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<第5回応募作品>「雨のち晴れ」 著者: 野末 ひな子

「おい、君」固い声が背中に突き刺さる。沙耶はぎくっとして立ち止まった。恐る恐る振り返ると、蒼白い顔をした青年がトンを抱いている。
「君の猫だろ。野良猫にするつもり?」青年の目は、はっきりと沙耶を咎めている。トンは青年の腕の中で彼を見上げ、鼻に皺をよせてミャーミャーと鳴いている。その仕草は、まるで彼に何かを訴えているかのようだ。
「動物は最後まで責任をもって飼えよな。わかったら、さ、連れて帰って」沙耶は青年の顔をまともに見ることが出来ない。あれほど誰もいないことを確かめて捨てたのに……。あ~あ運が悪い、と心の中でぼやいた。
沙耶がしぶしぶ両手を出すと、青年は猫を抱いたまま、沙耶の顔を覗き込んだ。
「まさか、またどこかで捨てようなんて思っていないだろうな」「だいじょうぶ、捨てません」たぶん。たぶんは心の中で付け加えた。
青年は疑り深い目で見下ろしていたが、トンをそっと沙耶に手渡した。猫の扱い方に、この青年はほんとうに猫好きなんだな、と感じる。私だって、としんみりしそうになったときだった。「あ、冷たい」上を向くと、大粒の雨が思いっきり顔を叩いてきた。沙耶は弾かれたように、トンを腕に抱え込んで駆け出した。しばらく走って立ち止まった。後ろを振り返ったが、土砂降りの雨が視界を遮り何も見えない。顔の雨を拭いながら目をこらすと、雨の向こうに佇む青年の姿が見え隠れする。やっぱり彼は私を信じていなかったのだ。沙耶は逃げるように駆けた。
どこをどう走ったのか、気が付くと蕎麦屋や土産店が立ち並ぶ深大寺界隈にいた。雨に打たれ、そのうえ空腹ということもあって、いやに惨めな気持ちになっている。トンもお腹を空かせているのか、腕の中から上半身を反り返らせて降りようとする。沙耶が必死で抱きかかえていると、腕に爪を立てて飛び降りてしまった。蕎麦屋に駆けこむかと思っていると、今来た道を戻っていく。トンの逃げ足は速く、あっという間に見失ってしまった。トンは逃げたんだ、となんども自分に言い聞かせるのだが、なにか後ろめたさが残る。
雨は通り雨だったようですぐに止んだが、沙耶はずぶ濡れだ。髪の毛から雨のしずくが垂れてくる。バス停でバスを待ちながら、妙に孤独だった。
亨と拾ってきて育て始めた猫だもの、捨てたいなんて思うはずがない。亨が部屋に来なくなり、二人の思い出になるものを一掃しないと窒息しそうになって、写真もプレゼントも食器も全部捨てた。そして最後に残ったのがトンだったのだ。
このトンという名前、亨の愛称からつけたから厄介なのである。猫の名前をつける時に、少しもめた。沙耶はトンがいいと言い、亨は、僕かと思うよ。いやだな、と反対した。結局、猫にはトンと呼び、亨にはトンちゃんと敬称をつけることによって区別したのだった。亨はトンと呼ばれるとよく間違えて反応していたが、猫はトンとトンちゃんとをしっかり区別していたのだからすごい。しかし、こんな曖昧な線引きがよくなかった。亨が訪れることがなくなった私の慰めは、トンのはずだった。が、トンと呼ぶたびに亨を思い起こし、淋しくなるばかりだ。いまさら名前を変えても、トンが新しい名前を認識するとは思えない。悩み続けた末に、猫を捨てる決心をした。首輪にトンと名前を書き、泣く泣く深大寺にやって来たのだった。
来たバスに乗ろうとして、ステップに足を掛けた。今にもトンが駆けてきそうに思えて、辺りを見回した。しかし、トンの姿はなく、次の人に押されるようにして車内に入った。

