<第5回応募作品>「「ジプシーの血」の咲く庭で」 著者: 北 教之
このバラの名前はね、ジプシーの血、というのです。
なぜ笑うのかって?面白いわね。あなたに似た方のことを思い出したの。その方も私に同じことを尋ねたわ。このバラの名前はなんというのでしょうか、って。
その方も、バラがとてもお好きでした。本当に、この庭に迷い込んでこられた理由も、あなたとまるで一緒。深大寺を裏手から南に抜けようとして、道を見失ってこのわき道に迷い込んだのです。そう、あなたがいらした植物公園の方からね。
なぜ、ジプシーの血、というのかしらね。この血のように赤い色のせいでしょうか。目に焼きつくようなこの色が、体の中の血と呼応して、彼の地でジプシーがかき鳴らす、すすりなくようなヴァイオリンや、ツィターのメロディーを思い起こさせるのでしょうか。
あの方は、このバラの名前を聞いて、ヨーロッパの音楽家の名前をいくつか口にされました。この縁側に座って、バラを見ながら、「これらは皆、友好国の作曲家ですから、まだ聞くこともできるのです。」と微笑まれて。
そう、あの方と私が出会ったのは、あの戦争の最中のことでした。あの方は航空士官学校の生徒さんで、私はまだ女学校の生徒でした。あんな時代でしたもの、若い殿方と二人きりで庭に座っている姿を見られでもしたら、と、私は気が気でなかったのを覚えています。でもあの方はとてものんびりした方で、そんなことは気にもなさらず、「水を一杯下さいませんか、調布の水はおいしいと聞いているので。」なんて、のんきなことをおっしゃるのです。私は、今にも、家の者が奥から出てきたりしないかしら、と、ひたすらはらはらしていたのを覚えています。
そう、こんなおばあさんにも、殿方に胸ときめかせる青春の頃があったのです。別れ際、あの方は、もう一度、この庭のバラをじっと見つめていらっしゃった。その視線があまりに真剣なので、私は思わず、「一枝、お持ちになりますか?」と尋ねていました。その時のあの方の晴れやかな笑顔で、私は一度に恋に落ちてしまったのです。
とはいえ、お互い名前も名乗らず、素性も知れず、もう二度と会うこともかなうまい、と思っていましたのに、所沢の親戚の家に遊びに行った先で、私は偶然あの方をお見かけしたのです。あの方は所沢の陸軍航空学校にいらっしゃって、その日は水練ということで、狭山湖での訓練に参加されていたのでした。ちょうど私達家族が、湖のほとりを散策している時でした。私達の傍らを、隊列を作って走る制服姿の中に、あの方のお顔を見つけた時、私は本当に息が止まるかと思った。あの方もこちらに気づかれて、かるく会釈を返してくださいました。でもそれだけで、私は本当に天にも昇る心地で、真っ赤に染まった頬を家族のものに気づかれないよう、ずっとうつむいて歩いたのを覚えています。
あの方は航空兵になられるのだ。そう思いました。あの方は空を飛んで海を渡る。狭い狭い操縦席の中で、自分の四囲の全てを風に包まれて、トンボのように儚く、鷲のように雄雄しく、幾千里の彼方まで空を行く。その日から、毎朝私は、朝起きるとまず一番に庭に出て、空を見上げ、両手を広げて目を閉じるようになりました。体中に風を感じたい。あの人と同じ風を感じたい。名前も知らない、ただこの庭で、美しいバラを見ながら、二言三言の言葉を交わしただけのあの方と、この青空で私はつながっている。そう思うだけで、私は幸せでした。
戦局が次第に悪くなり、深大寺の近辺も灯火管制がしかれ、空襲警報の不安なサイレンが鳴り響く日が増えてくると、私の幸せは不安に変わりました。あの方は今、どこで、どんな飛行機に乗っているのだろう。敵の機銃掃射をかいくぐりながら飛ぶのは、どれほど恐ろしいことだろう。どれほど孤独なことだろう。薄い風防ガラスの向こうは、何一つ体を支えるものとてない虚無の空間が広がっている。機銃掃射で機体が打ち抜かれれば、たとえ小さな傷であっても機体はバラバラになる。あの方はそれでも空を飛ぶのだ。死と隣り合わせの危険の中へと飛び立つのだ。ただ、私達を守るために。
あの方がどこに配属されたのか、どこの空を飛んでいるのか、それも全く分からぬまま、私の心は、毎日毎日、不安で締め付けられるようでした。そして、夏が過ぎ、秋をむかえ、再び庭のバラがつぼみを開き始めたころ、あの方は突然、再び、私の庭を訪れたのです。
