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<第5回応募作品>「彼の歌を聴く」 著者: 田中 時尾

わたしがこの街に住むことになったのも、彼の意向をすべてくみ取ってのことだった。
「東京の最先端な感じではなく、古い武蔵野の雰囲気がふんだんに感じられて、公園があって、お寺か神社、それと蕎麦屋のある場所。もちろん家賃も、なるべく手頃で」
初めての東京で、ただなんとなくミュージシャンぽい街だからと下車した吉祥寺駅の、なにも考えずに飛び込んだ小さな不動産屋で、彼は、これだけは譲れないと、家の条件を、ハゲ頭でくたびれたネクタイのおじさん社員に朗々と伝えた。そして、吉祥寺からは少し離れるが、ここらあたりなら条件にあうだろうと紹介された、築四十年二階建て木造アパートの二階の一番奥の部屋に、そのままふたりで住むことになった。彼は、その当時、ミュージシャンとしてはそれなりに人気も出かけていたのだが、社会的にはほとんど無職同然だったので、名義もわたしの名前で契約するしかなかった。わたしは、運よく知り合いのつてで、新宿の個人デザイン事務所に就職することができた。本当は、地元の大阪で、あと一年すれば独立して、自分のデザイン事務所を立ち上げようと計画していた。個人事務所は昔からのわたしの夢だった。彼に出会うまでは。
もしかしたらわたしもどこか不安があったかもしれない。あんなに夢だった独立を、わたしはあっさりと諦めた。諦めたというよりも、この選択のほうが正解だと、あの時は本気で思ったのだった。わたしは、初めて見た彼のライブで、生まれて初めての一目ぼれを体験した。これだけは言えるのだが、わたしは決して彼の人気に飛びついたわけではなかった。
そのころは彼も、まだまったくの無名で、人気だってほとんど無かった。その日のライブも、三十人も入ればいっぱいになるような小さなライブハウスだったが、お客さんはわたしも入れて十人足らずで、ガラガラだった。
人気が出だしたのは、わたしと付き合うようになってだいぶたってからのことだった。
わたしも人並みに、人気がでるようになった彼の心移りや浮気を心配したけど、彼は、わたしが勝手に想像しているミュージャン像とは少しかけ離れていて、名声や、お金には無頓着だった。外で遊んでくることもほとんどなかった。ライブの打ち上げでさえ、いつも途中で退席して、終電前にちゃんと帰ってきた。ミュージシャンならもっとファンを大切にしなさいとわたしが注意するくらいだった。
そんな時は、彼はいつも困った顔をして、部屋の隅で、アンプに繋げていないエレキギターをチャカチャカ爪弾いて、自分の歌を歌って誤魔化すのだった。わたしはそんな彼の姿が好きだった。付き合うようになって一年、わたしが独立のことを、彼に相談しようかどうか迷っていたころ、彼に「東京で勝負したいと思っている」と告げられた。
わたしは「一週間だけ考えさせて」と言い、一週間後には、勤めていた大阪のデザイン事務所に辞表を提出した。彼はだいぶ困惑したようだったが、わたしも東京に行きたかったと言ったら、なんとか納得してくれた。
本当は、どこだって良かったのだ。ただ、彼と離れたくなかった。今考えると、わたしも長年の夢を棄ててまで、無茶したかなぁと思う時もあるのだけど、でも、今だって後悔はしていない。この街に来られたことも。彼と過ごしたこの街での時間も。
1LDKの木造のボロアパートは、大阪なら立派な2DKのマンションに住めるくらいの家賃だった。そのくせ、オートロックなんてもちろんなくて、風呂も、浴槽なしの、シャワー室だけだった。ふたりで続けてシャワーを浴びると、最後のほうは必ず水になった。そんな家だったけど、彼といるとまったく苦にはならなかった。彼も、工事現場でアルバイトを始め、わたしの収入と合わせれば、もう少しマシな部屋に住めそうだったけど、彼は「ボクはここが気にいった」と言って、引っ越そうとはしなかった。部屋というよりも、街の空気が好きになったようだった。
わたしも彼の意見には賛成で、確かに、わたしたちにはこの場所の空気がしっくりきた。都会であることには違いはないのだけど、どこか懐かしい匂いがした。初めての街なのに、この街で見る夕焼けは、遠い子供のころの記憶がよみがえるような、そんな想いにさせてくれた。彼の歌も、この街に来て、前よりもさらに良くなったとわたしは感じていた。
彼は、大阪の街も愛していたが「大阪は蕎麦屋があまりない」とよくわたしに洩らしていた。彼は、蕎麦が好物だった。わたしたちは、このあたりのことについて、まったくと言っていいほど無知で、最初は、なんでこんなに蕎麦屋さんばかりあるんだろうと不思議だった。ふたりで新しい街を歩き、ここらは、深大寺を拠点とした門前町なのだと理解した。
門前そばというのぼりも発見した。
