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<第5回応募作品>「ふわふわ」 著者: 向山 葉子

 あたたかい柔らかな毛が、わたしの頬に触れている。夜中にふと目覚めた時などにもたらされる、何とも言えない幸せ。ふわふわ三毛の癒し。中学校の友達に言わせれば、ニャンコで幸せを満喫している場合じゃないよ、恋しなさい。ありがたいお言葉だけど、ガサツな男子とコダマを同列に並べるなんて、どうにかしている。ふわふわの至福は、コダマをおいて他にはない。そう思っていた。そして、それは永遠に続くと思っていた。
 コダマは、物心ついた時からいたから、いなくなってしまうなんてことは考えたこともなかった。わたしの膝の上がお気に入りで、寝るときはいつも一緒だった。同じ時の流れを過ごしたのに、コダマはいつの間にかわたしを追い越して、年老いていったのだ。
 今年の冬、家の前の道でうずくまったまま動けなくなり、危うく轢かれかけた。毛布を敷いた籠の中に丸くなって、ほとんど寝たきりになった。それでもコダマはふわふわで、撫でるとわずかに顔をあげて、かすれた声で返事をした。

 深大寺動物霊園の萬霊塔は、春の明るい空に向かってすっくと立っている。六角形の法輪が三十三個積み重なっているそうだ。わたしは、その根元に安置してある十二支観音様のお顔が好きだ。金色の逗子のなか、十二支を配した光背を背にした祈りの姿。ふっくらとした頬に柔らかな優しい微笑みをたたえていらっしゃる。あの世でも、コダマはきっと幸せに過ごしていることだろう。好きだったポリポリと気に入りの毛布と、庭に咲いている花々と。わたしはそこにいられないけど、観音様が見守っていてくれるから、大丈夫だよね。そう自分に言い聞かせる。コダマのいない日々。あの、小さなふわふわがいなくなった、それだけでわたしの毎日は変わってしまった。春休みなのにちっとも楽しくない。友達の誘いにも、出かける気が起こらない。ちょっとしたことで涙が出てしまうもの。
 深大寺の境内では、なんじゃもんじゃの木が花を咲かせている。霊園の階段下の乾門から入るとすぐに、白い霞のような花をつけた木が目に入る。この花の様子は何となく丸くてふっくらしてて、白猫みたいだ。
 灯篭の中に、猫がいる。燈心を置くせまい空間にすっぽりはまって眠っている。はみ出した背中の毛しか見えないけど、そこが一番安らぐのだろうな、とわたしはその毛玉を眺める。触りたいけど触らない。触られたくないらそんなとこにはまっているのだろうから。それから、五大尊池のそばには茶縞の親子。 人に馴れているようでいて馴れきれてない。一定の距離をおいて眺めているから、わたしも その距離で眺め返す。湧水の流れには、水を飲む黒トラ。そっと近寄って横に並んでみる。気配に顔をあげて、じっとわたしを見る。でも、それは親しげな瞳ではない。そうよね、あんたはコダマじゃないもんね。もうどこにもいないと分っているけれど、もう一度会いたい。ふわふわに触りたい。わたしは黒トラに手を伸ばしたが、トラはぱっと身をひるがえして走り去った。
 夕焼けが、門前のお蕎麦屋さんの古い軒の上にひろがっている。お腹が空いてきた。哀しくても、空いてしまうお腹がうらめしい。お土産用のソバ豆の試食品を一つつまんだ。おいしいけれど、もっと虚しくなった。
 深沙の杜には、もうわたしの自転車しかなかった。杜の中は、周りよりも夕闇が早く降りてくるのか、だいぶ薄暗い。ポケットから鍵を出した時、勢い余って鍵が草むらの中に飛んで行った。ため息が出た。草むらを覗き込むと、少し手を伸ばせば届きそうなところに鍵があった。体を平べったくして手を伸ばそうとした時、木の下闇の奥に金色の二つの光が見えた。わたしは目を凝らした。猫だということは確認できたが、様子がよくわからない。うずくまったまま、動く気配はないようだ。そのうちに目が慣れて、それが三毛猫で、さほど小さくはないということが見えてきた。金色の光は、逃げようという気力もないのか、変わらずにこちらに向けられている。弱って、動けずにいるのかもしれない。
「どうしたの。具合が悪いの」
 わたしは声をかけた。ミァとかすかな声がした。弱ったコダマの声にそっくりだ、と感じた瞬間、わたしは草の中を匍匐前進していた。足に怪我をしている。衰弱しているようだった。コダマとは目の色が違っているし、ずっと若いけど、同じ三毛猫だ。大きさも同じくらい。わたしは草をかき分けて、傷に触れないように気をつけながら抱き上げた。抗わなかった。何日もこの草むらで、傷を舐めていたのかもしれない。上着を脱いで、顔だけが出せるようにして包むと、自転車籠に乗せて走りだそうとした。その時、草むらの中から茶トラが走りだしてきて、フウッと全身の毛を逆立ててわたしを威嚇した。猫にそんな態度を取られたことがないので、びっくりしたが「けがしてるから、治療に行くの」と言い捨てて走り出した。 
 動物病院はもう終わった時間だったが、先生は診察を引き受けてくれた。
「コダマちゃんに似てるよね」
 先生は、診察をしながら笑った。
「車かバイクにでも引っかけられたんだろうな。化膿して弱ってるけど、もう大丈夫だよ」

