「ずっと、そこにある町 」著者: 水野祐三子
初めて深雪さんに会ったのは、東京の深大寺にある蕎麦屋だった。私は先生の助手だと紹介された。触ると木の形が分かるような蕎麦屋のこげ茶色のテーブルは、いかにも先生好みだ。深雪さんは、日本酒を傾けていた。「おお、七尾。彼女、深雪。深雪、これ七尾」単語の羅列みたいに先生が紹介すると、深雪さんは眼鏡の奥から私をただ、見た。どうやら、お愛想は言わないタイプみたい。「お会いしたいと思ってたんですっ。厚生労働省にお勤めなんですよね? 仕事、大変ですか? 深雪さんって名前、おしゃれですよね。冬生まれ? 寒いのは得意ですか?」私は笑顔を作って、話題を振りまくった。先生の助手として私が取るべき態度だ。「仕事は遣り甲斐があるよ。新潟生まれだから深雪って安易よね。でも気に入ってるんだ」「深いって、いい接頭語だよな」私は意味が分からず、先生はそれ以上言う気もなく、深雪さんに寄り掛かってご機嫌だった。先生に十五歳も若い彼女がいると聞いて、会わせろとせがんだのは私だった。「深雪さんって言うんですか? 会いたい」それが、先生の助手として私が取るべき態度だから。でも実際に深雪さんに会ってみたら、本当は全然会いたくなかった、ということに気づいた。眼鏡の奥で、冷静に相手を判断しているような目は、あまりに先生に似ていた。笑うと無邪気で、子どもみたいな顔になるずるさも。「おじいが、いつもどうも」深雪さんは、深雪さんだけの呼び名で、先生を呼んだ。深雪さんが私よりも年上の、おそらく三十歳過ぎくらいで、決して美人とは言えないことに私は胸を撫で下ろし、美人でないのに先生に愛されているという事実に、やがて私は、山を動かしたいみたいな気持ちになることとなった。馴染みらしい蕎麦屋の女将が「先生、いいですねぇ。今日は両手に花で」と軽口を送ってくる。何気ない一言が私は嬉しくて、照れ笑いがバレないように、「私も花ですってッ! 先生ッ、やったぁ」ふざけたら、先生は反則技の真顔を返してくる。「だったら、たまにはまともな原稿書いてこい。七尾は、ったく!」ここぞとばかりの据わった目で私を捕らえてコップ酒を煽るから、私は黙る。深雪さんはそんな私たちを見て微笑んで、「腹立たしいからってそんなに呑んだら毒だよ」とでも言いたげに先生の手からコップ酒を無言で取る。先生は、何故だか頷いて、心底ホッとしている目尻。見たことないわ、私にはこんな顔。
寄り掛かり合って参道を帰ってゆく二人の背中を見送って、横浜の自宅に帰ってから私はパソコンで、「深 意味」と検索した。
―深― 名詞の前につくと、後ろにくる語句を整え、美しくする
私は画面をWORDに切り替える。先生は「書け」としか言わない。新しいプロットに
取りかかる前の、画面は真っ白。私はキーボードに両手を置く。先生の助手として、先生
に見捨てられないように、と祈りながら。
先生は料理上手だ。参道を踏みしめて深雪さんの1DKの部屋に急げば、先生がエプロンをつけてフライパンを振っている。バイオレンスなヤンキーものとか、そんなシナリオばかり書くくせに、「お、七尾。今日は鯛のカルパッチョだぞ」なんて言っている。それは多分、先生なりのサービスだ。この間蕎麦屋の店先で、私の頭を原稿で叩いたから。
「原稿を舐めるんじゃないッ、バカやろうッ」
「原稿」と先生が口にするたび、私と先生は「原稿」でしか繋がっていないと痛感する。深雪さんはいつも、仕事上の私たちに、見て見ぬ振りを貫く。そうやって、大人の思いやりを示す。私は、役立たずな助手だった。よく盗作問題なんていうけれど、私は盗まれたかった。もしも私が書いたシナリオが先生の名前で発表されたら、こんなに嬉しいことはないのに。
先生と深雪さんと私は、たくさんの時間を過ごした。蕎麦屋で、深雪さんの部屋で。深大寺というこの聖地では、原稿の話は焼きそばに添える柴漬けみたいなもの。厚生労働省のエリート職員である深雪さんの仕事の話もあったけれど―高校中退の先生はそんな時、富士山を仰ぎ見るような眼差しで深雪さんを見る―話されるのは主に、二人のなりそめだ。お互いに行きつけのバーで出会って、喋った瞬間に気が合って、体の相性もバッチリで離れられなくなった。そういう話。私は二人の過去を、掘り起こして、いじくり回す。「目が合ったときどう思いました? 最初に声を掛けたのはどっち? 二回目に会ったのは?」私が導いて、二人はあの時、あの瞬間に戻って、追体験する。それが、先生の助手としての私の役目。酒の匂いが部屋に満ちれば、先生と深雪さんは一つのベッドで毛布に包まる。私は床に敷いてもらった布団の中で、体を丸めて朝を待つ。少し申し訳ないな、と思いながら。少しくらい申し訳ないと思われたいな、と思いながら。
