<第5回応募作品>「彩雲」 著者: 水沼 直樹
春の陽気は、思いのほか僕の心を突き刺してきた。境内の白砂が、キラキラと煌いている。門前通りから、枝垂桜の花びらがひらひらと白砂の上を舞っている。ほんの少し前の満ち足りた僕らの時間は、今ではぽっかりと穴が開いたようだった。春の陽気は、そんな穴を容赦なく照り付けていた。枝から巣立った花びらが再び枝に帰ることがないように、僕らの時間は記憶だけを残して、既に立ち去っていた。
「オ蕎麦ノ、ワッフル、イカガデスカ。」
そんな彼女の不意の一言が、短き永遠の始まりだった。その透き通った声によって、僕の中の鼓動が止まった。それからというもの、僕は門前通りの脇の蕎麦ワッフルを食べに通いつめるようになった。
フランス語でワッフルは、ゴーフルというらしかった。彼女は、ゴーフルにチョコレートとアイスを乗せてくれ、そしてウィンクしながらそれを僕に手渡してくれた。ウィンクは、「アイスをサービス」という意味らしい。
寒梅の色付く頃の寒さは、店先の彼女を小さく見せていた。スザンナは、手をギュッと握って白い息を吐きながら、行きかう人に「オ蕎麦ワッフルハ、イカガデスカ」と声をかけていたが、僕がゴーフルを買いに行くと、いつもにっこりと微笑んで、いつものゴーフルを焼いてくれた。店子の奥は暖かいのか、女主人の老婆がいつも七輪の前で転寝をしていたものだから、スザンナは折を見て、僕の座る軒先のベンチに遊びに来ては、深大寺の四季を語ってくれた。
僕らは、互いのことを聞くことはなかった。
何故日本に来たのかを聞くこともなければ、何故僕が毎日ゴーフルを食べに来るのかを聞かれることもなかった。そういった所与の黙秘が、知らずの内に二人を日常に引き込んでいったのかもしれない。
深大寺の四季を僕は見たことがなかったものだから、ただ彼女との会話から、その移ろい様を想像するだけであったが、彼女が嬉しそうに語るその姿をプリズムとして、寺の四季が僕の脳裏に投射されていた。春の枝垂桜、夏の湧き水、秋の紅葉、冬の雪化粧。春の節分、夏の盆踊り、秋の灯篭流し、冬の初詣。
スザンナは、枝垂桜の舞う姿に惹かれて、この店子で働くことを決意したと言った。そして、最後まで桜を見ていたいとも言った。そんな伏し目と、嬉しそうに話す彼女の格差が、僕を心地よく刺激していた。名月と桜の下で最後を迎えんとする風流さを、彼女なりに感じていたのだろうか。徐々に桜の芽の出る焦げ茶色の枝を眺めながら、彼女は束の間の休息をするのだった。相変わらず、店子の奥では老婆は転寝をしていた。
そんな毎日を過ごすうちに、境内の枝垂桜の莟は、徐々に大きくなっていった。彼女と接するうちに、徐々にフランス語を覚えるようになった。いや、彼女との会話のために覚えたのかもしれない。片言のフランス語挟むたびに、彼女は嬉しそうな笑顔を添えてフランス語で返してくる。もちろん、その返答の意味は僕には分からなかったが、その笑顔だけで、晩冬の寒さが耳の火照りと混ざり合うようだった。
桜の莟がいよいよ大きくなってきたころにも、スザンナは相変わらず、蕎麦のゴーフルを焼いていた。もちろん、僕のゴーフル以外にはアイスクリームは乗っていなかった。
僕が店先でゴーフルを食べていると、その日もいつものように彼女はやってきたが、どうしたわけか、「今日ハコレデ仕事ハオ仕舞イ」だと言った。僕は理由を尋ねようかと考えあぐねていたが、そうする内に、彼女は身支度を整えて再び僕の前にやって来た。ほんのりと甘酸っぱい香水の香りがしたのは気のせいだったのだろうか。
「カクレンボ、シナイ?」
突拍子のない彼女の申し出に、僕はちょっとした悪戯めいた気持ちで、「Bien(ビアン) sur(スール)!(喜んで!)」と答えた。
二人は、山門前の階段の下でジャンケンをした。日本語に「ジャン」という音はないから、僕はジャンケンを外国語だと思っていたが、どうやら日本語らしかった。そんなジャンケンを、彼女はすんなりとやってのけた。
スザンナは、山門を背に目を瞑りながら、片言の日本語でゆっくりと数を数えだした。その山門の向こう側は、額縁の中の絵のようだった。小さな枠の中に、こじんまりと常香楼と本堂が納まっていた。スザンナが三を数えたとき、僕は山門前の階段を一気に駆け上がった。山門から本堂にかけては石道が伸びていたが、奥の本堂は、常香楼からの白い香のベールに包まれていた。
