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<第1回応募作品>『カタクリ』 

 花びらは薄桃色。うつむいた可憐な姿は、内に秘めた情熱に自ら恥じらっている様だ、と幸子は思う。この花が好きだ。
「さっちゃんはどう?」
 同僚のエミに話しかけられて、幸子は一心不乱に動かしていた筆先を止める。楽焼きをやり始めるといつも周りが見えなくなる程、集中してしまう。
「なあに」
「やあだ。さっきから盛り上っているのに」
「だからどっち? 今のところ森君が二票、田口君が一票よ」
 そんなことだろうと思った。同期入社の話題といえば、男子社員のランキング、ケーキの美味しいお店と、至ってシンプルである。何が面白いんだろう、と内心幸子は眉をひそめている。もっと何かないのか、だから女子社員がバカにされるんだ。なんのために四大出ているんだろう。だいいち男なんて……。
「他に好きな子、いるんでしょう」
 美咲の一言に、思わず筆を持ったままの手先に力が入る。
「まさか。タイプじゃないだけよ、二人とも。強いていえば、田口君かな」
「つまんなあい。同点かあ。あーあ」
 エミが大げさに両手を放り投げる。恵子がまあまあ、と取りなして続ける。
「じゃあ、アラシでは誰が好き?」
 アラシ、という言葉に一瞬身体が硬直する。たわいもない雑談をしているというのに。 アラシ、という言葉を口にする度に、充ち足りた想いに笑みがこぼれた頃があった。”アラシ” はイガラシという名字が長すぎるという理由で、小学生のサチコが彼につけたニックネームだった。
「今日からアラシね」
「アラシか。山アラシ?」
「バカ、違うよ。台風の時の嵐だよ」
「そうか。カッコイイなぁ、俺」
 単純に喜ぶ彼に、サチコはちょっと後ろめたかった。名字を短くしただけなのに。
「アラシって何?」
「え、知らないの?ジャニーズのほら、新しいグループ」
 なぜか三人は声をあげて笑う。そんなに大騒ぎすることか、とつい冷静になってしまう。自分だけ遠いところに居る気がする。もしかすると私の方がどうかしているのかもしれない、と幸子は思う。
「ねえ、焼き上りに一時間かかるんだって。お洒落な喫茶店があるから、そこで待っていない?」
 エミが、店先に蔓で編んだ花器が飾ってある、和風の喫茶店をすすめる。自家製のチーズケーキが評判らしい。
「チーズケーキ?行く、行く」
 全く、彼女たちはチーズケーキに目がない。昨日の帰りにも皆でルミネに食べに行ったばかりじゃないか。そういえば、彼と最後に食事したのもルミネだった……。
「私は…まだもう少し。描き終っていないから」
 描きかけの皿を指して言う。ここ、深大寺に来るのは久しぶりだ。訪れる度に、楽焼きの看板に誘われて時間を費す。そして、いつも決まってこの花を描いてしまう。
「可愛い花。ねえ、上手だね。頑張って」
 静かになった。三人の話し声が遠去かって、幸子はほっとする。これで皿のカタクリと向きあえる。この花だけは、いつまでも大切にしたいのだ。
「はい、これあげる」
「きれい!わぁ、どこにあったの?」
「家の下の林の中。いっぱい咲いてるんだよ」
 初めて見る花だった。一目でその可憐な姿に魅入られてしまった。
 アラシと二人で近くの図書館に立ち寄る。植物図鑑をめくると、春の野草の一番最初のページにその花はあった。色鮮やかなカラー写真で、雑木林の斜面を小さなピンク色の花が埋めつくしていた。「昔は根からカタクリ粉を採取したが、今では貴重なこの植物を保存するため…」解説を読んで思わず声をひそめた。
「アラシ。これ、珍しい花だよ。採っちゃいけないんじゃない?」
 アラシは見る見る、ほっぺたをふくらませる。四年生にもなって、これが結構可愛い。「お前が喜ぶと思ったのにさ。俺ん家の続きの林にあるんだぜ。庭だよ、庭」
 アラシの家は、ここ深大寺にある。高速道路のすぐ近くだが、静かで小高い丘の上だった。家の裏手の北側斜面は雑木林になっていて、麓には湧き水が流れる清々しい場所があった。夏を待ちかねて、サチコとアラシは小川で裸足になって遊んだものである。
「ねえ、見に行きたい」
