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<第5回応募作品>「雪月花時最憶君」 著者: 渡邉 伸悟

深沙大王堂を通り過ぎてしばらく往くと、懐かしい山門が見えた。小さい頃によく遊んだなぁ。道路は舗装されて綺麗になっているし、以前はなかったお店もちらほらと見える。
「そりゃ、そうか。もう…八年も経つからな」
僕はポツリと呟き、立ち止まって時計を見た。午後八時五四分。約束の時間まであと五分と少し。上出来だ。五月にしては蒸し暑い夜、ふと目を向けると、山門は静かに佇んでいて、その静謐さはまるで、「落ち着きなさい」と僕に告げているようでもあった。そう、確かに僕は緊張している。何しろ八年ぶりなのだから。山門をくぐれば深大寺の本堂で、その隣には今も変わらず「なんじゃもんじゃの木」が雪のように白い花を咲かせているのだろう。そして、手紙に書かれたメッセージが僕の考えた通りなら、きっとあの木の下で、君が待っているはずだ。僕は、八年前のことをふいに思い出した。
 転勤族だった父の影響で、中学まで過ごした東京を離れることになった。行き先はイギリス。父や母は海外駐在を出世だと喜んでいたけれど、僕はちっとも嬉しくなかった。友達と離れ離れになるし、いきなり英語だなんて言われても、ピンとこない。それに、由香里のことだって…。
 由香里は、幼稚園からずっと一緒の、いわゆる幼馴染みってやつだ。家族ぐるみの付き合いで、どこに行くにも大抵一緒だったように思う。卒業を待たずに渡英すると言われた時、真っ先に考えたのが彼女のことだ。当時はそれが”恋”だなんて思いもよらなかった。だって、好き嫌いよりも近い距離間で僕らは時間を過ごしてきたから。クラスメイトの中には大人びた奴もいて、彼氏だ彼女だと騒いだり、年上の高校生と付き合ったりしていたけど、僕も由香里も、その点はすごく純粋で、恋愛を究極の約束事のように考えていた節がある。
「ねぇ、ヒトツバダコって知ってる?」
 渡英を目前に控えたある日、深大寺本堂の境内に座って二人で話していると、由香里が聞いてきた。
「ヒト…何?」
「ヒトツバダコ。ほら、そこの木」
言って指差した先には、僕らがなんじゃもんじゃの木と呼んでいる木があった。
「なんじゃもんじゃだろ?あれ」
「それはニックネーム。正式名称はヒトツバダコなの」
 なんだか馬鹿にされているみたいに感じた僕は少しムッとしながら返した。僕がもう海外に行くっていうのに、どうして木の話なんか。
「なんじゃもんじゃでいいじゃんか。ってか、それがどうしたんだよ」
 由香里は、微笑みながら繰り返した。
「今はまだ咲いてないけど、ヒトツバダコの花って、白くてまるで雪みたいだなーって思うことない?昔の人はね、すごく綺麗なものを、雪と月と花に例えて『雪月花時最憶君』、つまり、美しい物を見ている時に、遠くにいる君を思い出します、って歌に詠んだりしたんだよ」
 「…イギリスでも、月は見えるけどさ…」
 今思えば、僕はなんて馬鹿な返事をしたんだろうと思う。だけど、夕陽が差し込む境内で、少し大人びた話し方をする彼女を隣に見ながら、心の中にいつもと違った感情が芽生えて、それが僕を素直にさせなかった。由香里の笑顔が、すこし曇って、戸惑い、何かを決意した表情に変わった。
「…イギリスにも桜は咲くのかな、雪は、降るのかな。私には分からないけど、でも、もしも雪が降ったら、月が綺麗だったら、桜を見つけたら、啓は、私の事思い出してくれる?」
 心臓が弾け飛びそうな感覚だった。そして、その瞬間、僕は二つのこと知った。由香里が僕を好きだということ。そして、僕も由香里を好きだということ。
「…なぁ、深大寺ってさ、縁結びの寺だって知ってた?」
 僕は、出来る限り平静を装って話しかけた。
「知ってるよ。深沙大王の話でしょ?」
「由香里は本当なんでも知ってるよな。あれはさ、小島に隔離された恋人を、彼氏が亀に乗って迎えに行くって話じゃん?」
「うん」
「俺はたぶん亀には乗ってこないと思うけど、大学を卒業したらさ、あー…」
「何?」
「卒業したらさ、迎えに来るよ。だからさ、約束しよう。大学を卒業した年に、このなんじゃもんじゃの木の下で会おうって」
「…私ね、啓がいつも羨ましかったの」
 突然話が変わって僕は少し困惑した。今、精一杯の勇気を振り絞っているのに。
「え?」
