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<第5回応募作品>「雪の花」 著者: 江口 ちかる

五月の連休前、雪花から電話があった。
雪花は大学の天文学ゼミの後輩だった。雪の花と書いて「ユカ」と読む。冬生まれかと聞くと、誕生日は五月だといたずらっぽく笑った。
雪花からの電話は大学卒業以来二度目だった。前回は確か一年半前。電話と電話との間の長い時間、僕は折りに触れ、雪花を想っていた。
雪花は平素はおとなしいけれど、ミステリアスで気になる存在だった。
いや、正直に言おう。
僕は雪花に恋をしていた。
就職の内定を受けたころ、僕の長年の思いを察して同級の玲子が世話を焼いた。ぜったい脈ありだから、それとなく伝えてあげるわ。そう玲子は言い、僕が断ったにもかかわらず雪花に働きかけた。
答えは「ノー」。
雪花の眼中に僕はいなかった。
それから大学卒業までの間は気まずく、以前のように話しかけることはできなくなった。たまたま学食で席が近くなると、互いに懸命に食べることを急いだりしたものだった。
「久しぶりだね」
 大人らしく、僕は言った。
「今週の土曜、仙川で芝居があるんです。よかったら見に来てほしくて」
「そうか、雪花ちゃん、芝居を始めたんだね」
「覚えていてくれましたか。劇団に入ろうかどうか迷っていたこと。このご時世に就職しできた会社をやめちゃって、フリーターです」
 一年半前の電話の記憶がよみがえった。
したいことが見つかった気がするという雪花に、やればいいと答えた。後悔してほしくなかった。僕は大学院へは進まず、硬い企業への就職を選んだ。毎日が数字との追いかけっこだった。後悔は常に結石のように内在し、ときおり暴れた。雪花を応援する気持ちのいくらかは自分への不満の裏返しだったのかもしれない。
「苦しいけど、やってよかったと思っています。背中を押してくれた先輩のおかげです」
「僕は何もしてないよ」
「でも、あのとき自分でも迷っていて。先輩に聞いてほしかったから」
 意外な言葉にこそばゆくなった。
だがそれならなぜ一年半の間、連絡してくれなかったのだろう。
先輩に聞いてほしかった、というのは、世辞だろうと思いなおした。いくばくかの失望を感じながら、会いたいという気持ちが勝ち、僕は芝居に行くことを約束していた。
「深大寺には行きましたか」
 唐突に雪花は聞いた。
「あ、いや、深大寺蕎麦なら食べたけどね」
学生の頃、雪花と深大寺を話題にしたことがあった。調布に住むようになった頃だ。調布生まれなんです、と雪花は目を輝かせた。幼いころ深大寺に何度も連れて行ってもらったという雪花は、僕が足を運んだことがないと知ると、じゃあ、なんじゃもんじゃの木を見たこともないんですね。ざーんねん、とほんとうに無念げに言ったものだ。
「行きませんか、なんじゃもんじゃの木を見に。芝居は土曜が千秋楽で日曜はフリーなんです。先輩の都合がよかったら、ですけど」

