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「無鉛硝子に恋を映して」著者:yukari

「有終の美だな。間違いなくこの三年間で最高傑作だ。最後の最後でキメてくれたよな」
青丹の作務衣姿の六代目は、木箱から新作の蕎麦猪口を取り出すと、期待通りの感嘆を漏らした。カウンター席から反応を見守っていた私は、胸の裡でガッツポーズを決める。
「私の化身だと思って、大事に使ってよね」という三十路女の本気の本音も、堅物な三十路男は完全スルーで蕎麦猪口を矯( た )めつ眇(す が)めつ、うっとり。…はあ、こりゃダメだ。溜息を吐くと、「沙羅ちゃん、お世話になったわね」厨房から女将さんが気さくな笑顔で現れた。
「こちらこそ、先代の頃からずっと贔屓にして頂いて、本当にありがとうございました」
 椅子から立ち上がり、深々と頭を下げて感謝を告げると、女将さんはしんみりと告げた。
「もう沙羅ちゃんにも会えなくなるなんて、本当に寂しいわ。沙羅ちゃんがデザインする食器もとっても気に入ってたのに、本当に残念よ。でも、一番寂しいのは彬だろうけどね」
 チラリ、女将さんが意味深な視線を息子に向けると、強面に一層険を倍増させて睥睨し、「ババア、余計なことを言ってねえで、さっさと奥に引っ込め!」と口汚く怒鳴りつけた。
「はいはい、邪魔者は退散しますよ。あ、最後だし沙羅ちゃんとお茶でも飲んで来たら?」
 女将さんは含み笑いを残して奥へ戻った。昼の営業時間も過ぎ、客足が引いた店内で再び彬と二人きりになると、女将さんの言葉を意識し、不自然なほど饒舌に喋ってしまった。
「蕎麦猪口は掌で包み込むように持った時、持ち易い湾曲を計算してデザインしたの。クーラーが効いた店内で、陶器に触れても冷たく感じないよう、表面はマットな質感に仕上げた。猛暑の中、わざわざ深大寺に訪れてくれたお客さんに、キュっと締まった冷たいお蕎麦を、あったかい気持ちで味わって貰えるように」熱弁を揮うと彬は複雑な顔を見せた。
「蕎麦猪口一つにそれだけ客のことを考えて創ってくれるデザイナーが、明日にはフィンランドへ発って、もう作品を納品して貰えないなんて、蔵蕎麦にとっても大きな損失だよ」
 そこは『蔵蕎麦』でなく『俺』と言ったらどう?と心密かにツッコむと横柄に返された。
「和食の食べ納めだ。最後に、深大寺の湧水にくぐらせた、蔵蕎麦自慢の手打ちを食っていけ。引っ越し蕎麦に年越し蕎麦。昔から、めでたい門出に蕎麦は付き物だ」

 Tシャツとジーンズに着替えた彬と、炎天下の深大寺通りを歩く。女将さんの言葉通り、彬は蕎麦を食べ終えた私に「華カフェでも行くか?」と無愛想に誘った。勿論、即OK。
知り合って三年も経つのに、こんな風に彬と二人で店の外に出るのは初めてで、胸をときめかせながら歩いた。情緒あるレトロな店が軒を連ねる深大寺通り。その一角に、昨年、父の跡を継いで六代目当主として彬が営む深大寺屈指の老舗『蔵蕎麦』は店を構えている。
そして私は、調布市内に工房を構えるテーブルウエアメーカーで働くデザイナーだ。彬の父、先代の頃から蔵蕎麦の食器類の納品を任されている。でも、それも今日でおしまい。
 
