<第5回応募作品>「雨上がりの薔薇」 著者: ばあと
「おなか、すいたでしょ。蕎麦でも食っていく?」
とっくに一時は過ぎているから、おなかはすいている。でも、はじめてのお得意様回りは、腹の虫を気にしている余裕なんてなかった。
深大寺周辺のお得意様を訪問した、というより、訪問する先輩の後ろにただついていった、という方が正解。結局私はお得意様の前で、自己紹介するのが精いっぱいだった。
先輩は5歳年上、主任。背が高く、職場内の女性からは、韓流スターに似ているとかで評判だった。が、仕事では厳しい先輩に、毎日びくびくしていた。今日もすでに全神経を使いきってしまった気がする。
「いらっしゃいませ!」
威勢のいいおばさんの声が聞こえた。深大寺にあるお蕎麦屋さん。蕎麦つゆのいいにおいと天ぷら油の香ばしいにおいに、私は少しほっとした。
「俺、天ざる。清水さんは?」「あ、ざるそばで。」
私は運ばれてきた水をぐいっと飲み干してしまった。
「喉、かわいてた?」というと先輩はクスっと笑いながら私の顔を覗きこんだ。
「す、すいません!」私は慌てて下を向いてしまった。
「いいんだよ、緊張するよな。すいません、お冷おかわりください!」
蕎麦屋のテーブルは意外と小さくて、真正面に座った距離がとても近くに思えた。蕎麦が来るまでの間、先輩は、今日のお得意様のこと、これから社にもどって報告することなどを話していた。でも、私はあまり耳に入っていなかった。
近くで見る先輩の首、そして整った顔立ちにちょっと意識してしまっている自分がいる。
「お待ちどうさま」
運ばれてきた蕎麦に、はっと我に帰った。
「さ、食べよう。俺、ここの蕎麦好きなんだ。」
先輩は箸を割ると、蕎麦を食べ始めた。
(わ、きれい!)
先輩が蕎麦を食べる姿を見て、そう思った。箸で蕎麦を運ぶ姿、勢いよく、でも上品にすする姿。とてもおいしそうに食べている。私も一口食べた。
「まきちゃん、蕎麦はすすってたべるもんなの。その方が香りを楽しめるんだから。」
学生時代付き合っていた彼氏が「ラーメンとかすする女ってやだな。」という一言から、麺類を食べる時は箸で少しずつ口に運ぶ癖が付いていた。
「え?香り?」
「そう、蕎麦とつゆの香り。」
そう言って先輩はもう一口、蕎麦をすすった。
学生時代の彼氏や友達は、みな箸の持ち方が悪かったり、肘をついたりしながら、おいしくなさそうに食事をしていた印象しかない。
私は先輩を呆然と見てしまった。さっき、名字ではなく、まきちゃん、と下の名前で呼ばれていたことも思い出した。
「どうしたの?食べなよ。」と先輩が笑顔を見せた。さっきのお得意様の前での営業スマイルとは違う、とてもいい笑顔。
その後はどんな話をしたか、蕎麦はどんな味がしたか、ほとんど覚えていない。ただ、先輩の箸を持つきれいな手つきは、はっきりと覚えている。
その日から、私は仕事に打ち込んだ。足しげく深大寺に通い、蕎麦を食べた。先輩みたいに蕎麦をきれいに食べたい、蕎麦のおいしさをもっと知りたい一心で。精一杯自分を磨いて、先輩と蕎麦を食べるに相応しい大人の女性になることをめざして。
「藤木先輩、もうすぐ結婚するかもよ。」
「え~、ショック~!どうして知ってるの?」
「美人と一緒に、不動産屋で部屋を探しているとこ、見ちゃったもん。」
職場の女友達と行ったランチでの会話に、私は目の前が真っ白になった。
先輩とは何度もお得意様回りに行ったけど、一言もそんなこと言ってなかった。それどころか、最近は二人でいると、「まきちゃん」と親しげに呼んでくれて、私もそんな先輩に答えようとがんばった。毎日がとても充実していたのに。
日曜日、一人で神代植物公園に行った。ちょうどバラフェスタがやっていた。先週、先輩と営業していた時、バスの中に広告が貼ってあり、それを見て「薔薇かぁ」と先輩が呟いていたのを聞き逃さなかった。薔薇になにか思い出があるのかな?もしかして彼女が好きな花なのかな?