トンがいなくなって一週間が過ぎた。トンが使っていた器やトイレをベランダの隅に片付けると、部屋の中がいやに広く感じる。膝にはいつもトンが乗っていたが、トンがいない膝はやけに寒い。沙耶は膝を抱えた。気がつくと部屋を見回してトンの姿を捜している。捨てようと思ったとき、こんなに寂しくなるとは想像もできなかった。
沙耶はごろんと床に仰向けにころがった。天井を睨んでいると、突如として、あの青年の顔が浮かんできた。その顔は怒っている。きっと約束を破ってトンを捨てたと思っているのだ。沙耶は、がばっと起き上がり、トンを探しに深大寺に行こうと、化粧を始めた。
沙耶はトンが逃げた蕎麦屋の前に立って、あたりを見回した。あちこち歩いてもみたが、どこにもトンの姿はない。深大寺の階段を上りながら、境内に蹲っているトンを想像する。が、ここも期待はずれだった。ここは縁結びの神様だと聞いたことがある。祈ればトンは戻ってくるかもしれない。相手は猫だけど縁結びには違いない、と手を合わせた。
トンを捜しながら、あてもなく歩いていると、いつの間にか猫を捨てようとして、青年に叱られた場所に来ていた。胸がキュンと痛む。
いきなり亨との喧嘩をおもいだす。「トイレの電気を消せよ」「わかった」「これで千回目」「ごめん」謝りながら、千回もトイレに行ったかな、と考えていたら、「その他人(ヒト)ごとの様な態度がむかつくんだ。二千回も同じこと注意させるな」いつの間にか千回も増えている。ガンガン怒鳴る亨に、それを指摘すると「すり替えるな」と言って出て行ってしまい、亨とはそれっきりになってしまった。  
私はいい加減な女なのかなあ。だから亨に嫌われたのかも、とか考えていると、いやに足首がこそばゆい。視線を落とすと、トンが沙耶の足に纏わりついている。「トン」沙耶は叫んだ。しゃがんで、トンが喜ぶ頭ツンツンをやりながら、「トン。ごめんね、ごめんね」と謝っていると、「君、やっぱり猫を捨てたね。あれほど注意したのに」といきなり頭上で男の声がする。顔を上げると、青年が厳しい顔で見下ろしている。沙耶はトンを抱いて立ち上がると、猫の背中に顔をうずめて隠れた。
「それで、今日はトンが心配になって来たの?」 青年がトンと呼んでいるのがうれしくて、沙耶は猫から顔を上げた。「あ、そうそう、そうなんです」「ほんとかな?」まったく疑ぐり深い男だ。そう思いながら彼を見ると、沙耶の視線と彼の視線がぶつかった。沙耶はどきりとした。青年の瞳は、まるで葉の上の水滴が葉の緑を映したように、澄んで涼やかだった。その瞳に見つめられていると、ごまかしは許されないような気がして、沙耶は思わず背筋を伸ばした。
「トンが逃げたんです。ホントです。捨てたんじゃないんです」「逃げたんじゃないよ。僕に助けを求めてきたんだよ」「……」「トンは捨てられるってわかっていたんだよ。僕とトンは、君が捜しに来るのを待っていたけど、君は来なかった」「まるで猫の気持ちがわかるみたい。でも、もう絶対にトンを離しません。約束します」「うん。それがいい」
青年は沙耶に頷いてみせると、よかったな、とトンの頭を華奢な指で撫でている。今日のトンは、沙耶の腕の中で、ごろごろ喉をならして、おとなしい。
「私の名前は、馬淵沙耶と言います。三鷹の」「住所は言わなくてもいいよ。信じているよ」と遮った。
青年は、沙耶が住所を知らせるのは、猫を捨てないことを保証するつもりだと取ったらしい。折角、名乗って相手の名前を聞こうとしたのに。結局、沙耶は青年の名前も住所も聞きそびれてしまった。じゃ、と立ち去る青年の背中に「ありがとう」と叫ぶと、振り返ることもなく右手をあげた。
家に帰っても彼のことが頭を離れない。眠れないまま夜を明かした沙耶は、トンを置いて、ひとり、青年と会った場所にやって来た。春の日差しの中を、しわの深い老女が歩いている。
