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<第5回応募作品>「一年後の舟」 著者: 時乃 真帆

 台所が彼女の担当。僕はリビングの六畳間の床に雑巾がけをする。家具を除けた跡が濃い茶色に残っている。雨は降ってはいないが、まだ明けない梅雨のどっぷり重たい湿気に僕は汗を吹きだす。
「ねえ」と彼女の声がする。
 すぐに「うん」とは答えられず、そのまま彼女の言葉が続くのを僕は待つ。
「お米買っておくの忘れた」
「いいよ、明日行くから」
「ごめん。玄米のね五分突きって頼むんだよ」
「いなくなったら白いご飯にするさ」
「――そうか。そうだよね」
 うん、そうだよ。いいだろ、そうしたって。
今日、彼女は十年一緒に暮らしたこの部屋を出て行く。

 チャイムの音に彼女がリビングに顔を出す。
私が出るのは変だからと大真面目に訴える。
チャイムの途切れ目に、僕ははい、と答えた。
――隣に引っ越してきた者です。つまんないものですが、と三十歳見当の男が置いていったのはミニタオルの包みだった。へええ、と二人して覗き込む。なるほどね、そうだよねと二人揃って頷くのが可笑しい。
「あの時もこうすれば良かったんだよねえ」

 十年前、僕らがこの2Kのアパートで一緒に暮らすことになった時、引越しの挨拶に蕎麦を選んだ。折角地元の名物なんだし、と言う僕に、地元のものなんて皆食べ飽きてるんじゃない? と言い張る彼女。でも僕は地元だからこそ逆に盲点なのだよ、と訳の分からぬ理屈で言いくるめ、わざわざ二人して深大寺の蕎麦を買いに行ったのだ。僕らの部屋の左右上下と管理人の分、合わせて五世帯分の蕎麦。ただ計算違いは都会の住民は訪ねて良い時間には留守のことがほとんどで。結局のところ管理人だけが「これはご丁寧に」と受け取り、残りは賞味期限と競争すべく、僕らの腹に片付けた。

 彼女の分の荷物を運び出した部屋は、変に風通しが良く、落ち着かない感じがする。
「じゃあ、行くね」
 小さな旅行鞄とバッグを手に彼女が玄関に立つ。キーホルダーからこの部屋の鍵を外す。
その同じキーホルダーにこの間から新しい電子錠が取り付けられたのを僕は知っている。これから彼女が暮らす、きっともっと広い部屋のオートロックのマンションの鍵。

 調布行きのバスを一緒に待っていた僕は、出来るだけ軽く聞こえるように彼女を誘った。
「引越し蕎麦、最後に奢る」
 ええ? と彼女が笑ってくれたのを見逃さず、旅行鞄をするりと持つ。反対側のバス停に深大寺行きのバスがもうそこに迫っている。
「行こう、奢るから」
 僕は道の向こうへと急ぎ渡った。
 平日の深大寺はぽかりと時の穴に落ちたかのように、人気がなかった。そう言えば蕎麦のことばかりが頭にあって、一度も本堂に足を向けてなかったと二人して山門をくぐる。横で手を合わせる彼女を盗み見る。何を祈っているのか、穏やかな静かな横顔。これからの彼との生活? 僕との平和な清算への感謝? 意地悪な言葉が次から次へあふれ出る。
――彼女に罰があたりますように。
――あの男は実はふたまた男で暴力野郎でマザコンでギャンブル好きでキャバクラ通いが大好きでそれからそれから――。
「ね、なにをあんなに熱心に祈ってたの?」
彼女に問われ、僕は本当のことが咽喉まで出かかり慌てて飲み込む。
「この間の文学賞のこと?」
 途端に高揚した気分が萎える。ズボンのポケットに突っ込まれているのは、家を出る時覗いたポストから引っ張り出した薄い封筒。中堅の出版社が主催する文学賞の名前がプリントされていた。審査結果在中とあった。

 半年前、彼女のすべてが薄いゼラチンの膜で覆われた。近くにいるのに実体がない。言葉を交わしているのにぼんやり遠い。いつもの笑顔、いつもの会話、いつもの二人の風景。なのにいつの間にか隣に座る他人になっていた。元々僕らの生活はすれ違っていた。出版社の総務部に勤める彼女と小説書き志望の僕。六年前、僕の勤務する文具の卸メーカーが業務縮小になったのをきっかけに、小説家志望者がするにふさわしい生活に入った。つまり家事のほとんどを僕が担当し、彼女が帰る頃に二十四時間スーパーの深夜レジのバイトに入る。その後、早朝のオフィス清掃を終えて彼女が起きだす時間に帰る。彼女と共に軽い朝食を食べて彼女の出勤を見送り、短くも深い睡眠を取ったのち執筆。もしくは取材と称した散歩。このところ散歩の時間が圧倒的に多くなっていたけれど。だけどゼラチン越しの彼女になってから、僕の指は猛烈にパソコンのキーボードの上を動いた。
 彼女ガ離レテイク。
 暗い予感が僕に張り付いて離れない。それを忘れる為、僕は画面の上に僕らが出会ったなにもかもがいい加減な希望と、意味もない優越感に溢れたあの季節のことを書き連ね埋め尽くした。
 ほらこんなにも僕らは輝いていたのだから。