その香のベールに包まれる手前で脇を見ると、少し離れた所に三現大師堂がでんと建っていた。その堂には縁の下が見て取れた。恐らくフランスには、縁の下なんてものは存在しないだろう。そう、思うや否や、僕は縁の下に身を隠すことにした。
縁の下の空間は、白砂の境内と違って外の光を拒む世界であったから、その姿を現すまでには幾分かの時間が必要だった。しばらくして目が慣れてくると、堂の柱や向こう側の隙間がぼんやりと見えてきた。気の温もりのせいか、縁の下は意外に暖かかった。畳の香りと木の香りと少々のカビ臭さとが融和して、どこか懐かしさを醸し出している。小学校の頃に隠れんぼをすると、僕はいつも縁の下にもぐっていた。そこは、外の様子がハッキリと分かるので良い隠れ家だったし、湿った木の香りが妙に落ち着くのであったからだ。
そんな折、さっきの甘酸っぱい香りが四つん這いになった僕を掠めたような気がした。
「見ツケタヨ。」
その弾んだ声は、スザンナの声だった。
「どうして、こんなにすぐに分かったの?」
「フランスニハ縁ノ下ガナイカラ、隠レルナラ、ココカナト思ッテ」
僕の機智は、彼女の既知だった。日常とノスタルジアの境界である御堂の縁の下は、彼女にとっては極めて日本的で非日常の間だったのだろう。彼女自身、一度は入ってみたかったというのだから、まさに僕の浅はかな思い付きが彼女の声を弾ませたのだった。僕は、おのずと頭を掻くしかなかった。
「じゃぁ、今度は僕が見つけるよ。」
そういって、僕は三現大師堂の前で目を瞑った。彼女の駆け足に合わせて、白砂がジャリッとかみ締める音が徐々に遠のいていった。
ゆっくりと三十を数えてから、僕は目を開けた。白砂に映える日の光が、僕の目を細めさせた。
こうやって僕らは交互に鬼と隠れ子をやったので、いよいよ隠れるところもなくなった。僕は、境内の枝垂桜の蔭に隠れることにした。恐らくココが見つかるのも、時間の問題だろう。そっと枝垂桜から白砂の方を垣間見ると、辺りを見回すスザンナの姿があった。髪を纏め上げたせいか、より一層彼女が華奢に見えたし、白砂からの反射で、白い肌が透き通って見えた。早く見つけて欲しいとの思いと、こうして彼女を見つめていたいとの気持ちとが交錯していたので、僕は耐えられなくなって、ふと天を仰いだ。
紫青の空にぽっかりとした白い雲がゆっくりと浮かんでいた。枝垂桜の莟は今にもはちきれそうで、初春の門出を心待ちにしているかのようだった。
「フフフ。見ッケ。」
その声のほうに振り返ると、少し首を傾げて微笑む彼女が立っていた。
「やっぱり見つかったかぁ。よし。じゃぁ、また数えるよ。」
そう言って、桜の幹に額をつけた僕は数えだした。不思議と白砂を踏みしめる音を感じなかったが、ゆっくりと三十が過ぎる間に、僕は彼女を見つける瞬間を何度も想像していた。僕が彼女に近づくことに全く気づかない無邪気な姿や、はっと振り返ったときの不意の表情を想像するにつれて、僕の数える速度は遅くなっていった。
「さぁんじゅぅぅう。」
と、間延びした声を出し終えてから、僕は彼女を見つけるためにクルッと半転した。
白砂を踏む足音がしなかったのも仕方のないことだった。そこには、目を閉じた彼女が無防備な儘にあった。彼女と僕の間には、僅かな風の通り道さえなかったかもしれない。彼女からの体温が伝播したようで、僕の鼓動が体内に波紋した。制御不能な僕の身体は、そっと唇を重ねることの外、作為も不作為も僕に選択することを許さなかった。
音も時間も感じないとても長い瞬間だった。
「Je t’aime」と彼女が呟いたかどうかは分からない。じっと見つめあったまま、僕らは遅々とした木漏れ日に包まれていた。
それから間もなくして、彼女はフランスへ旅立った。それと同時に、境内の枝垂桜は春の喜びを迎えていた。ほんの少し前の満ち足りた僕らの時間は、今ではぽっかりと穴が開いたようだった。彼女がココを去る際に、枝垂桜を見ることが出来たのか、僕には知る由もなかったが、二人を包み込んだ春の陽気は、今日もまたあの日と同じ柔らかさを僕に与えていた。けれど、僕にはその柔らかさを素直に受け入れることは出来なかった。むしろ、春の陽気は残酷に感じられた。
常香楼からの香のベールと枝垂桜の花びらに包まれながら、僕は立ち尽くしたままだった。彼女が居たはずの白砂の境内の真上でぽっかりと浮かぶ白い雲を眺めていた。
水沼 直樹(東京都千代田区/30歳/男性/法律家)