「あのー、この辺で猫好きの若い男性を知りませんか」知らなくて元々と、声を掛けると、「それはトオル君のことだな。よく知っているよ。最近も茶虎の猫を抱いて毎日この辺に立っていたね」と意外な返事が返ってきた。「その茶虎、私の猫だったんです。その人の家に行きたいんです。教えてくれませんか」「ああ、いいよ。着いておいで」老婆は腰をのばし、それからゆっくり歩きだした。
案内された家には「太田」と表札がかかっている。沙耶が引き戸を開けると、玄関のそばの板場に毛布が敷いてあり、横に猫用のトイレや餌の器が、きちんと片づけてある。トンはここで過ごしていたようだ。
奥に声を掛けると老人が出てきた。沙耶が、猫の飼い主だと名乗ると、「あんた、透が預かっていたトンの飼い主かね」と相好崩した。奥に向かって「おい、透、おまえの兄弟分の飼い主がお目見えだぞ」と声を掛けた。しばらくしてあの青年が現れた。「君か。よくわかったね」「おばあさんに教えてもらった。猫好きな青年と言うとすぐわかった」と沙耶が言うと、青年は「そう」と言った。「あがってもらえ」と老人が声を掛けると、「いや、ちょっと散歩に出てくる」とサンダルを履いて歩き出した。「病院に間に合うように帰ってこいよ」「うんわかってる」と答えた。沙耶は青年に訊きたいことが山ほどある。背の高い透は、深大寺に向かって長いコンパスで歩く。その後を追いながら、「兄弟分って?」「ああ、僕、透っていうから、小さいときにトンちゃんって呼ばれていたんだ。それで」あまりの偶然に沙耶は目を見張った。「もう一つ聞いてもいい? 病院って?」「うーんと、僕、今日入院するんだ。肺の手術。でもたいしたことない。やらないと大学卒業しても就職できないからな」
今になって、あの日、雨に濡れてだいじょうぶだったのだろうか、と心配になってきた。沙耶と同じくらいの年の青年が、いやに大人びて見える。口数が少ない彼を、誠実で信頼できる大人と思えるのは、透の澄んだ瞳にあるのだろうと思った。
「ね、深大寺のお寺に行こうよ」「どうして?」「透さんの病気が治るように祈るの」「ふーん、随分信心深いんだね」猫を捨てたくせに、と声なき声を聞いたような気がして、沙耶は首をすくめた。
ふたりは本堂の前に立った。沙耶は心を込めて手術の成功とこれからの二人のことを祈った。横で透も手を合わせているが、何を祈っているのだろう。
透にむりやり病院名を聞き出し、「お見舞いに行くからね」と言うと「いらないよ」とぶっきらぼうに返してきた。「ううん絶対お見舞いに行く。トンの写真もって」と沙耶も譲らない。すると、トンという名前が出たからか、透は白い歯を見せて笑った。「あ、笑った」「えっ?」「笑わない人かと思ってた」「まさか」と照れたように横を向いた。それから沙耶の目をまっすぐに見た。「トンをかわいがってやれよ。君が現れなかったらトンを家で飼うことにしてたんだ。だが、君は思ったとおり、いい加減なやつじゃなかった」「えっ?」沙耶は耳を疑った。自分をこんな風に言ってくれる人もいるんだ、と透の顔をまじまじと見た。
寺の石段を下りると、透が立ち止まった。「じゃ、ここで。今、深大寺さんにお礼を言ってきた。トンの飼い主が現れるようにって、毎日祈っていたもんだから。ま、入院まで暇だったからな。トンと散歩に来たついでだったんだけど」「そうなんだ……。ありがとう。手術がんばって」「うん。トンによろしく。じゃーな」と言うと、振り向くこともなく家に戻って行った。
沙耶は、空を仰いだ。真っ青な空が広がっている。雨のち晴れか。沙耶はくすっと笑った。

野末 ひな子(東京都杉並区 /女性/主婦)

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