そう思ったら、なぜか足が向いてしまった。
明け方まで雨が降っていたので、綺麗な薔薇たちは花びらに露をつけていた。
深紅の大きな薔薇が、まるでベルベットの生地のような花を見事に咲かせていた。
(先輩の彼女って、こんな感じかな・・・)
綺麗で香り立つ、こんな深紅の薔薇のような女性だろう。
すぐ横に、小ぶりで薄ピンクの薔薇があった。私はこれかな?この薔薇にも届かないかな。鼻の奥がツン、とした。薔薇の香りは雨上がりのせいか、今の私には少し強すぎる気がした。
散歩のあと、深大寺に蕎麦を食べにいった。あの日初めて先輩と行ったお店に。
「いらっしゃいませ!」
あの日と変わらない、元気のいいおばさんの声。
私も今では、上手に蕎麦を食べられるようになった。箸の使い方も練習した。きれいに蕎麦が食べられるようになるために。先輩にふさわしい女性になるように。別の蕎麦屋にも入ったが、やっぱり先輩と初めて食べたこの店が一番気に入っていた。
蕎麦を一口すすった。また、鼻の奥がツンとして涙で目が曇った。
(ワサビのせいだ、絶対に。)
一人蕎麦をすすって泣いている女なんて、演歌にもならない。あわててバックからハンカチを出した。
「いらっしゃいませ!」
おばさんの声に顔を上げると、ガラガラっと戸を開けて長身の男性と若い女性が入ってきた。
「先輩?」
「あれ?まきちゃん、何してんの?って蕎麦食べてるのかぁ。」
とびきりの笑顔で先輩は声をかけてきた。
(彼女もいっしょだ!)
私はほとんど食べ終わった蕎麦に目を移した。
そんな私の気も知らず、先輩はすぐ横のテーブルに座った。
「一人で蕎麦を食べに来てるなんて・・・言ってくれれば付き合ったのに」
先輩は無邪気に笑った。
(彼女の前で何言ってんの・・・)
私は、上目使いで彼女を見た。
「お兄ちゃん、彼女?」
若い女性は先輩を冷やかすように言った。
「お、にいちゃん?」
私は蕎麦猪口をもったまま手が止まった。
「はは!まぁ、ね。」先輩は白い歯を見せた。
「妹の朝子。就活で東京に来ててね、ちょっと面倒みてるんだよ。」
「お兄ちゃんがいつもお世話になってます!」
元気にあいさつをした女性は、どことなく先輩に笑顔が似ていた。
「お待ちどうさま!」
おばさんは天ざるを二つ、運んできた。
先輩と妹は、東京は郊外でも家賃が高いとか、女の一人暮らしは心配だとか、話している。(美人と不動産屋さんて・・・)
「お兄ちゃんって心配症なんだよね。」妹はちょっとむくれながら海老天を口に入れた。
「まきちゃんも飲む?」
いつのまにかコップが差し出され、冷えた瓶ビールを注がれていた。
「昼間のビールと蕎麦は最高だね!」と先輩は私に乾杯するそぶりを見せた。
私たちは店を出た。私はコップ一杯のビールで頬が赤くなっていた。
「じゃ、私はここで、約束があるから!」と妹は無邪気に手を振った。
「え、あの、ちょっ」と声をかけたが、妹は「じゃ!お邪魔しました!」と小走りにバス停へ向かってしまった。
気まずい雰囲気と雨上がりの蒸し暑さと昼間のビールに、私はくらくらした。
「あのぉ・・」
「薔薇、見に行こうか。」
「え?」
「神代植物公園の薔薇、見に行こうよ。腹ごなしにさ。」
(今、行ってきたとこ・・・)
そう言おうと私は顔をあげた。先輩は私の手を引っぱった。
「まきちゃんの誕生月の花だもんな。」
「え?」
誕生月・・6月の花は薔薇だったっけ。
「薔薇なんて、まきちゃんにはちょっと大人っぽ過ぎるけどな。」
先輩はまた無邪気に笑った。いつものスーツ姿の営業スマイルとは違う。
「そんなこと、ないですよ!」
手を引っぱられて慌ててついていく。
深大寺の参道は、初夏の太陽に照らされ、いつの間にか乾いていた。
ばあと(東京都三鷹市 /41歳/女性)