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<第5回応募作品>「蓮の花が咲くとき」 著者: 望月 吾妻

 成田空港からのリムジンバス直行便は、香織の実家がある調布に向かっていた。朝からやる気満々に昇った盛夏の太陽が、左側の景色を鏡のように反射させている。香織は車窓に流れる景色をぼんやり眺めていた。田園風景はやがて住宅密集地に変わり、次第に高層ビルやタワーマンションの数を増やしていった。首都高速を滞ることなく進んでいるから、昼頃には予定どおり着くだろう。駅には父が迎えに来てくれているはずだ。

香織は滝沢家の長女として調布市佐須町に生まれた。地元でも知られた旧家である滝沢家は、代々農業を営み、周辺に相当な土地を所有している。祖父の代から資産活用の都合で建築業も始めたが、今でも庭先では点在して残る畑で収穫された野菜を売っている。広い敷地に建つ緑に囲まれた実家は野川の近くにあり、香織は閑静な住宅街の、自然豊かな恵まれた環境の中でおおらかに育った。
柏野小学校から第七中と地元の公立を進み、高校は都立三鷹高校に学んだ。近隣の裕福な家庭では小中学校から私立に行かせるケースが多いのだが、郷土意識の高い父はあえて公立にこだわり、香織は素直にその意に従った。
外国語大学を卒業後、外資系企業に就職し、天王洲のオフィスに勤務した。仕事にも慣れた二年後、本社があるシアトルへ異動の内示をもらった。研修を兼ねた期間限定の海外転勤だったが、両親は猛反対した。しかし、親元を離れ、一人暮らしの機会を自ら申告していた香織は、これに屈せず、単身アメリカに渡った。従順だった大事な一人娘が家を出て、しかも遠い異国に行ってしまったことに強いショックを受け、頑丈が取柄の父は数日間寝込んだという。母はすぐに、自分のやりたいことに邁進する娘の成長を喜び、子どもの親離れを内心では頼もしく思ってくれた。が、それでも父の心配と虚脱を察して、母からの国際電話やメールはほぼ毎日のようにあった。
あれから約一年半。仕事と休暇と祖母の七回忌がちょうど重なり、二週間余りの、初めての帰国となった。

家族やご近所、同級生などの歓迎攻めと仕事の処理などで、当初の昼食と夕食は友人や同僚と共にする日が続いた。早送りの映像のように慌しく多忙な数日が去り、ようやく休暇らしい落ち着いた時間を取り戻した香織は、母の手料理を味わい、実家で家族とのんびり過ごすことに専念した。
ある日は、弟のマウンテンバイクを借りて、市内をゆっくり散策した。
大きな空の下、開かれた視界の先に、おもちゃのような飛行機が離着陸する調布飛行場があった。飛田給のスタジアムでは、なでしこリーグの女子サッカーの試合が開催されていた。多摩川に出ると、河川敷の球場で少年野球の熱戦がくり広がられていた。サイクリングロードを下り、市のテニスコートがある堰の辺りからは、多摩丘陵の遊園地に立つ観覧車の奥に、うっすらと蒼い輪郭を描く富士山が見えた。街には新しいマンションや戸建てが増え、馴染みの店の入れ替わりもあったが、街の風景はほとんどそのままだった。
春になれば、多摩川住宅沿いの土手や野川の両岸に美しい桜が咲き、夏になれば、市民プールに子どもたちの歓声が響き、秋には高尾山の方角に大きな陽が落ちて、調布の空を夕焼けに染め、冬になると、雪やスキー板を載せた車両が中央高速道を行き交うのだろう。
些細な変化を探して嘆くよりも、変わらぬ大きなものを確認して安心したい。香織はそんな心境になって生まれ育った調布の街と接していた。それは、懐古や郷愁といった感傷ではなく、今の自分の土台を作ってくれた場所が、たった数年で脆弱に変容してほしくない敬愛のようなものといえる。