 お母さんは、しまい込んでいた餌箱を出したり、缶詰を棚の奥から引っぱり出したり。「コダマの籠、捨てられなくて」
 そう言いながら、古毛布を敷いて持ってきたくれた。何だか少し嬉しそうだった。ミケは、薬が効いたのか、少しネコ缶を食べて、コダマの籠の中で丸くなって眠っている。夜中に、遅く帰ったお父さんが籠を覗き込んでミケちゃんの頭を撫でていた。ごろごろいう甘え声が、ベッドで半分眠りかけていたわたしの耳に優しく響いた。

 チリチリン。鈴の音がして、大きな茶トラがシッポをピーンと立てて近寄ってくる。スリスリ頬ずりをして、顔を優しく舐めてくれる。ああ、あの時の怒りんぼ猫だと思った。舌のザラザラがちょっと痛い。ころころボー ルが転がる。古い野球ボールらしい。茶トラはぱっと身構えて、ボールにじゃれかかる。パンチで転がす。前足で押さえて齧りつく。こっちの方にも転がってくる。わたしも躍りかかって、跳ね返す。何だかわくわくする。わたしと茶トラは、交錯したり奪い合ったりして遊んでいる。そして毛づくろい。茶トラはわたしの毛を舐めてくれる。安らかな時間。段々に眠くなってくる。
 なんて夢を見た朝、気がつくとミケちゃんはわたしの横に寝ていた。ベッドに上ってこられるくらいになったのだ。ふわふわがベッドの上にいる。それだけのことなのに、心が温かい。この子にも家族がいるかもしれないと心のどこかに引っ掛かっていたが、コダマが弱っているわたしの元にこの子をもたらしてくれたんだ、と考えることにした。
 わたしは、参考書を買わなければならないことを思い出し、家を出た。深大寺を通りかかったとき、観音様にお礼詣りをしなくっちゃ、と思いついた。霊園の階段を上ろうとした時、階段脇の壁に、手作りらしいポスターが貼ってあることに気がついた。猫、探してます。大きな字。嫌な予感がした。見ない。そのまま通り過ぎ、階段を上って行った。
 お線香を供えて手を合わせながら、観音様のお顔を見た。たなびく煙の向こうで、観音様は哀しげな表情を浮かべている。やっぱり無視しちゃダメなんだ。わたしはポスターの前にたたずんだ。ミケちゃんと、大きな茶トラが、寄り添っている写真。猫、探しています。右側の三毛猫(メス)が、三月下旬頃いなくなりました。見かけた方はご連絡ください。そして連絡先。写真をじっと見つめた。似てるけど猫違いかもしれない。夢の中の茶トラ、わたしを威嚇した茶トラ。わたしはポスターの前で葛藤した。写真の中の二匹。ミケちゃんは茶トラに頭を擦りよせて、茶トラは目を細めてミケちゃんの頭を優しく舐めている。ほのぼのツーショット。
 参考書を買うこともすっかり忘れて、家に戻った。部屋に入ると、ミケちゃんが危なっかしい足取りながらも近づいて来て、わたしの足にスリスリした。
「茶トラくんは彼氏なのかな」
 わたしのつぶやきにミケちゃんはニァァとお返事した。わたしはため息をついて、ミケちゃんの顔をなでなでした。
「会いたいよね」というわたしに、またニァァとすり寄る。わたしは、そんなミケちゃんを見ながら、ポケットから連絡先をメモした紙を出した。くしゃくしゃになったメモを膝の上でのばしていると、ミケちゃんがきらきらした目で見上げている。わたしは、携帯電話をカバンから取り出した。

 飼い主さんが訪ねて来る日。わたしは、悔しいような腹立たしいような、もやもやした気持ちでいた。立ったり座ったり落ち着かないでいるうちに、玄関のチャイムが鳴った。わたしは、笑顔を作ってドアを開けた。そこには、背の高い男の子が立っている。イケメンではないけれど、素敵な笑顔。彼はミケちゃんを膝に乗せて、人懐っこく話す。つれあいのチャーがすっかり元気がないこと。ミケちゃんの初めての子供がかわいくて、貰われていく時のことを考えると泣きそうになること。そう、そして、ふわふわのお昼寝の幸せについて。わたしは、相槌を打ちながら、久しぶりに心から笑っていた。

向山 葉子(東京都調布市/49歳/女性/主婦)

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