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<第5回応募作品>「えんむすび」 著者: Ryo

 木の葉のシルエットが途切れ、遠くに白くて堅そうな満月が現れた。満月は歩くごとに木の葉の陰から出たり隠れたりした。まばたきするみたいに。かすかなせせらぎと、靴が小枝を踏む乾いた音だけが響いていた。 その夜、私たちは野川公園で待合わせた。
 こんばんは。橋の上で私たちは言った。白い息がすっと暗闇に溶けた。私たちは川べりに降り、手をつないで南へ歩いた。ずっと。足元はコンクリートになったり砂利道になったり膝の丈くらいの草に覆われたりした。
 今何時なのかわからなかった。でも、明日の午後四時でない限り何時でもよかった。
 私たちは何も話さなかった。でも彼の手は何度も私の手を握りしめた。

 彼と初めて会った場所は市立図書館だった。私は≪文化≫と≪歴史≫の書架に返却処理が済んだ本を戻していた。金曜の午後6時前。閉館間際で来館者はほとんどいなかった。
 あの、すみません、助けてくれますか。
 声は低く穏やかで訛りがあった。
 本を借りたいですが、どうできますか。
 暗い色の髪と瞳。日本人でないのはすぐにわかったけれど、遠いどこの国にでも馴染じんでしまいそうな不思議な雰囲気だった。よく日焼けして、切れ長の眼は優しそうだった。
 彼が抱えていたのはアイヌの文化に関する本と神道についての本だった。彼はフランスのトゥールーズ出身で、大学で日本文化の勉強をしていて、調布駅近くに住んでいて、北海道に何度か旅行したことがある。カウンターで図書館の利用者登録と貸出手続きをしながら、彼は流暢な日本語でそんなことを次々と話した。
 彼は手続きが終わってからも立ち話を続け、同じ熱心さで私のことを尋ねた。彼は冗談が上手くて、大人びた熱心さと子どもっぽい無心さで話し、よく笑った。私はもっと前から彼と知り合いだったような気がした。
 彼がカードを財布にしまい、肩からかけていたバックパックに本を入れるのを見ながら、あ、この人は行ってしまう。と思った。
 首に下がった黒い紐のペンダント。もっと一緒にいたいのに、どうすればいいかわからなかった。私の気持ちが彼が羽織ったジャケットの袖をつかみ、私の顔を見た彼が言う。
 あの、今日、夕食しませんか。
 私はポケットに入っている彼の名前と電話番号を書いた紙切れに何度か手で触れながら残りの仕事を終えた。

 小さな定食屋で夕食を食べながら、彼は今している神道の研究について熱心に説明した。とてもおもしろい、と話す合い間に何度も挟んだ。それから神道についてどう思う、と私に尋ねた。私はそんなことゆっくり考えたこともなかったから、思いついたことをそのまま言葉にした。
 私は、神道には親近感を感じてると思う。神道って自然を畏れることを大切にしてて、でも自然に対する愛情も含まれてて。自然って誰にでもきっと、怖いけど、懐かしくて温かいものだと思う。自分や自分のまわりの人が自然に属してるって気持ちかな、それが習慣や言伝えになって、代々続いていくのって
よくわからないけど、いいことだと思う。
 霊や魂の存在も素敵だと思う。素敵って、ちょっと変かもしれないけど。
 わかると思う。と彼は相槌を打つ。
 すべてのものに神様が宿ってるって考え方、それって人間の根っこの方にある、原始的な力を表してる気がする。森の神様、河の神様、風の神様。それがいろんなかたちで表現されて、お互いに関係し合ってる。そういう考え方って世界を理解する魅力的な方法だと思う。
 彼はゆっくりうなずいて、それから笑みを浮かべて言った。
 きみの考え方も、神道を理解するとても魅力的な方法と思う。
 話は岡本太郎の芸術に移り、それから彼は私の質問に答えながらフランスの街について話した。
 彼の言葉が、私がいつか映画で見た景色に鮮やかな色を落としていく。私はその景色の中にいる彼を想像する。彼が選ぶ言葉のひとつひとつが私の中にひとつの街を造っていく。
 トゥールーズという私だけの魔法の街。私たちは飽きることなく話し続けた。
 調布駅に向かって歩きながら、彼と私はとても自然に手をつないでいた。街灯やすれ違う自転車の灯りやネオンがいつもよりやわらかかった。
 私たちは日曜日にまた会う予定を作った。彼は深大寺に行こうと言った。