 泣いた鳥が笑ったかのように、アラシは一瞬で満面の笑顔になる。
「OK。じゃあ、明日一緒に帰ろう」
 次の日は雨だった。幼い二人が交わした約束は、とうとう守られなかった。
 雨の音に頭をもたげる。いつの間にか弱い雨が楽焼き屋の店先をぬらしている。外のベンチには赤い布がかけられていて、凛然と立ち尽している傘が静けさを守っているかのようだ。風情があるなあ、と幸子は見慣れた風景に、改めて心魅かれる。
 大学生の頃は、そば家めぐりをした。深大寺は都内でも屈指のそばの名所でもある。サチコは、竹林の中でそばを食せる店が好きだったが、アラシは毎回違う店で食べたがった。一応地元なので詳しいらしく、ここの店が一番古いんだよとか、ここのばあちゃんは毎朝早起きして、10食だけ作るんだよとか、解説してくれる。自分を喜ばせるために一生懸命になっている彼が好きだった。
 どうしてだろう。私も深大寺に住むはずだった。樹々が雨の音を吸い込み、ゆるやかな気持ちにしてくれるこの地に。
「着物、着てこいよ。親に紹介するからさ」
 大学生の彼のまっすぐな物言いに、サチコはたじろいだ。
「すごいよ、きれいだよ。一番いいよ、それが。……大事にしたいんだよ俺、お前のこと」
 嬉しかった。成人式の和装で彼に会えて良かったと、心から思う。
 成人式の式典の後、二人は調布で待ちあわせをして、最高の一枚を撮りに新宿の写真館へ向かった。撮影も終わり、行きつけのルミネでいつものチーズケーキを口にし、やっとひと心地ついたところに、アラシの告白である。背中がまたしても緊張してしまう。
「紹介って、まだ早いんじゃない…」
 自分の気持ちを落ちつけるために言いはじめただけだったかもしれない。
「母にも、まだ早いっていつも言われるし…」
 嬉しい、と口にするのをためらっている間に、開いた口から別の言葉が出た。その場でわかっていたが、素直になれなかった。
 彼の渾身の力をふり絞った告白はふみにじられた。失望と怒りで彼の表情は変わる。
「お前のかあさん、俺のこと気に入らないんだよ。K大生は世間知らずだって」
「ごめんなさい…」
「あやまるのか!なんでお前があやまるんだ。お前のかあさんに言われたんだぞ、俺は」 初めて目のあたりにする、彼のプライドの高さに私は言葉を失った。アラシ、そんな恐ることないじゃない。私、なんて言ったらいいかわからないよ。こんなに嬉しいのに、こんなに悲しい。私が悪いんだから、かあさんにあたらないで、お願い。
「ごめんなさい」
 何か別の言葉を探すべきだった。けれどのど元までこみ上げる涙で、声にならなかった。
 あの成人式の日を境に、彼からの連絡が途絶えた。もう深大寺を訪れることもないだろうと思っていた。
「カタクリですね」
 いきなり声をかけられて我にかえった。そう、よく知っているわね、とゆっくり頭を上げた目の前に懐しい顔があった。
「焼き上るまで一時間かかりますよ。本物を見に行きましょう」
 返事をする間もなく、腕をつかまれる。そう、この指、長くていい匂いがする。
 雨の中、引張られるように、しかし寄りかかりながら進む。あの、雑木林だった。
「脱サラして、店やっているんだ。もう世間知らずじゃないよ、俺」
 そんな風にずっと心にとどめていたなんて。
「ちょうど四月でラッキーだったよ。やっと約束が果たせる」
 彼は幼い約束を果たしてくれた。初めて目にする本物のカタクリは、雨のしずくをしっかりと花弁に受けとめ、静かに強い意思を持って貯んでいた。
「サチも約束守れよ、そろそろ」
「約束?」
「会いに来いよ、俺の親に。紹介するからさ」
「着物着て?」
「当然」
 思わず笑ってしまう。優しい。こんな短い言葉のやり取りが湧き水のように身体にしみとおる。この人とまた、裸足になって小川にひたりたい。私はこの人と深大寺に住みたい。あの頃、口に出せなかった言葉をやっと今、口に出そうとしている。
「嬉しい」
 互いの掌を感じながら、この可憐な花と二人は、楽焼きの待ち時間いっぱいを共に過ごす。もう雨は落ちてこない。

(東京都府中市/45歳/女性/アルバイト)

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