母親の死体から生まれたんだって、このお墓がそうだったりして」えー、僕はびっくりしてお墓の方を見た。すると、ガサっと何かが動いた気がした。「あ、猫娘!」有紀ちゃんが叫ぶと、僕は「わー」と大声を上げて駆け出した。後ろから有紀ちゃんが笑いながら追いかけてくる。「冗談よ、ただの猫だって」「何だ、脅かすなよ」僕はこの手の話に極端に弱いのだ。有紀ちゃんは息を切らして、僕の二三段下で止まった。僕が何気ない風を装って手を差し出すと、有紀ちゃんは僕の手を握った。僕は有紀ちゃんを引っ張って階段を上がって行った。手は汗でベタベタになった。
丘に登っても夕日は見えなかった。どういうこと? 深沙堂の方から行かないと夕日スポットには行けないわけ? 有紀ちゃんを見ると猫娘のタオルハンカチで汗を拭いていた。しかたない、マニュアルと違うけど強行突破だ! 僕は神代植物公園入り口のベンチに有紀ちゃんを連れて行った。「疲れない? ちょっと休もうか」僕らはベンチに座った。いよいよだ。心臓が口から飛び出しそうなほどドキドキしている。僕は必死でマニュアルを思い出そうとしていた。ええと、ええっと……「そうだ、目つぶって」「こう?」有紀ちゃんが素直に目をつぶる。あっ、歯磨きするの忘れた、どこかで歯磨きしなきゃ、近くにトイレとかないかな? 僕がキョロキョロしていると、有紀ちゃんが目を開けてしまった。そして僕を見て、ポケットから何かを取り出した。「食べる?」そういうと、ミンティアのペパーミント味を僕の手の平に数粒乗せ、自分も数粒食べた。よし! 今度こそ!「目、つぶって」有紀ちゃんが目をつぶる。ええと、次は、ええと、顔を斜めにして、鼻がぶつからないように、斜め、斜めにして……あー、僕は、体を斜めにしすぎて、バランスを崩し、ベンチからずり落ちてしまった。目を開けた有紀ちゃんが「大丈夫?」と言って、僕の手をぐいっと引っ張った。僕は前のめりになり、気づくと有紀ちゃんとキスしていた。「ぼ、ぼく」僕は思わず顔を離そうとした。「いいから」「うん」
 初めてのキスはミンティアの味しかしなかった。あと、自分の鼻息がやけに大きく聞こえたことも覚えている。鼻息の向こうから太鼓の音が聞こえてきた。
有紀ちゃんが唇を離した。「今日、深大寺の盆踊りだったね」
「いこ」僕は、有紀ちゃんの手を握って立ち上がった。あたりはすっかり暗くなっていた。
             二
 鬼太郎茶屋に入って、もう二時間近くになる。よっちんはほとんど砂糖水になったかき氷を食べながらスマホを見ている。たぶん、日の入りの時間を確認しているんだ。わたしもスマホを取り出し写真を見た。キティーちゃんのノートの写真。「調布七中ラブマニュアル(女子用)」四組の綾子から借りて、私は全ページを写真に撮っておいた。「男子がなかなかキスしてこない時は……」と、ここまで読んだところで、店員さんが申し訳なさそうに声をかけてきた。「あの……閉店の時間過ぎてるんですけど」鬼太郎茶屋を出て、本堂でお参りしていると、六時半になった。「上の方に行ってみない?」来たー、夕日を見ながらキスするつもりだ、マニュアル通り。でも、よっちんがお化け屋敷でびびったおかげでまだ手も繋いでいないんですけどー、手を繋いだ後にキスするんじゃないんですか? あ、いい事思いついちゃった! 私が階段でちょっと脅かすと、よっちんは「わー」といいながら階段を駆け上がった。ホント、怖がりなんだから。私はわざと息を切らして止まった。よっちんがおずおずと手を伸ばす。私は何気ない風を装ってその手を握った。
丘の上に来ると、よっちんが空を見上げ泣きそうな顔をした。だから、夕日なんてどうだっていいんだって、と思ったとたん、よっちんが私をぐいっと引っ張ってベンチに連れて行き、座ると唐突に言った。「目、つぶって」来たー、胸がドキドキして頭が真っ白になったけど、それだけだった。何にも起こらない。私は目を開けた。よっちんがキョロキョロとあたりを見回している。何してるのよ、こんな時に。あ、トイレを探してるのか、歯磨きするために。私はミンティアを取り出した。持ってきてよかった! よっちんがまた「目つぶって」と言う。私は目をつぶる振りをしてこっそり薄目を開けていた。すると、体を斜めにしすぎたよっちんがベンチからずり落ちるのが見えた。もう! 何やってるのよ! 私は手を伸ばしてよっちんを引き寄せた。そのまま、唇を突き出し、よっちんの口にぶつけた。ミンティアの香りが漂う中、私はマニュアルを思い出していた。「男子がなかなかキスしてこない時は偶然を装ってキスすること」ホント、男子って世話が焼けるよ。
深大寺から太鼓の音が聞こえてきた。「今日は深大寺の盆踊りだったね」と私。
「いこ」よっちんが私の手を握って立ち上がった。あたりはすっかり暗くなっていた。

小呂深雪(東京都調布市/55歳/女性/会社員)