あの方は立派な航空士官の制服を着て、玄関先で私に向かって背筋を伸ばし、敬礼をされました。私はもう、呆然として涙も出なかった。あの方が覚えていて下さったこと、この日本で、再び会えたこと。その嬉しさよりも何よりも、あの方の厳しい表情が、私の胸を突いたのです。
あの方は、ご自分の名前を名乗り、飛行第244戦隊所属の少佐であるとおっしゃいました。以前の非礼をお詫びになり、偶然、調布飛行場に着任したので、どうしても私に頼みたいことがあって来た、とおっしゃいました。
「このバラを一輪、操縦席に飾りたいのです。」あの方はおっしゃいました。「飛燕の操縦席は狭苦しくて、少しでも潤いが欲しくてね。」
そうおっしゃりながら、あの方は、軍人の癖に女々しい男と笑われますか?と、恥ずかしそうに微笑まれました。私は必死に首を横に振りました。首を横に振りながら、私はただ、涙をこらえておりました。なぜあんなに胸が詰まったのか、私にも分からない。私は群れ咲くバラの中から、なるべく長くもちそうな、丈夫なつぼみを選びに選んで、あの方にお渡ししました。心の奥の底の方で、「これは私です」とつぶやきながら。これは私です。私の分身です。私はいつも、あなたの側におります。操縦席のあなたの側にいて、ともに空を飛び、いつでも、どこでも、あなたとご一緒いたしましょう。
その願いが届いたのでしょうか。私は確かに、あの方の最期の瞬間を自分で見ることができたのです。体験することができたのです。あれは本当に、不思議な瞬間でした。
空襲警報が鳴り、私が家族と共に、真っ暗な家の中で小さく震えている時でした。目を閉じた私の周囲で、いきなり風が吹きました。ふわり、と体が浮かび上がったような感覚がして、思わず目を開くと、目の前にあの方がいらっしゃいました。あの方は必死に操縦管を握って、すさまじい風の音が荒れ狂う中を、ひたすらひたすら空高く上っていくのです。その視線の先を追ってみれば、風防ガラスの向こうに見えるのは、禍々しい黒いB29の編隊の影です。あの方は、その影に向かって、ひたすら機体を上昇させていくのです。
飛燕の操縦席の中は、むせるようなバラの香りで、それは私の体から発せられているのです。あの方は一瞬その香りをかいで、小さく微笑まれました。機体のすぐ側で、風とは違う鋭い音がかすめていきます。B29が機銃掃射を浴びせ、あの方の飛燕の翼が、激しくバンバン、と音を立てました。翼から燃料が霧のように噴出します。それでも、あの方は微笑んでいました。微笑を浮かべたまま、あの方はご自分の飛燕を旋回させて、そのまま、真っ黒いB29の機体の影の真ん中に突っ込んでいったのです。
その刹那、私の体は、私の家の真ん中に戻っていました。私は思わず、家族が止めるのも聞かず、家の外に飛び出しました。見上げた空に、一機のB29が、真っ赤な炎を上げてゆっくりと落ちていくのが見えたのです。その炎は本当に血の色のように、このバラの花弁のように鮮やかに、私の網膜にくっきりと残像を残してやきついたのです。
考えてみれば、私は、あの方に4度しかお目にかかりませんでした。お言葉を交わしたのはたったの2度。1度は、本当か幻かも分からない夢のような時間の中で。それでもその4度の出会いで、私は自分の生涯の恋を、全て燃やし尽くしてしまったのだと思います。
私も年を取りました。この家に住んだ私の家族も全てこの世を去り、あの方のことを覚えているのは、私と、この咲き誇るバラだけとなりました。あなたもバラがお好きなら、ジプシーの血、という名を持つバラをご覧になった時、むかしむかしの若者達の、儚い恋の物語を、思い出してやってくださいまし。バラが好きだった少女と、遠いヨーロッパの音楽が好きだった若者が、この空で燃やした恋の炎の物語を・・・
・・・老婆が語る物語に耳を傾けていた私が、ふと気づいてみれば、私の傍らに確かにいた、小さな品のいい老婆は姿を消していた。振り返ってみれば、古い、けれど趣味のいい瀟洒な家屋、と見えた家は荒れ果てて、縁側についた私の手のひらは埃にまみれている。はっとして立ち上がってみれば、あれほど豪奢に咲き誇っていたはずの真っ赤なバラは枯れ果てて、茶色く無残な枯れ枝が、雑草の生い茂る庭の中で、初夏の風に揺れているばかり・・・
と、ふと私は、その初夏の風の中に、濃厚なバラの香りを一瞬嗅ぎ取った。でもそれも一瞬のことで、風はそのかすかな香りの記憶を包み込み、一散に青空の彼方へと駆け上っていく。二人の恋が花開いた、遠い成層圏の彼方へと・・・
北 教之(東京都調布市/44歳/男性/会社員)