そうして水曜日と土曜日の夕方になると先生は、急にキョトンとした顔になって、「娘を風呂に入れないと」と池袋の自宅に帰ってゆく。深雪さんは何も言わない。「じゃ、またね」も「次はいつ?」も「どういうつもり?」も。だから、先生と深雪さんには、目撃者が必要なのだった。第三者は不可欠。自分たちは完璧なカップルで、愛し合って、幸せだと確信するための。ジェンガなのだ。一つ積木を抜き取れば、崩れてしまうバランスゲーム。私は、崩れても崩れなくても悔しいくせに、どこか勝ち誇った気持ちもあった。二人の服をはぎ取って、裸の二人を見続ける。私は、優秀な目撃者でありたかった。それが唯一、そばにいられる方法だと思っていた。
それは、三日寝ないで仕上げた企画書だった。「これで出すぞ。制作会議、七尾も同席してみるか?」先生は楽しそうだったけれど、「私、臭いかもしれないんで」三日シャワーを浴びていないことの方が気になって先生から体を離したら、「七尾。お前結構、可愛いところあるのな」先生は近づいてきて、耳元で呟いた。原稿のことなんか、どうでも良くなってしまった。一年半の間に、先生の助手は私一人になった。「どうせ助手やるなら、売れっ子ライターの下につきたいよ」そう言って助手仲間は去った。先生はプロデューサーと、よくお金の話で揉めていた。前から揉めていたのだろうけれど、それを隠し切れなくなっていた。そんなことも、どうでもいい。一つの言葉を、握りしめていたかった。
夜更けの深大寺。「あいつらは頭が固くて駄目だ。ほっとけ、七尾。書いてりゃ、そのうちいいこともある。書けよ。書いて書いて書きまくれよ」蕎麦屋で酒に酔う先生を見て、制作会議でどんな話をされたのか私は知る。お金なんかいるもんか、企画が採用されなくても問題ない、ただ、また先生の役に立てなかったことに、私は失望を通り越して絶望した。自分の力では、どうにもならないことがある。先生は、蕎麦屋の椅子をいくつも使って体を横たえ、いびきをかき始めた。「あら。潰れちゃった」深雪さんが先生の頭を膝に乗せ、日本酒を傾ける。私に聞かせるつもりなのに、独り言みたいに呟く。「おじいは高校中退でしょ? 『俺は中卒だから』って言うけど、私は、おじいほど頭の良い男はいないと思う」厚生労働省勤務の帰国子女に言われて、ライター志望のフリーターでは先生を救うことはできない、と私は思い知る。結局は、そういうことだった。深雪さんの余裕ある佇まいを、そのときはっきりと、憎いと思った。
「深雪さん、空しくないんんですか? 先生には奥さんも子供もいて、結局家に帰るんじゃないですか。それでよく平気ですね?」
くだらないことを口にしたと、言った途端に分かった。でも一度出したら、言葉はいなくならないのだ。深雪さんは先生そっくりな目を大きく見開き、じっと私を見つめた。
「七尾ちゃん。本当に好きな人と一緒にいる。私はそれ以上望まないし、それで十分なの」
先生の髪を右手で撫でる深雪さんの胸の膨らみが、私の目を捉えて離さない。「そんなことしか言えないから、お前は駄目だ」どこかから、先生みたいな声が聞こえた気がした。「また連絡しますって、先生に伝えてください。さようなら」原稿も置きざりにして、私は蕎麦屋を出て行った。先生を膝に置いたまま私を見送る深雪さんの顔が歪んで見えたのは、きっと間違いだったのだろう。私は先生に連絡しなかった。先生からも。
音信を不通にすれば、吐いた言葉もなかったことになるだろうと甘く見ていたら、半年近く経って携帯電話に着信があった。私は井の頭公園の公衆トイレにいた。液晶に先生の名を見た瞬間、私は時と場所も考えず、電話にむしゃぶりついていた。「よう、七尾。仕事、頼めるか?」昨日も普通に会っていたみたいな口ぶり。用を足した直後だ。水洗の音は先生にも聞こえただろう。私は、流れてゆく水を見つめた。手を伸ばしても、もう取り戻せない。「私、結婚を考えているので。すみません」「そうか。良かったな。おめでとう」信じたのかな。信じた振りをしたのかな。電話を切った先生の隣で、深雪さんが揺ぎなく微笑んでいる気がした。日本で使う世界地図の中心には必ず日本があるみたいに、私の地図の中心はいつも深大寺だ。どこに行くのも、何をするのも、私は深大寺から出発する。たとえ遠い土地に離れても、私には変わらない。変えられない。ずっと、そこにある。数年後、深雪さんが男の子を生んだと聞いた。
水野祐三子(東京都三鷹市/49歳/女性/会社員)