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「ゼツボウと私のみちたりた暮らし」著者:七戸健太郎

私は今ゼツボウという名の猫と暮らしている。ゼツボウはピアノ音楽が好きだ。最近はクラシックが好きで、グレン・グールドをかけると満足気な顔で体を丸めて眠っている。
まだ私が会社員だったころ、音楽を止めるのを忘れて仕事に出かけたことがあって、それ以来、ゼツボウはピアノ音楽がお気に入りになった。何もかかっていないときなど、自分よりも二回りほども大きい古いケンウッドのスピーカーの前で、じっとスピーカーを見つめているときがある。音楽を流すと、また満足気にゼツボウは眠りにつく。
二年前にフリーランスのデザイナーになってからは、午前七時には机に向かい、十二時には仕事を切り上げることがほとんどだ。今日もスピーカーからはグレン・グールドが流れ、ゼツボウは穏やかに寝息を立てている。
仕事を終えると私は散歩をする。近くの小さな公園を周り、商店街のパン屋による。甘いパンとしょっぱいパンを一つずつ買う。家に戻るとたっぷりのミルクを温めてゆっくりと食べる。ゼツボウも目を覚まし、食事をして、たっぷりと水を飲む。そして眠る。私も少し眠る。

七月七日、七夕。午後の二時過ぎに啓一朗からメールが来た。今夜うちに来てもいいかとの確認メール。三十分ほど間をあけてから、大丈夫と返事をする。いいに決まっている。私は啓一朗が大好きなのだから。少しもったいぶる。
啓一朗は私の恋人で、月に二、三度うちに来る。食事をして、たまに交わる。泊まっていくことはない。会うのは平日。週末、啓一朗は奥さんや二人の子どもたちと過ごす。私は寂しいけれど、悲しいとは思わない。一緒の時間、私はみちたりているから。一人のとき、私にはゼツボウがいるから。
啓一朗が来る前に私はお風呂に入る。お湯につかりながら、啓一朗のことを考える。
夕方六時過ぎに啓一朗が来た。私たちは玄関で再会のキスをする。織姫と彦星が嫉妬するくらいに、ゆっくりと時間をかけて。
部屋に上がると、啓一朗はゼツボウのところへ行く。ただいまゼツボウ、と顔をくしゃくしゃになでる。ゼツボウはめんどうくさそうに片目を半分ほど開けて、また眠りにつく。ゼツボウと啓一朗は仲がいい。
今日、啓一朗はたっぷりの野菜と果物を買ってきてくれた。葱、大葉、ニンニク、ショウガ、ジャガイモ、パプリカ、ブロッコリー、トマト、アスパラ、シメジ、トウモロコシ、バナナ、パイナップル。それと大きなイチジク。熟す一歩手前のイチジク。匂いを嗅ぐと、とても幸せな気持ちになった。私は果物のなかでイチジクが一番好きだ。啓一朗と私は食の好みがよく似ている。
啓一朗は料理が上手で、家に来ると、いつも食事を用意してくれる。好きだから気にしないで、と言う。もちろん、私は気にしない。おいしいものも、作ってもらうのも好きだから。

私は食材を片付ける。ふと見ると、買い物袋の中に深大寺蕎麦が入っていた。
「あ、深大寺蕎麦」
「日曜日に行ったんだ。上の子と」
「どう?なかなかでしょう、深大寺」高校生まで私は調布で暮らしていた。深大寺南参道の石碑のほど近くに。
「調布の駅から歩いたんだけど、あの辺りはまだ畑もたくさんあるんだね」
「え、歩いたの?けっこう遠かったでしょ。バスは?」
「天気よかったしね。暑かったけど、楽しかったよ。知らない街歩くの好きだから」
「お兄ちゃん、がんばったね」
「野菜の無人販売所、はじめてだったみたい。少し興奮してた。お土産にトマトときゅうりを買って帰ったよ」話しながら、ビールを飲みながら、啓一朗は食事の準備を進めている。鶏肉に下味をつける。長葱は親指大にカットして焼き目をつけている。

まだ私が調布で暮らしていたころ、実家にはキボウと言う名の犬がいた。幼なじみの家で仔犬が五匹生まれて、そのうちの一匹をもらった。真っ黒のコロコロした小さな犬に、私はキボウという名をつけた。あの頃、私は希望という言葉が好きだった。
小学生のころ、夕方散歩に連れて行くのは私の役目だった。深大寺の周りがいつもの散歩コースだった。深大寺通りから三鷹通りを少し登って、神代植物公園まで歩いて休憩する。植物公園前の草むらはキボウのお気に入りだ。私は夏の草いきれが好きで、目を閉じてたっぷりと息を吸った。
休みの日には父と一緒に、キボウをドッグランに連れて行った。キボウはいつも一生懸命に走った。どれだけ自分が走れるかを私と父に見せつけるように。ドッグランからの帰り道、父は私にお団子を食べさせてくれた。父は深大寺ビールを飲んだ。母にそば茶を買って帰ることもあった。
キボウが亡くなったとき、私は泣いた。たくさん泣いた。父も泣いた。母も泣いた。三人でキボウを深大寺動物霊園に連れていき、火葬して納骨した。わたしがキボウを抱えて歩いた。小さなキボウは、思っていたよりも重たかった。

ひとりで暮らすようになって、私は猫を飼うようになった。それがゼツボウだ。「人生を楽しみたければ、絶望を味方につけるといい」高校生のころ読んだ古い物語のなかで、魔法使いの老婆が言っていた。以来、私は絶望を味方につけたいと思った。今、私はゼツボウと暮らしている。

「お兄ちゃん、五歳だっけ?」
「うん、来年小学校だね」大きな鍋にたっぷりのお湯を沸かしながら啓一朗は答えた。
「ねえ、、、」
「何?」
「なんでもない」
ゼツボウは穏やかに寝息を立てている。
「今度、一緒に深大寺へ行こう」啓一朗は言った。
「すてき、行きたい」
「一緒に深大寺ビールを飲んで、蕎麦を食べよう」
「ゼツボウも連れていく」
「もちろん」

啓一朗の茹でてくれた深大寺蕎麦は、鶏南蛮のつけ汁と合わせてとてもおいしかった。デザートにイチジクを食べたあと、私たちは抱き合った。織姫と彦星が霞むくらい情熱的に。
啓一朗が帰ると私は少し寂しくなる。けれど悲しくはない。一緒にいる時間、私はみちたりているから。大人になって私は絶望を味方につけたから。
私は今ゼツボウという名の猫と暮らしている。気がつくと、ゼツボウはスピーカーをじっと見つめている。

七戸健太郎(神奈川県横浜市/男性/会社員)