 帰国して一週間が経った日、伯母から電話があった。伯母は活発かつ豪快な自由人で、若かりし頃のかなりのお転婆ぶりには父も随分手を焼いたらしい。今は祖父から相続した調布ヶ丘の家に住み、空いている部屋を貸して悠々自適に暮らしている。その下宿に、最近、電気通信大学に通う一人のアメリカ人留学生が住み始めたそうだ。
 「深大寺に行きたいと言っているが、私はもう若い人と同じに歩けないし、英語で案内できないから、あなた、代わりに付き合ってあげてくれない」。そういう用件だった。香織のアメリカ行きで滝沢家が大騒動になった時、伯母は加勢し、熱心に後押ししてくれた。その恩義もあって断れない。
だが、香織にとって、深大寺は鬼門だった。幼稚園の遠足で神代植物公園に行った時、バラ園で蜂に刺され、頭が漫画のように腫れ上がった。小学生の時、水生植物園で遊んでいたら、誤って池に落ち、溺れそうになった。中学の時、バスケットボール部だった香織は深大寺に隣接する総合体育館で試合に出場し、対戦相手のロングパスを阻止しようとして、ボールを顔面で受け、そのまま真後ろに倒れ気を失った。最悪なのは高校の時だった。初めて同級生とデートを約束し、深大寺に行った。山門をくぐり、本堂や元三大師堂、深沙大王堂などを参拝し、門前を散歩した。ここまではいい感じだった。名物のお蕎麦を食べようと店に入り、蕎麦をたぐった時、悲劇は起きた。不吉な予感と初デートの緊張の余り、蕎麦を中途半端にすすって、むせてしまい、激しく咳き込んだら、蕎麦が一本、鼻から出てきてしまった。以来、香織は一切、深大寺およびその周辺には立ち入っていない。毎年、家族で初詣に行っていたが、それも拒絶した。「何が縁結びよ」。同時に、その日から香織は恋愛にも臆病になった。
 なのに、初対面の留学生を連れ、深大寺を案内しなければいけない。困った。憂鬱で体が岩のように重たくなった。
次の日。伯母は留学生とともに現れた。彼の名はパトリック。本人の発音が伯母には「ハットリ君」と聞こえるらしく、伯母はハットリ君と呼んでいた。パトリックは何度も訂正したそうだが、もう諦めたと言った。気さくで明るい大きな好青年だった。

「何も起こりませんように」と香織はひたすら祈った。
二人はまず野草園へ出発した。ここは中央道を挟んだ東南の深大寺自然広場にあり、小さい頃、蛍を観に行った公園だ。周辺は自然のままの鬱蒼とした湿地帯になっている。
深大寺へと続く急な坂を登り、中央道に架かる歩道橋を渡り、住宅地を抜け、三鷹通りに出て青渭神社に着いた。パトリックに参拝の方法を教え、深大寺の本堂の裏をめぐる路を歩き、神代植物公園を見学し、自由広場で休憩した。武蔵野の原生林が時空を超えて残り、大きな樹木の葉が幾重にも覆い真夏の陽光を遮っていた。時折、心地よい風が吹き抜けていく。蝉の鳴き声も元気だ。
少し汗が治まった頃、武蔵境通りの近くを迂回し、深沙の杜から深大寺へと向かった。深大寺は以前と変わらず賑わっていた。日本の自然・伝統文化・歴史に興味関心がいっぱいのパトリックは、道中、「素晴らしい!」を大袈裟に連発している。地元を褒められることが、あたかも自分が褒められているようで、うれしく誇らしかった。 
ただ難儀なのは、いろんな質問を浴びせられることだった。シアトルでも日本について、あれこれ聞かれるが、どれも基本的な話題で返答は容易かった。しかし、来日するほどの親日家であるハットリ君は知識も豊富で、そのうえでの質問だから、じつに手強く厄介だ。「深大寺と神代は同じ発音なのに、なぜ異なる漢字なのか」。「万霊塔とは何か」。等々。
英語が話せることと、話せる中身を持っていることは全然違う。語学ができても、話せる教養がなくては意味がない。忌み嫌っていた深大寺のことだとしても、自分の引き出しの空っぽさに香織は恥じ入った。
門前のお蕎麦屋さんで食事をした時も、パトリックの好奇心に充ちた質問は続いた。香織は答えに窮し、下を向いて黙った。その様子を見て、横の席の男性客がさりげなく間に入ってくれた。パトリックの知りたい疑問に的確に答え、それを英語でわかりやすく説明した。流暢な英語ではなかったが、内容は充実していた。三人の会話は弾んだ。
親切な男性の博識のおかげで、パトリックの深大寺ガイドは無事に終わった。帰り際、彼は香織に名刺を差し出し、自己紹介した。名前は渡部和哉とあった。深大寺の近くにある国立天文台で観測や研究の機器開発に携わる技術職員で調布駅に近い布田に住んでいるという。年齢は香織の1つ下。独身なので休日にはよく一人で深大寺近辺を訪ね、蕎麦を食べ歩いていると笑った。
 香織は胸の奥深くで発熱するのを感じた。パトリックに感じた友情のような親近感とはまったく別の微熱だった。
夏の朝、水面を出た蓮の花は、突然、ポッと音を立てて咲くという。
夜、滝沢家で夕食を囲み、パトリックは満足気に伯母と帰って行った。楽しく有意義に過ごした濃厚な一日だった。香織は、深大寺を見直し、愛着をもった。不運続きだったが、ほんとは元々好きだったのかもしれない。

香織がシアトルに戻る前々日、祖母の七回忌が行なわれた。集まった親戚は口々に香織の結婚を話題にした。笑顔でかわしつつも、そろそろ封印を解いてもいい時期かと香織は思い始めていた。翌日。その第一歩になるかもしれない電話を渡部にかけた。
恋愛は不思議な引力をもつ。どんなに遠くに離れていても、縁ある男女は運命の糸に操り寄せられ、いつか出会い結ばれる。

望月 吾妻(東京都調布市/53歳/男性/自営業)

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