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<第5回応募作品>「白雪」 著者: 大谷 朝子

 わたし達は別れる。たぶん、今日を最後に。
 二月の終わり、深大寺にはぼたん雪がちらついていた。うっすらと雪が積もり、山門の屋根は白く染まっている。歩を進める度に足跡が水っぽく残って、雪を踏みしめる感覚がする。
 ざくざくと響く足音は二つ。わたしの少し前でひろ君が白い地面に足跡を残している。マフラーに埋めた顔の、鼻の頭がうっすらと赤い。
 門をくぐると、道の脇に並ぶ葉を落とした木々が雪を纏っていた。色の少ない冬枯れの木は初夏に溢れる緑とは違う趣がある。周りを眺めながらゆっくり歩いていると、道の少し先でひろ君がこちらを振り返って立ち止まっていた。わたしは慌ててひろ君の元へ駆け寄る。
 ひろ君はわたしを見て、小さく口を開きかけたけれど、何も言わなかった。そしてまたすぐ、わたしに背を向けて歩き始める。わたしは、なんとなく、隣を歩くことも、遅くてごめんと声をかけることも、できなかった。

 きっかけは、青いテスト用紙だった。高一の期末テストの日に、わたしは筆箱を忘れてしまった。その時席が隣だったひろ君が、二つ持っているからと、シャーペンと消しゴムを貸してくれたのだ。でもテストが終わった時にちらっと見たら、ひろ君の答案は真っ青だった。本当は消しゴムもシャーペンも一つしかなくて、ひろ君は青いボールペンで答えを書いたのだ。わたしはその時、青いテスト用紙に、恋をしてしまった。
 ひろ君に告白されたのは、高二の初夏のことだ。公園のベンチでとりとめのない話をしながら、ひろ君が切り出すのを、わたしは二時間も待った。遠くで遊んでいた子供の、水色のワンピースをわたしは今でも覚えている。
 新緑が青々と茂る深大寺は、付き合って初めて二人で行ったところだ。まだ恥ずかしくて、距離を置いたままぽつりぽつりと言葉を交わすだけだった。わたし達は手をつなぐのに二ヶ月もかかったのだ。でも、二人でいることが嬉しくてたまらなかった。
 あの時の距離と、今、わたし達を隔てる距離は途方もなく違う。わたしはひろ君の背中を追いながらぼんやり思った。ひとひら、ふたひら、舞い落ちるぼたん雪は音もなく積もっていく。
 
