<第5回応募作品>「風信子」 著者: ヒサトミ マキ
「とりあえず、お参りしようか。」
車から降りたボクは祖父を誘った。
母から、同居して間も無い祖父の世話を一日頼まれたのは、三ヶ月程前の事だった。知人の娘さんの結婚式に父と揃って出席するので、一日面倒を見て欲しい、と言う事だった。
祖父母の家は以前、うちから歩いて五分程の所にあった。小学校の頃などは、呼ばれてもいないのに、学校帰りには何故か必ずと言っていい程立ち寄っていた。祖父母の家は暗かった。鬱蒼とした木々が生い茂り、庭には鉢植や盆栽などが所狭しと置かれていた。今で言うガーデニングの様な、洗練さや優雅さなどとはまるでかけ離れた、何か薄気味悪い様な、太陽の光の射さない家だった。家内には小さな居間があり、古めかしい堀ゴタツの周りは、いつの物かも分からない新聞や雑誌のスクラップで埋め尽されていた。その中で、本を相手に一人でパチンパチンと碁盤に碁石を置く祖父と、時代劇の再放送を観ながら静かにタバコをふかす祖母。
ボクには、祖父母が話しをしている記憶が無い。笑い合っている記憶が無い。口数の少ない、黒々とした眉毛をたくわえた、熊の様な九州男児の祖父と、細身を通り越した、皮膚と骨がくっついている様な、眼つきの厳しい新潟女の祖母。
祖母の様子がおかしくなったのは、五年程前の事だった。同じ話を何度も繰り返す事から始まり、家の電話機を冷蔵庫に入れたり、馴染みのスーパーに辿り着けなくなったりした。症状の進行は驚く程早く、一年後位には、もうボクが誰かも分からなくなり、色々な事を忘れて行き、そして先月、専門の施設に入居した。
去年の末、祖父母の家を取り壊す話が持ち上がり、それと同時に祖父はボクの家にやって来た。朝早く出勤し、何だかんだ夜遅く帰宅するボクは、中々祖父と顔を合わせる事も無かった。一日と言う長い時間を二人きりで過ごすなど、勿論初めてだった。ボクは何だか気まずさの様なものを感じた。
「おばあちゃんのお見舞いに行こうか。」
祖母の施設は少し郊外にある。ドライブがてら、我ながら良い提案だと思った。とりあえず簡単に出掛ける準備をし、車に乗り込んだ。
何だか不思議と気持ちが昂揚した。彼女以外の人間が助手席に座るのはいつ以来だろう。付き合い出して四年近く、月に何度かある休日は、ほとんど彼女と過ごして来た。大学時代の後輩との運命的な再会、一瞬で恋に堕ちた。今では彼女が隣に座っていても何も感じる事は無い。彼女の反応一つ一つに一喜一憂していた頃が嘘の様だ。特別な会話も無い。ドライブをしていても、彼女は一人助手席で寝息を立てている。会う事を義務の様に感じる事さえある。
「何処かで飲み物でも買おうね。」
エンジンをかけたボクに、祖父は突然言った。
「深大寺に寄ってくれ。」
「良いけど。どうしたの、急に。」
尋ねるボクに、祖父の返事は無い。別段急ぐ理由も無いので、ボクは言われた通り車を進めた。
何年振りだろう。久し振りの深大寺は幼い頃の印象と全く変わらない。ある一角から、急にそれまでの住宅地とは全く趣の違った、緑豊かな澄んだ空気が現れる。ここが都内で、しかも自分が長年住んでいる場所から数分の所とは思えない程、静かな別世界がそこにあった。
ボク達は、雰囲気のあるひなびた蕎麦屋の棟々を眺めつつ、並んで歩いた。
境内に着き、身を清め、お参りをした。ふと隣を見ると、祖父はさらりとお参りを済ませ、静かに歩き出していた。
「何をお祈りしたの?おばあちゃんの事?」
問い掛けるボクに、祖父は何も答えない。
「まだ早いし、折角だからお蕎麦でも食べて行こうか。」
と誘うボクに背を向け、祖父は一番賑やかな門前街とは逆の方向に歩いて行った。
「おばあちゃんに御守りでも買って行こうか。喜ぶよ、きっと。」
そんなボクの言葉が聞こえているのかいなのか、売店などには立ち寄る気配も無く、祖父は静かに歩いて行く。
『何で此処に来たのかな。』
ボクは思った。
狭い小道に入った。そこはもう参詣者の姿もあまり無い。木々の冷たい静かな空気の中を、祖父の後ろに着いてゆっくり歩いて行く。小さな階段を抜け、ゆるい石の坂道を下った。
角を曲がると、そこに小さな花屋があった。花屋、と言っても、切り花を花束にしてくれる様な店では無く、鉢植だの苗だの、『植物』と言った物が雑然と並べられている。
「望月さん、お久し振りです。」
突然祖父に向かって、花屋の店主らしき中年の男性が声を掛けた。
「お知り合い?」
ボクの問いに答える事も無く、祖父は店主に言った。
