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「花ひらく日を迎え撃つ」著者: 藤井友理子

温室の中でも、その部屋の印象は強烈だった。足を踏み入れた瞬間、赤やオレンジやピンクの花々に目を奪われてしまう。ぼんぼりのように丸い花が、天井からもつり下がっていた。冬を目前に控えた植物園の中で、この部屋は季節を巻き戻したような彩りに満ちている。咲き誇るベゴニアの花たちに、まさか遠堂くんがそんな言葉を与えるとは思わなかった。
「まるで墓標みたいですね。かなわなかった片思いの」

神代植物公園に着いた時からずっと、遠堂くんは寒さに身体をさすっていた。
「沙希さんのコート、暖かそうですね」
来週から十二月だという日に、彼はデニムジャケット一枚しか羽織っていない。ひょろひょろした体型は大学生みたいで、高校生に進路指導をしている塾の社員には見えなかった。
「今さらだけど来る時期間違えてない? この季節の植物園に花なんて咲いてないでしょ」
「あ、それは大丈夫です。温室の中は暖かいし、花も咲いてますから」
彼が文庫本サイズの植物図鑑を見せてくれたのは三ヶ月前、私の転職が決まったことを告げた頃だった。沙希さんが辞めた後は植物を友達にします。そんなことを冗談めかして言われた気がする。人間相手は疲れるもんね、なんて適当に返したけれど、それから彼は通勤の電車で図鑑を眺め続け、今度は植物園めぐりに凝ってしまった。
「僕も今さらですけど。本当にお寺は行かなくてよかったんですか」
「行かない。寒がりな人を連れ回すわけにいかないでしょ」
深大寺がどんなお寺かを彼は知っているのだろうか。
「沙希さんが行きたかったらお供しますよ。植物園に付き合ってもらうわけだし」
縁結びのお寺に二人でお参りなんて。私たちは、元同僚に過ぎない。そもそもどうしてここへ来ることをOKしてしまったのか。あとが気まずくなるだけなのに。
塾を辞めるまでは、二人で出かけたことなどなかった。そんな暇さえなかったという方が正しいのかもしれない。退職してからなんとなく連絡を取り続けていたのは、毎日のように一緒にいた名残みたいなものだ。だから今日もこうして植物園の中を歩いている。
「そろそろ新しい仕事の様子もわかってきましたか」
「まだよくわかんない。労働時間が減ったことだけはハッキリしてる」
新しい会社は全く別の業界で、これまでとは全く違う穏やかな時間が流れていた。
「戦場のような職場を駆け抜けた沙希さんとしては、物足りないんじゃないですか」
「好きで戦場に出向いてたわけじゃないよ」
最後の夏期講習会の期間でさえ、いつものように私は荒れていた。本部がわかってくれない、バイトがちゃんとしない、休みがとれない。毎日のようにわめく私を、遠堂くんはなだめたり励ましたりしてくれた。
「僕には楽しんでるように見えましたけどね。いつでも戻ってきてくれていいんですよ」
転職すると告げたときから、彼は何度かこういうことを言う。だから私も同じように返す。
「戻らない。戦場が嫌で辞めたんだもん」
「そんなこと言っても恋しくなっちゃう日が来ると思うんですよね。沙希さんは逆境ほど燃えるタイプだから」
温室前のモニュメントから鐘の音が聴こえてくる。二人ともつられるように、音のする方向を眺めていた。
「沙希さんて伸びしろあるのに自信なくして勉強しない男子とか、面倒くさい生徒ばかり追いかけてたじゃないですか」
「忘れちゃったよそんなこと。それより早く温室に入ろう」
鐘の音と相まって感情的なものが押し寄せる。私たちの関係は過酷な職場を生き抜く戦友みたいなものだったはずだ。いつからこんな風になってしまったのだろう。ただの先輩後輩にしては距離を縮め過ぎた。

温室のベゴニアに圧倒されていたせいで、遠堂くんの台詞を聞き間違えたのかと思った。
「まるで墓標みたいですね。かなわなかった片思いの」
部屋の隅にある解説文を読んでいた彼は、ベゴニアの花言葉が「片思い」であること、葉っぱの形が左右対称ではないことがその由来であることを説明してくれた。たしかにどの株の葉もアンバランスなハートの形をしている。片側だけが異様に大きいもの、右側がいびつに飛び出しているもの、全体的にギザギザしているもの。
「きっと深大寺を訪れる人たちの片思いを吸い上げているんですよ」
その発言で、彼が深大寺の由緒をわかっていたのだと知る。
「だからこの花は、恋愛という戦場に散った片思いたちの墓標です。もしくは執念が咲かせた狂気」
遠堂くんは、ベゴニア達を振り返った。部屋の中央には階段状に並べられた鉢があり、どれもが満開の花を咲かせている。私が思いのほか険しい顔をしていたのだろう。彼はすみませんと肩をすくめた。
「批判してるわけじゃないんですよ。ただ単純に、恋愛にそこまで情熱そそげるのがすごいなって」
「遠堂くんはそそげないの?」
うーん、と、彼は声にならない声を出す。
「今の僕には難しいかもしれません。仕事以外に何かを抱えられなくて」
彼の視線の先で、オレンジ色のベゴニアが咲いている。
「僕は植物に癒されるぐらいでいいんです」
でも、と彼は色とりどりの花を見つめたままつぶやいた。
「時々はこんな風に、沙希さんに遊んでもらえるとありがたいです」
「疑似恋愛で満足ってこと?」
「かもしれないです」
彼の卑屈さを責めることはできなかった。職場での戦いに明け暮れていた私たちは、日々を生き抜くのに精いっぱいで、戦友以外の可能性について考えるのを放棄してしまっていたのだ。私はベゴニアの鉢にもう一度近づいてみる。手のひらよりも大きな花は、堂々と咲き誇っている。たとえこれが誰かの片思いの墓標だったとしても、これだけの花を咲かせる強い思いは、恋に背を向けなかった立派な証に違いない。私たちは、証を残すことができるだろうか。
「ごめん遠堂くん。やっぱり気が変わった」
私は戦線離脱して、彼はまだ戦場にいる。第一線での戦はしばらく続きそうだ。もしかしたら彼が望むように曖昧な関係を保ってあげるか、いっそ愛想をつかして背を向けるのが、先輩としての優しさなのかもしれない。
「あとで深大寺に行ってみようよ」
でも、私たちはこの場所まで来てしまったから。一度は可能性に向き合ってみたくなったのだ。ベゴニアのピラミッドを背にした私は、それこそ狂気じみているのかもしれないけれど。
「疑似恋愛が本物になるかもしれないじゃん」
仕事以外のことを抱えられないと言ったのは彼の本心だろうから、今すぐに何かが変わるわけではない。むしろ彼の方が先に逃げ出してしまうかもしれない。その時には、開いたばかりの小さな花をここに残して行けばいい。
遠堂くんはしばらく黙っていたけれど、やがて観念したようにため息をつき、そして小さく微笑んだ。
「自分で言って忘れてました。沙希さんは逆境に燃えるタイプだって」
いいですよ、行きましょう。こともなげに言って歩き出した彼は、ベゴニアの部屋を出る直前になって振り返る。
「ほんとに、面倒くさい男子をほっとけない人ですよね」
「面倒くさい男子って誰のことだか」
これ以上かつての戦友に表情を見られないよう、急ぎ足で追い越す。視界の端で、咲き誇るベゴニアが揺れていた。

藤井友理子(東京都)