「だって、啓は五月生まれじゃない?…ヒトツバダコはね、五月に満開になるんだよ。だから、約束して。雪の花を咲かせるこの木の下で、啓の誕生日の夜に、私を迎えに来て」
「…あ、あぁ。そっか。いつ会うか決めてなかったら会えないもんな。そうだよな」
「そうだよ。もう、いつも啓は抜けてるよね。そういうとこ」
そう言った由香里は、いつもの彼女だった。
それから一週間後、僕たち家族は、イギリスへ向かって旅立った。
 イギリスでの生活は単調に過ぎていった。海外生活と言っても、駐在員とその周辺なんてミニジャパンみたいなもので、僕も学校に通いながら、同じような境遇の他の日本人たちと英語の勉強に励んだ。渡英から四年が経ち、両親は帰国したが、僕は進学していたから、一人で残ることにした。
 大学生活は特に刺激のあるものではなかった。コースはどうにもならないほどではなかったし、他の学生のように、毎週末にクラブで踊って、一晩限りの相手を見つけたりするほど人生の刺激に飢えているわけでもなかった。何より、イギリスに来てからというもの、日本にいる時よりも鮮明に、僕は由香里を、その約束を心の中に温めておくことに時間を費やすようになった。
「お前、中学生の時の恋愛なんてガキの遊びだろ?相手も忘れてるよ」
「ユングだかフロイトだかは、真面目すぎて結婚してから遊び始めたらしいぜ。過去の恋愛に囚われんなよ。出エジプトだって!」
多くの友人は、そう僕に言った。勿論、彼女が出来なかったわけじゃない。でも、心の大部分を埋め尽くしていたのは、その相手ではなく相手に重ねた彼女だった。唯一心待ちにしていた彼女からの手紙も、他の女性と関係を持ってしまった罪悪感にさいなまれて返信できなくなり、一人暮らしを始めてから2年と少しで途切れた。
 大学も終わりに近づいたある日、フラットに一通の手紙が届いた。差出人も宛先も書いてなかったけれど、その手紙はなぜか僕の心をかき乱した。封を開けると、中には紙が一
枚だけ入っていた。
『雪月花時最憶君』
たった一行、そう書かれた手紙は、僕に八年前の深大寺を思い出させた。君はまだ、憶えていてくれたのか。もうずっと昔に忘れられたとばかり思っていたのに。イギリスにも桜は咲いたし、雪も降った。夏の月はとても明るくて綺麗だった。五月に君に逢いに行こう。きっと君は、そこにいる。
 …野良犬が吠えて、僕は我に返った。どのくらいこうしていたのだろう。時計を見ると、午後九時を五分過ぎたところだった。まずい、遅刻だ。高鳴る胸を抑えるように、僕は山門をくぐり、本堂を正面に見ながら、ゆっくりと歩いた。今更ながら、何を君と話せばいいのだろうか、と思う。
 なんじゃもんじゃの木は、その枝が広がる範囲いっぱいに、雪を降らせていた。本当に雪みたいだな、と月並みなことを考えながら、僕は君の姿を探した。果たして、君はそこにいた。白いワンピースに薄水色のカーデガンを羽織り、景色に溶けそうなくらい儚く佇んで、じっと僕を見つめていた。
 八年ぶりの再会は、しばらくの間、静寂に包まれていた。お互い言うべき言葉を見つけられず、中途半端な距離感のまま立ち尽くしていた。
「五分遅刻。相変わらずだね、啓のそういうとこ」
 最初に沈黙を破ったのは彼女だった。
「あ…、ご、ごめん。でもそれを最初に言うことないだろ、八年ぶりの再会だぜ?」
「うん。そうだね。でも、なんだか嬉しくって。あの時と、何も変わってないみたいで」
「そうかな。変わっただろ、俺たち。少しはさ」
「そうかな。私は、啓って全然変わってないと思うよ。背が伸びたくらいじゃない?」
「うるせえな。由香里こそ…」
 と、慌てて後に続く言葉を呑みこんだ。「綺麗になった」なんて、恥ずかしくて言えやしない。
「何よ?」
「なんでもねーよ」
「ふーん。ま、いいや。でも…」
 由香里が一瞬黙った。そして、あの時の、戸惑いと決意の表情をまた見せる
「来てくれて嬉しかった。憶えててくれたんだね」
「忘れるわけないだろ。俺が約束したんだぜ、迎えに来るって」
 言ってから、なんてことを口にしたんだと後悔したけど、もう遅かった。
「うん…。約束したもんね。ありがとね」
その時、微笑んだ彼女の、大人びた笑顔を彩るように、風がそっと、雪の花を散らした…。

渡邉 伸悟(福岡県北九州市/25歳/男性/大学院生)

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