「黄色いのを。」
何と言う注文だろう。ボクの怪訝そうな反応とはうらはらに男性は、
「黄色ですね。ちょっと待って下さい、奥、探してみますので。」
と、いそいそと店の奥に入って行った。すると祖父は、
「トイレに行って来る。」
と、ボクを置いて、勝手知ったる風にその場を離れた。
一人残されたボクが仕方なく店内をブラついていると、店の奥から先程の男性が嬉しそうな顔をして戻って来た。
「あれ、望月さんは?」
「すみません、今トイレに。」
「そうですか。良かった、奥に一つだけ残っていました、黄色。」
と、小さな球根をボクに見せた。
「いつものヒヤシンスです。在庫があって良かった。」
と、当たり前の様に球根を袋に入れ、ボクに差し出した。
「おばあちゃんにかな。」
ボソッと言ったボクの言葉に男性は、
「お孫さんでしたか。そうですね、こんな大きなお孫さんが居たって不思議じゃないですね。」
と、にこやかに話した。
「祖父とお知り合いだったんですか。」
「ええ。私の父の代からのお客様で。奥様もお変わり無く?」
ボクは、祖母の近況をかいつまんで話した。
「そうでしたか。最近お二人でお見えにならないと思っていたら、そう言う事だったんですね。」
「ええ。これもおばあちゃんへのお見舞いのつもりなのかな。でも、お見舞いに根の生えるモノって、あまり縁起良く無いんですよね。」
球根の入ったビニール袋を受け取るボクに男性は、
「そうですね。でも、望月さんは良いんじゃないですか、これが。」
と、やわらかに言い、手に持っていたお茶をボクに渡した。
「望月さんご夫婦がまだお付き合いする前らしんですけどね、お二人で此処にいらしたそうなんですよ。その時望月さんが、奥様にヒヤシンスの球根をプレゼントしたそうで。初めてのプレゼントだったらしくて、その時の奥様の嬉しそうな顔が忘れられないって、父が私に良く話してくれました。」
男性は、にこやかに続けた。
「それから年に一度位かな、これ位の時期に花の苗や鉢植を買いにいらして。ボクの代になってからも毎年お見えになっていたんですよ、仲良く二人で。」
と、男性もお茶に口を付けた。
ボクには想像出来なかった。あの祖父母の若かりし頃が。ボクが知っているのは、温かさや明るさや微笑みなどとはまるで無縁の鬱蒼としたあの家で、静かに厳しくに生きて来た祖父母だ。
「最初のヒヤシンスね、花言葉が望月さんの愛の告白になったみたいなんですよ。」
男性は、いたずらっ子の様に、にこやかに続けた。
「望月さん、奥様にずっと気持を伝えられずにいたらしんです。でね、緊張でガチガチだった望月さんを見るに見かねて、父が紫のヒヤシンスをお勧めしたんだそうです。」
「紫のヒヤシンス?」
「ええ。それで帰り際、トイレに行った望月さんを待っていた奥様に、父がこっそり言ったんですって。『花言葉ってご存知ですか?』って。」
男性は大切そうに続けた。
「その一年後に二人でお見えになった時、お二人はもう結婚されていたそうで、父もすごく嬉しかったみたいで、何度もその話、聞かされました。だから今日も、お見舞いには不向きでも、奥様はきっと、すごく嬉しいんじゃないかな。」
男性の話に聞き入るボクの目に、遠くからゆっくり歩いて来る祖父の姿が見えた。
「望月さん、用意出来てますよ。」
祖父は男性に代金を支払った。
「奥様によろしくお伝え下さい。」
男性は祖父とボクに会釈した。球根の入った袋を受け取った祖父は店を後にした。その後ろを追うボクを男性は軽く引き止め、
「黄色のヒヤシンスの花言葉、ご存知ですか?」
と、少年の様に微笑み、店の奥に戻って行った。
ボクは祖父の後ろをゆっくりと歩いた。祖父の小さくなった背中が切なかった。祖父の隣に居るのがボクである事が切なかった。
車に乗り込み、祖母の待つ施設に向かった。助手席の祖父は、眠っているのだろうか、黙ってそこに座っている。手にヒヤシンスの球根を持って。
話す事は無かった。言葉にしたら、声を発したらいけない様な気がした。他の誰も踏み込んではいけない、祖父と祖母の、二人だけの記憶。
不思議な一日が終わった。両親も帰宅し、自分の部屋に戻ったボクは、男性の言葉を思い出し、パソコンに向かい、ヒヤシンスの花言葉を調べた。
急に彼女に会いたくなった。ただ、会いたくなった。今度の休みを、少し待ち遠しく思った。
そこにあった。黄色いヒヤシンスの花言葉。
『あなたとなら幸せ』。
ヒサトミ マキ(東京都三鷹市/35歳/女性/フリー)