  深大寺に着いたのは夕暮れの少し前だった。お参りの人波は引いてしまったらしく、遠くの方から蕎麦屋の水車が規則的に水を汲み上げる音が聞こえてくる。饅頭を蒸かす湯気。お茶屋の軒の鮮やかな赤い布。土産物屋の店先が子どもの頃を思い出させる。
 私たちは本堂をお参りしてから神代植物公園沿いに西側へまわり、深沙大王堂に出た。蝉の声が消えてしまった季節、まだ青々とした木がざわざわと風に吹かれる音が涼しい。ぴったりと敷き詰められた石畳の上に木の葉の影が踊っている。
 深大寺には何の神様がいるの、と彼が尋ねた。私は、縁結びの神様だから恋人たちの神様かなと答えた。
 えんむすび、と彼が聞き返す。
 ≪えん≫っていうのは、人と人の関係のこと。友達とか恋人とか、人と人をつないでいるもののこと。人と人を出会わせて結びつけてくれるもの。
 私は彼の横顔を見た。
 そうか、その結び目の神様なんだね。
 彼は静かに言った。
 深沙大王堂の裏にある小さな泉の淵に立ちながら、私は島に閉じ込められた恋人に千通の手紙を書いた男の伝説を話した。彼は泉を見つめながら聞いていたけれど、だから深大寺は縁結びの神様なんだって、と私が話を終えたとき、ふと私の顔を見た。私は彼の硬い表情になんだか怖くなって彼の言葉を待った。
 ごめんなさい。
 彼は私の顔をまっすぐ見ながら言った。
 私は、二カ月後にはフランスに帰ります。だから、きみの恋人になれない。きみを幸せにできないかもしれないから。
 私は黙って泉の水を見た。木漏れ日が水面に揺れていた。不思議と穏やかな気持ちだった。こんなにまっすぐな言葉を聞いたのは久しぶりだと思った。
 私が好きなの。
 私は尋ねた。
 彼はもちろん好きだと言った。
 私は彼の顔を見た。彼の不安で真摯な瞳を見た。話すときにはあんなにも活き活きと輝く瞳。
 とても大人びて見えた次の瞬間には子どものように笑う。そして私は彼の歳を知らないことに今気づく。彼の家族。彼の友人。彼の過去。未来。彼について知らないことの終わりのないリスト。埋めるのに一生は短すぎるけれど二カ月は長い。
 でも、恋人になりたい。
 私の唇は言った。
 一緒にいなかったことを後悔するよりは、一緒にいたことを後悔したいの。
 自分が正しいことを言っているのか私にはわからなかったけれど、今まででいちばん言いたいことを言っている気持ちがした。
 本当にそう思うの。
 彼の声はまだ不安そうだった。
 私には彼の近くにいる理由が充分過ぎるほどあった。初めて会った日の彼。それだけでこんなにもたくさんの仕草を覚えている。それが何よりの証明だった。
 彼が帰る日に感じる悲しさよりもずっとたくさんのものを彼は私にくれる。私はそれが見たかった。
 縁結びの神様は縁を結んでくれるけど、つなぎとめるのは人でしょう。
 そう言った私は、それでも怖くなって彼にしがみついた。

 街灯に照らされて夜が目の前で開けた。私たちは武蔵境通りと野川が交わる橋の下にいた。今までに何度も待ち合わせをした橋。最後の散歩の終わり。
 二カ月の記憶が私からこぼれていく。彼の眼に光がたくさん浮かんでいるのが見える。涙のような月の光。
 彼が私の頬を両手で包む。
 行かないで。帰ってくるって言って。
 それを声にしていいのか、しない方がいいのかわからなくて、私はただ彼の顔を見ながら胸の中で繰り返した。
 きみに出会ったことの他に何もいいことがなかったとしても、日本に来てよかった。
 聞き慣れた声が涙をこぼさせる。
 明日の午後四時、彼が乗った飛行機が日本から飛び立つとき、私は彼のことを考えているだろう。思い出をひとつひとつ手にとって眺めているだろう。
 そのひとつひとつはあまりに幸せで、もう私に涙を流させないだろう。
 ありがとう。
 それは私の言葉か彼の言葉か、私の中で聞こえただけだったのか、私にもわからなかった。でも、それ以外のどんな言葉もこの場に相応しくなかった。
 彼の体が私の体を抱きしめる。世界の音がすべて消えて彼の呼吸と私の鼓動だけが脳に響く。彼の肩に涙をが吸い込まれていくように、感情が彼の体温に溶けていく。
 そして野川の神様が、私たちのそばを通り抜けていった。

Ryo(大阪府高石市/23歳/女性/学生)

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