 「茜」 
 わたしの名前を呼ぶ、ひろ君の声が好きだ。だから、ひろ君が戻ってきたことに気付かないふりをして、名前を呼ばれるのを待った。
 「これ、お茶」
 ひろ君はわたしにペットボトルの熱いお茶を手渡した。手袋の中からでも熱が伝わってくる。
 「ありがとう」
わたしは笑って言ったけれど、ひろ君はすぐに目を逸らした。また何か言おうとしてやめる。白い吐息が微かに漏れた。
 「あの、鐘みたいのなんだろうね」
 わたしは屋根の下にある大きな鐘を指差して言った。
 「さあ。鐘じゃない」
 ひろ君はそっけなく返す。二人してしばらく鐘みたいなものを眺めていたけれど、今度はわたしがすたすたと歩き出した。ひろ君は隣には並ばず、少し後からついてくる。
 微妙な距離を保ったまま、無言で歩き続けていたら、「別に」という、ひろ君のそっけない言葉を、ふと思い出した。クラスメートの男子に、わたしの事を好きなんだろう茶化されて、ひろ君は「別に」と言ったそうだ。
 ごめん。おれ、浪人するから、別れようか。夜の公園でそう言われたとき、わたしは頭が真っ白になった。ごめん、会えなくなるし、茜は別れた方がいいよね。しんと静かな闇の中で白い吐息が揺れていた。真っ白な頭に浮かんだのは、青いテスト用紙でも、水色のワンピースでも、初夏の緑溢れる深大寺でもなく、「別に」という色のない言葉だった。その言葉が照れ隠しだということくらい、わかっていたのに、わたしは思わず頷いてしまったのだ。
 最後のデートの場所に、ひろ君は深大寺を選んだ。初めてのデートと同じ場所を。その意図がわたしにはわからないけれど、だからわたしは今こうして深大寺に来ている。それで、わたし達は別れる。たぶん、今日を最後に。
 わたしは先ほどのひろ君と同じように何も言わずすたすたと歩いた。雪を踏みしめる感覚が少し心地いい。
 「茜」
 ふいに名前を呼ばれ、わたしは少し驚いて振り返った。ひろ君が真っ直ぐにわたしを見ている。
 「どこ行くの?本堂、こっちだよ」
 ひろ君は少し笑いながら、目の前の大きな建物を指差した。わたしの足跡は本堂とは別の場所へ向かおうとしている。
 「あ、ごめん」
 わたしが俯いて言うと、ひろ君はわたしの隣に並んだ。そして小さな声で、行こう、とわたしを促した。
 わたし達は屋根のあるところまで、雪の薄く積もった階段をのぼる。息が白く染まって、音もなく消えた。階段をのぼりきると、それぞれ傘を閉じる。溶けた雪がぽたぽたと傘から滴り落ちた。
 「寒いね」
 なんとなくわたしが言うと、ひろ君は頷き、顔を埋めていたマフラーをほどき始めた。
 「マフラー、巻きなよ」
 そしてマフラーをわたしの首元に巻こうとする。毛糸のふわりとやわらかい感触がした。
 「いいよ、大丈夫」
 わたしが慌てて言っても、ひろ君は聞かない。わざわざ手袋を取って、丁寧にマフラーをぐるぐると巻いてくれる。ひろ君の鼻は真っ赤で、手も微かに震えていた。ふいに、骨ばって男らしいひろ君の手が一瞬、頬に触れた。
 手をつなぎたい。わたしは、自分でも驚くほど強く、そう思った。ひろ君の手に触れたい。どうしても触れたい。押さえ込んで蓋をしていた感情がどっと溢れ出す。
 わたし、ひろ君と、別れたくない。
 「できた」と、ひろ君は微笑みながら、マフラーから手を離す。かじかんで少し赤くなった手が視界の端で見える。マフラーの巻かれたわたしの首元は、泣きたいくらい暖かかった。しんしんと雪が降り続けている。
 「お参りしよう」
 ひろ君はそう言って、段差を一段上がった。わたしもひろ君の後に続く。財布を開けて、小銭を取り出した。勢いよく投げると、賽銭箱の奥へと滑り落ちていった。
 お参りと言っても何を願えばいいんだろう。
願うことなんかひとつしかないのに、もうひろ君の隣にはいられないんだ。
 それでも、わたし達は隣り合って手を合わせた。目を瞑ると、余計にひろ君が隣にいる気配を強く感じる。
 「おれ、よくここ来るんだ」
 ふいにひろ君が言った。わたしは小さく相槌を打つ。そうなんだ。
 「深大寺って、縁結びの伝説があるんだよ。だから、茜に告白する前とかお参りしたし、付き合えた時も、上手くいきますようにって、茜をここに連れて来たんだ」
 ひろ君は一息にそう言った。
 「だから今日も、ここに来れば上手くいくかなって」
 そこで言葉を切った。真剣な瞳が真っ直ぐにわたしを見ている。
 「おれ、別れようなんて言ったけど、その方が茜の為になるかと思ったけど」
 ひろ君の言葉をかみ締めようとすると心臓が驚くくらい早鐘を打つ。
 「やっぱり、おれ、続けたい」
 鼻の奥がつんと痛くなって、涙が浮かぶのを感じる。そうだ、そうだった。ひろ君はいつも、大事なことをするのに時間がかかるんだ。そしてわたしはいつも、受身ばかりで、本当のことを言えずにいる。
 「ひろ君」
 わたしはひとつ息を吸った。声が少し震えてしまうのがわかる。そうして、一息で言った。
 「わたし、ひろ君が好き。わたしもひろ君と、別れたくない」
 ひろ君ははじかれたようにわたしを見た。信じられない、というような顔をして、すぐに安堵の表情が顔中に広がった。ため息を大きく吐くと、白く染まって広がった。
 「よかった」
 小さく呟いたひろ君の手を、わたしは握った。ひろ君の手はやっぱり冷たくて、少し乾燥している。わたしよりも大きい手のひらを暖めてあげるために両手で包み込むようにした。ひろ君は何も言わずにそうするわたしの顔をじっと見ている。
 やがてわたしはひろ君の手を引いた。
 「行こう」
 わたし達は本堂の階段を手をつないだまま降りた。そこから見える景色は雪で白く染まっていて、ところどころに木々の茶や傘の色が見える。わたしはその景色を、一生忘れないだろうと思った。色が少ない寂しい景色で、なんだか寒々しくて、でも、驚くくらい、きれいだった。

大谷 朝子(千葉県浦安市/19歳/女性/学生)

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