彼は、観光地っぽいところは、ごみごみしてあまり好きではなかったが、ここらの、どこかのんびりとした雰囲気は気に入ったようだった。観光で来ているのではなくて、ここに住んでいるというのも、より深く街の一日が分かってよかったのだろう。まだ人の少ない時間に、よくふたりで、深大寺界隈を歩いた。小学校のすぐ近くに、蓮や、花菖蒲の生えている水生植物園があって、彼と一緒に時間を忘れてぼんやり眺めるのだった。
亀島まで歩いて、また一時間以上たっぷりとすごし、そのあといつも決まって、鬼太郎茶屋に入ろうかどうしようか迷ったあげく結局入らずに、晩御飯の買い物をして、うちに帰るというのが、わたしたちのデートのパターンになった。特別な日は、お気に入りのお蕎麦屋さんで、彼はそばを二枚食べ、わたしはそばの実の雑炊を食べるのが、ふたりにとっては一番の贅沢だった。仕事に明け暮れていたころは忘れていた、四季を思い出させてくれる街だった。だるま市に行ったし、野川の灯篭流しも見た。もちろんそば祭りにも行った。ふたりとも、この街に溶け込めていると本気で感じていた。この街での時間も、あっと言う間に二年が過ぎようとしていた。彼は、吉祥寺界隈のライハウスだけではなく、新宿のほうでも活動するようになり、人気も、東京に出てきた時に、いったんゼロになっていたのが、少しずつ上がってきた。インディーズではあったが、ワンマンでライブできるくらいまで評判になった。小さなライブハウスなら、いつも満杯になった。時々、メジャーレーベルのスカウトマンも、彼のライブを見にくるようになった。ライブが忙しくなり、彼はアルバイトもままならないようになった。ライブが忙しくなっても、なかなか収入には結びつかないのが、この世界の厳しいところだ。働けなくなった彼のかわりに、せめてわたしは収入面で支えようと頑張った。いつのまにか、彼のプロデビューは、ふたりの目標になった。
一度は、夢を諦めたわたしだったが、彼と見る夢はぜったいに叶えたいと思っていた。
でも、彼はどこか疲れているようだった。
ある日、彼と初めて喧嘩をした。彼は、プロデビューしたくて音楽をしているわけではないと言った。わたしはなんだかとても腹が立って、彼にあたり散らした。彼は黙って、部屋の隅でただ座っていた。わたしが一方的にあたった。その三日後、彼はこの部屋を出て行った。元々、わたしの名義で借りていた部屋だったので、彼が出て行くしかなかった。ケータイも繋がらなくなった。わたしはどうすることも出来ず、ただ、彼を忘れるように、また以前のように仕事に没頭するようになった。毎週のように彼と歩いた、深大寺周辺も、ほとんど歩かなくなった。彼との思い出が、よみがえるのが嫌だったのだ。
彼が部屋を出て行って、半年後、突然、部屋の郵便受けに、大きな封筒が届いた。
中を開けると、CDが一枚と手紙が入っていた。手紙は彼からだった。
手紙には「今までほっといてごめん。どうしても、この一枚を完成させたかった。君と暮らしたこの街の匂いや色を、このアルバムに映したかった」と書いてあった。
彼は、わたしの知らないところで、一枚のCDアルバムをレコーディングしていたのだった。手紙の二枚目には「来月発売します」と書いてあって、PSのあとに、彼の今いる場所の住所が記してあった。わたしは、そのアルバムを聴くのも忘れて、すぐに、記してあった住所に向った。彼はわたしを忘れたわけではなかったのだと、嬉しくて涙が出そうだった。でも、その涙は別の涙に変った。
彼は、静かな病室で、半年ぶりに、あの優しい笑顔を、わたしに見せてくれた。
だけど、彼の姿は、半年前とは別人のようだった。彼が、自分の病気に気づいたのは、わたしと東京に来てからしばらくしてのことだったらしい。いつものように声が出ないので、疲れだろうと診てもらった病院で、彼は余命宣告をうけた。わたしにはすべて隠したまま、彼は歌を続けた。彼は、デビューなどどうでもよかった。ただ、一枚だけ、自分のすべてをアルバムに収めたかったのだ。わたしは、まったく気づかずに、あの日、彼にあたってしまった。わたしがごめんねと言うと、彼はボクこそごめんと言った。そして、病室で、ふたりで泣いて、そのあと笑った。
彼が亡くなったのは、それからわずか一か月後のことだった。ちょうどアルバムの発売日だった。彼が出した、最初で最後のアルバム「深大寺物語」は、その後、インディーズチャートで一位を獲った。そのアルバムは、わたしと過ごした季節がぜんぶ入っていた。
あの夕焼けの匂いも。川の音も。
わたしは、今でも、この街に住み続けている。
彼がひょっこり、そこのお蕎麦屋さんから、暖簾をくぐって出てくる、そんな妄想をしながら、彼の歌を聴く。

田中 時尾(大阪府大阪市/31歳/男性/フリーター)

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