芝居は『近代能楽集』からの二篇。雪花は『班女』の花子だった。駅のベンチで自分を捨てた男をひねもす待ち続ける、エキセントリックな役を見事に演じていた。芝居にのめりこんでいるとは言っても、まだ下っ端で、受付あたりにいるのかと想像していたのに、雪花は舞台の中央にいた。うれしい魔法をかけられたようだった。
翌日、調布駅前に現れた雪花の、昔と変わらない笑顔にほっとした。白いワンピースが似合っていた。白は昔も雪花が好んで身につけていた色だ。芝居を見てうれしいながらもうまれていたたじろぎは霧散した。
「きのうはありがとうございました」
 雪花はおどけたようにぺこりと頭を下げた。
「とてもよかった。作品もだけど、雪花ちゃん、見違えたよ。僕が来ていたの、気づいた?」
「舞台から見えました」
「へえ。余裕だね」
 雪花は首を傾げる。
「深大寺のなんじゃもんじゃの木の話をしたこと、覚えてましたか」
「なんとなくね」
「なんじゃもんじゃの木なんて変わった名前だねって先輩が言うから、おかしかったなあ」
 バスに揺られながら他愛のない話をした。乗客がちらちらと僕たちを見た。彼らには僕たちはどんな風に映っているのだろう。恋人に見えるだろうか。想像すると口元が緩んだ。
 バスを降り、深大寺入口から、木の茂る道なりを進んだ。道路の両脇から枝を伸ばした木々はやわらかなアーチをこしらえていた。水車を横目に境内へ向かった。道の傍らを水が流れている。僕たちはやさしげな水の音に包まれていた。
 深大寺は懐の深い場所だった。おおらかな大黒天、恵比寿尊の像があった。門前の店が連なる通りには、店の子だろうか。敷石でケンケン遊びをしていた。
三天橋という池にせり出した橋があった。渡ったところが亀島ですと雪花が言った。島と呼ぶにはあまりにかわいらしい小さなもので、両端には祠があった。
「ほらあそこ」
 雪花の指の先をたどると、苔むした岩の色の亀が泳いでいた。眼を滑らすとそれほど大ぶりではない、初々しいような鯉が身を撓らせて泳いでいた。
「ずいぶん鯉がいるんだね」
 夢の影のように白い鯉が、すぐ近くを通り過ぎて行った。鯉はすうっと心の裡を、身で打ちながら通ったようだった。僕は思わず立ちすくんだ。鯉が雪花のように思われたのだ。雪花がいぶかしげに見上げていた。僕は咳払いをひとつした。
「なんじゃもんじゃの木は山門の中です」
 切妻屋根の山門が、境内の緑の額縁になっていた。
 くぐると正面にあるのは枝垂れの桜。その左手にはやはり枝垂れの、枝にたくさんの、あいらしいかたちの葉をつけた樹がある。木の頂から緑の噴水がこぼれるような枝ぶりが印象的だ。シダレカツラだと雪花は言った。
 さりげないバランスで様々な樹がある。抜きんでた大木がないのも、物足りないというより愛らしい気がした。
シダレカツラの奥に、雪をいただいたように白い花の咲く木があり、思わず目を奪われた。
雪花が白い花の木に駆けよっていった。くるりと振り返り、雪花はおおきな笑顔になった。
「これです。これが、なんじゃもんじゃの木」
「え、これが・・・」
 花はやさしい葉の緑と引き立て合うように純白だった。プロペラの羽根のように、中心から懸命にほそい指を開ききるように、咲いている。
「きれいだね。名前から想像すると老獪な、人をくった老人のような・・・。そんなふうに想像していたよ」
「先輩、なんじゃもんじゃは木の名前じゃないです。それって昔も言ったでしょう」
「そうだね。そうだった」
と、あいまいな相槌を打った。
「なんじゃもんじゃは、珍しい樹や巨木を指して呼ばれる名前なんですって。深大寺のなんじゃもんじゃの木はヒトツバタゴです。学名はチオナンソス。母が教えてくれたんですけど、ギリシャ語の『雪』と『花』を重ねているんですって」
「雪と花って・・・あ、そうか。雪花ちゃんは五月生まれだったね」
「はい。生まれたとき、この花が満開だったそうです」
 不意になんじゃもんじゃの木がいとしく思えてきた。得難い、唯一のものというわけだ。
「先輩、私、余裕なんてありませんから」
 振り向くと雪花の目が潤んでいた。
「舞台から先輩を必死で探していました」
 なんだか妙だった。雪花の目は、まるで僕に恋しているようではないか。
「玲子先輩が別の人と結婚したって聞いて、思い切って先輩を誘ったんです」
「玲子の結婚がどうかしたの」
「玲子先輩から、先輩たちが付き合ってるって聞いたときはショックでした。ちょうど先輩の就職が決まった頃、告白しようと思って。先輩を好きなこと、態度に出ていたみたい。他の人から、先輩のこと好きなの、なんて聞かれたり。玲子先輩も察して教えてくれたんです」
 頭の中がぐるぐると回り始めた。
 態度に出ていた? 僕だけが気づいていなかった?そして玲子はなぜ僕にも雪花にも嘘をついていた?
「あのね、僕は玲子に気持ちを伝えてもらった気でいたんだよ。雪花ちゃんの答えは『ノー』だったって」
 雪花はきょとんとしていたが、やがて笑い出した。
「やだ。じゃあ玲子先輩は私のライバルだったの」
「いったい・・・」
「先輩、鈍すぎです」
 ゆっくりと謎がとけ出していくようだった。
 時間はかかったが、どうやら僕は雪花と向きあえているらしい。
そういえば深大寺は縁結びのご利益もあるんだったな、とぼんやり思いながら、僕は雪花の瞳を覗き込んでいた。

江口 ちかる(東京都大田区/47歳/女性/派遣社員)

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