 けれど。どうやっても。
 僕らの季節は別れの章だけが残されていて。
「完」の文字を打ったその原稿を、僕はもう見るのも嫌になり、そして彼女に見られるのも怖かった。画面からデータを消し去り、プリントアウトした原稿の束は、間近に迫っていた中堅出版社の文芸賞の宛名を殴り書きにした封筒に突っ込んだ。あくまで彼女の目からのカモフラージュのつもりだった。けれど。
早朝オフィス清掃の帰り道、少しでもアパートへの戻りを遅らせたくて、遠回りした大きな街の、昼も夜も灯りのついた大きな郵便局で僕はようやく目の前から原稿を消すことに成功した。

 彼女が僕の手を取った。余りにも懐かしい温かい感触に僕はびく、となる。彼女は気づかない振りをして続ける。
「ほら、ここ、それから、ここも」
 本堂よりもなお古い大師堂に座る木彫りの像に僕の手を這わせる。像が黒ずんでいるのは、病んだ信者が平癒を祈って同じ部位をさするためだ。
「腱鞘炎だって言ってたでしょ? それと腰も、ああ、それから目。最近変だって」
 小柄な元三大師の像に、僕の手を這わせる彼女。数え上げる僕の不調は大師の体全部と言ってもいいくらいだ。
「百円のお賽銭ぐらいで欲張りだよ」
 それもそうね、とようやく彼女は僕の手を離す。僕は軽くなってしまった右手で大師像の一箇所をゆっくりと押さえる。
――ここさえ治してくれたらいいんです。
大師の左の胸に僕は祈った。
 
 蕎麦屋の入り口には大きな笹が立てられていた。脇に置かれた床机に短冊とマジックペン。忘れてた今日は七夕祭りか。
「どうぞ、お願い事書いてくださいな」
 絣の上下を着た女性が声をかける。揃いの衣装がこの店のユニフォームらしい。
断るのも大人げないとそれぞれにペンを持つ。なんて書こう。彼女を見やると眉間に皺をよせて短冊を睨んでいる。真剣になった時の彼女の癖だ。すう、とひと息吸い込むと彼女のペンが走る。これからの幸せでも祈るのか、そりゃあそうだろう。僕はすっかり書く気が失せ、彼女が書き終えるのを離れて待つ。
「見ないでよ」
 店員が紐で引き下げてくれた笹の、一番高い枝を選んで彼女は短冊を結びつけた。手を離すと笹はほどかれたように天を目指す。小さく手を合わせる彼女から僕は目を逸らした。

 席についた彼女に、何でも好きなものを頼めよ引越し祝いだと言い置き、僕はもう一度店先に戻る。ポケットから審査結果を知らせる薄い封筒を取り出し、紐に結わえ付ける。不思議そうに見ていた店員に頼み、もう一度笹を低くたわませてもらう。どうせまた落選だ。こんなもの持っていても仕方がない。せめて空に近い枝に結ぼうと欲を張る。彼女が先ほど結んだ短冊が目に入る。
――彼の作品が認められますように。
 馬鹿じゃないのか。
 なんだよな、こんな事書くなよな。
 ふいに泣き出した僕を気味悪く思ったのか、店員がひっそりと離れていくのが分かった。僕は薄っぺらな僕の短冊をも一度見る。これを引越し祝いの笑い話にしよう。ほらな、やっぱり駄目だったよ。そうしたら今度こそあいつは安心して愛想をつかすだろう。僕は封筒を開いた。

「やっぱり引越し蕎麦はやめた」
僕は売店で買い求めた土産の蕎麦の包みを彼女の腕に押し付ける。
「二人で食べてよ。その方がいいよ」
「でも」
「もともとそうするつもりだったんだから」
 渋る彼女を乗せたタクシーを見送ると今来た道へと踵を返す。やり直しだ。もう一度笹の天に僕の短冊を結びつけるのだ。
――審査員奨励賞、だとさ。
 これってなんなんだよ。もう少しやってみればって、期間延長のお許しか。まあいいさ、どっちみちここまでやってきたんだ。あと一年、来年の七夕まで、彼女の願い事をせめて叶えられるかどうか。やってみるのも多分悪くない。と、ポツリ雨が来た。

時乃 真帆(東京都大田区/45歳/女性)

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