「あ、新作のタンブラーだ!超かわいい!」庭園のテラス席に水立て珈琲が運ばれてくるなり、グラスに反応すると、「やっぱ目敏いな。職業病ってやつか?」と彬は苦笑した。
木洩れ日にキラリ、グラスの縁(ふ ち)が反射し、水晶のように眩しく煌めく。緑園には黄色の向日葵とオレンジ色のマリーゴールドが咲き誇り、木目調のテーブルも椅子も緑に囲まれたテラスに調和している。古民家風の華カフェは蔵蕎麦から徒歩五分、深大寺通りにある。
「やっと夢が叶って、本当に良かったな」唐突に彬に言われ、苦々しい気持ちに駆られた。
「お蔭様で、本当に良かったわよ」捻(ね じ)れて拗(こ じ)れた恋心が、当てつけのように言わしめた。
明日、私は日本を発つ。十年前、テーブルウエアデザイナーを志した頃から憧れていたフィンランドの工房。諦めずにオファーし続け、採用試験に挑戦し続けた結果、ようやく努力が実り、念願の工房で働けるチャンスを手にした。長年の夢がやっと叶う喜びの裏で、後ろ髪を引かれる思いが残るのも事実。呑気な顔で珈琲を飲む眼先(がんさき)の鈍感な男のせいで。 
もはや不毛な恋だと諦め、紙袋からラッピングされた箱を取り出すとテーブルに置いた。
「今まで蔵蕎麦さんにはお世話になったから、これは、ほんの感謝の気持ち。受け取って」
「えっ?何言ってんだよ、世話になったのはこっちの方だろ」驚いて恐縮する彬に、「いいから、早く開けてみてよ」と急かす。躊躇いつつも、私の視線に圧され、遠慮がちに開封した彬は、目を輝かせ歓喜の声を上げた。「すげえ!こんな透明な酒器、初めて見た!」
「綺麗でしょ?その酒器はね、フィンランドのある地方だけでしか採れない希少な石を使って創られた硝子なの。だから、無鉛グラスでも、こんなに美しい透明度が出せるのよ?
一般的には、鉛を入れて硝子の透明度を上げるの。でもこのグラスの工房は、『口に触れる食(も)器(の)だから体に優しく』をコンセプトに、無鉛グラスのみを創る拘(こだわ)りを大事にしている。そんなポリシーに感銘を受けたから、私はどうしても、この工房で作品を創りたかったの」
「そういう奴だから、あの頑固親父も珍しく若い女を信用して、うちの食器を全部任せてたんだ」深みのある声と真摯な瞳を向けられ、動揺して余計な一言まで口走ってしまった。
「それ、フィンランドの工房のオーナーから戴いたの。…実は、ペアグラスなんだけどね」
「ペア?ふ~ん…じゃあ、片割れはお前が持ってるの?」と、ごく自然な流れで訊かれ、
「まあね」と無表情を装って頷き、酒器を眺めた。グラス越しに映る小さな無鉛の世界は、物体の壁を感知できないほど透明でクリアだ。視線と共に秘めた恋心までも硝子を透過し、向こう側に映る人に気付かれないか焦る。純度の高いグラスとは裏腹な淀んだ邪(よこしま)な感情を。
「触り心地もすごく滑らかだ。…ありがとな」しみじみとした感慨を滲ませ、酒器の表面にゆっくりと、優しく指を這わせる。彬の生き方を能弁に物語る指。日々蕎麦を打つ、武骨な職人の指。そんな風に、一度でいいから、その手で触れられたかった。目前に迫る別れを前に、切ないほど強く想った。無鉛グラスを前に鉛を呑んだように胸が重く痞える。
「熟練の職人は指でグラスを触っただけで、〇.一㎜の狂いも分かるのよ?神業だよね」
「俺だってな、〇.一㎜の蕎麦の太さの違いぐらい分かるぞ?それが、匠の技ってもんだ」
 私が十㎝髪を切っても気づかなかった男は、むきになって子供じみた対抗意識を燃やす。
「あ~あ、向こうへ行ったら、和食が恋しくなりそう。当分、蕎麦もお預けかあ」
「恋しくなる頃、新蕎麦を送ってやるよ」屈託なく綻んだ正面の笑顔に瞳で問い掛ける。
…蕎麦を打った人が、恋しくなったら?それも一緒に空輸してくれるの?
「そろそろ行くか」不意に、彬は伝票を掴んで立ち上がった。…これで、本当に彬ともお別れなんだ。途方もない哀しみが押し寄せ、込み上げそうになる涙を堪えながら店出ると、
「時間があるなら、深大寺へ寄ってかないか?」珍しく歯切れの悪い口調で誘われた。予想だにしなかった僥倖が降臨し、間髪入れず「寄る寄る!」と満面の笑みで飛びついた。 
深大寺へ向かって歩きながら、ふと疑問が掠め、隣を歩く長身の彬を見上げて訊いた。
「でも、何で深大寺なの?ここにずっと住んでる彬にしてみたら、今更って感じでしょ?」
 …あれ?いつも歯に衣着せぬ彬にしては珍しく口籠る。「どうしたの?」訝りながら尋ねると、彬は私とは反対方向を向き、らしくもない蚊の鳴くような小さな声で呟いた。
「深大寺は、縁結びの神様を祀ってるんだよ」
 …え?トクン。海面から勢いよくトビウオが跳ねるように、一際高く甘やかに鼓動が跳ね上がった。葉月の太陽に至近距離で炙られたように体中が熱くなる。彬は逃げるように急に足早になる。茫然と立ち尽くし、熱射を浴びたように真っ赤に染まった耳朶と首裏を凝視する。…嘘だ、信じられない。この堅物男が、縁結びって言った?…これは白昼夢?
時間差でじわじわ実感が湧いてくると、後を追いかけ、愛しい背中に天邪鬼に尋ねた。
「深大寺の神様のご利益って、国境を越えるの?さすがにフィンランドは圏外でしょ?」
「神力をスマホの電波と一緒にすんな!神は全知全能だ。それに蔵蕎麦は毎年、深大寺に新蕎麦を奉納している。リベートもバッチリだ!」…この男、神様を買収する気か。何て不謹慎な。神様への神聖な供物を賄賂呼ばわりする罰当たりな男に呆れた視線を向ける。
「半年間は深大寺の神様に後方支援を頼むとしよう。よし、今年の奉納蕎麦は弾んどくか」
「半年?私、三年ぐらいは帰国しないよ?」咄嗟に言い返すと不敵な微笑が返ってきた。
「半年経ったら十二月、クリスマスだ。フィンランドといえば、サンタの国だろ?神もサンタも、信じる者は救われる。お膝元で、がっつりお願いしとけ。郷に入らば郷に従えだ」
「…彬。その諺の使い方は、絶対違うと思う」ご都合主義のポジティブさに、超遠距離恋愛の不安も一気に吹っ飛んでしまった。…まあ、困った時の神頼みだ。地球は丸い。世界は空と海で繋がっているのだ。この際、東西融合でそれぞれの救世主にご加護を祈ろう。
 不意に、彬の手が私の手を握った。やっと触れられた大きな手の温もりに涙が溢れそうになる。明るい陽光が餞(はなむけ)の光となって降り注ぐ。彬は眩し気に目を細めて空を仰いだ。
「今日は一段と空が青いな。まさに参拝日和。ご利益もあるだろ」…確かに。くすりと笑い、祈った。深大寺の恋の神様、無鉛グラスのように純度の高い恋をどうかお守り下さい。

yukari(静岡県島田市)