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「偽物の月」著者:伊東葎花

「杏奈はどこに行きたい?」って聞くから、すかさず「深大寺」って答えた。悟志の瞳が揺れた。目が泳ぐって、こういうことなんだね。
「ネットで見たんだ。お店もいっぱいあってね、人気らしいよ。行ったことある?」
「ないよ」
 嘘つきだな。さっきから目の中で、行き場を失った黒い魚がユラユラしてるよ。
 事故で頭と腕を怪我した悟志は、しばらく外出を控えていた。だから会うのは久しぶり。私が深大寺を選んだ本当の理由を、悟志は知らない。それはね、月子の写真を見たからだよ。深大寺の石段で、月子と悟志が仲良く並んでいる写真。服装から察するに、あれは春だな。地味な服が好きな月子にしては珍しく、ペパーミント色のスカーフなんか巻いていた。たぶん桜が満開で、はらはらと舞う花びらに「きれいね」なんて優しい顔で微笑んだりしたんだろうね。自撮りじゃないから、通りがかりの人に撮ってもらったんだろう。この写真を撮った人は、きっと思ったはず。「美男美女でお似合いのカップルですね」って。だけどね、月子。悟志の恋人は私なんだよ。深大寺を並んで歩くのは、私なんだよ。お似合いかどうかを決めるのは、他人じゃないよ。
 悟志は、あの事故以来すっかり無口になった。無理もない。頭を何針も縫ったんだもん。想像しただけでぞっとしちゃう。すっかり元通りに生え揃った髪の下には、目を背けちゃうような傷があるんだろうね。事故の話には、あえて触れない。電車に並んで座っても、何も知らないふりではしゃいで見せた。久しぶりのデートを楽しむ女の子を演じてみせた。いくらか空気がひんやりした十月の車内に、柔らかな陽射しが差し込む。悟志の後頭部が、白っぽく歪んだ。
 駅から深大寺まで、歩くのがしんどそうだったのでタクシーを使った。
「ごめん杏奈。歩きたかったよね。 お店とか見たかったかな」
 悟志がすまなそうに言う。月子とは歩いたのかな、なんて余計なことをまた考える。
「別にいいよ。タクシーの方が楽だし。もっと元気になったら、また来ようよ」
「また」があったらね。
「紅葉はもう少し先ですね。でも一年中楽しめるから、深大寺は」「へえ、お勧めのお蕎麦屋さんありますか」なんて運転手と会話をしている間、悟志はずっと窓を流れる景色を見ていた。まるで興味がないように。心がどこか違う世界に運ばれてしまったように。
 深大寺に着いた。想像以上に人が多い。お寺なんて興味がなかったけど、こうして来てみると、神様や、ご利益なんていう言葉が自然と浮かぶ。日本人って調子がいいな。 
「深大寺ってすごく古いらしいよ。奈良時代に建てられたってネットに書いてあった」
「杏奈の情報は全部ネットだな」
「だってスマホが唯一の友達だもん」
 悟志が乾いた笑いを放った。一年前だったら、「寂しいヤツ」とか言って、頭を軽くポンポンしたのにね。
「悟志君、ここで写真を撮ろうよ」
 私が山門の石段を指さすと、悟志の瞳がまた揺れた。月子と同じ場所で、同じように並んで、通りかかった誰かにお願いして写真を撮ってもらう。今日の目的は、これなんだよ。
「すみません」と親切そうな女の人を選んで声をかけた。
「後ろの門と、深大寺って書いてある石を入れてください」
 細かく注文したのは、月子の写真と同じにしたかったから。悟志は、よく表情が読み取れない笑顔で私の隣に立った。肩が触れ合って、やけに緊張した。もう三年目なのに、初めてのデートのときみたいに、悟志の気持ちを探っていた。
 石段を上ると少し汗ばんだ。十月の気温は微妙だ。悟志の足腰はすっかり弱って、荒い息を吐きながら木陰を見つけてひと休みした。木々はまだ青く茂っていて、空がやけに遠く感じた。秋の空は、なぜかいつも運動会を思い出させる。ピストルの音にビビッて、いつもビリだった月子と、フライングばっかりしていた私。性格真逆なのに、唯一無二の親友だった。私たちは、双子みたいにいつも一緒にいた。あの頃の私は、月子のすべてを知っていた。いや、知っていると思っていただけかもしれないね。
少し休んだあと本堂に行って、列に並んでお参りをした。悟志の横顔をチラ見したら、目を閉じて深刻な顔をしていた。
「何を願ったの?」
「ああ、うん。仕事のこととか……」
 違うでしょ。悟志と私の願いはきっと同じ、いや、同じじゃないとだめなんだ。
「お蕎麦食べよう。美味しいお店がいっぱいあるんだって」
「それもネット情報?」
 小馬鹿にしたように、悟志が笑った。「そうだよ」って笑い返したけど、本当は違う。月子のスマホに入っていた写真の中に、蕎麦の写真もあったから。どこの店かまではわからないけど、同じ日に、この近くで蕎麦を食べた。だから私も同じことをする。
タクシーの運転手が教えてくれた蕎麦屋で向かい合って座った。無言で蕎麦をすする悟志に、「月子って食べるの遅いでしょう」なんて言ったら、尋常じゃないくらい動揺するんだろうな。むせて咳込んで、過呼吸で倒れるかも。だから今は言わないよ。
 帰りは駅までゆっくり歩いた。元気なお年寄りに追い越されながら、手をつないで歩いた。年を取った二人の未来は、残念だけどもう想像できない。長袖で隠された悟志の左腕には、消えない傷がある。シャツの上から、そっと指を這わせてみた。
「まだ痛む?」
「いや、もう平気」
 痛むのは腕でも頭でもなく、きっと心だね。それはね、一生消えないと、私は思うよ。
 新宿は暮れかかっていた。十月の日暮れは早くて、まだ五時前なのにうっすらと暗い。
「どうする? 軽く飲む?」
 本当は帰りたいくせに、気を遣って悟志が言った。チラチラとネオンが輝きだした街。一年前の私だったらすぐに同意したけれど、今は違う。
「ごめんね。今から地元に帰るんだ」
「地元? 地元ってどこだっけ?」
「茨城のT市。そんなに遠くないよ。一時間もあれば着くから。友達がね、事故に遭って入院してるんだ。面会七時までだから」
 悟志の瞳が、大荒れの海みたいに揺れた。まさか私の口からT市の名前が出てくるなんて思っていなかったんだろうね。お互い、実家の話とかしなかったから。悟志の中で、「T市」「友達」「事故」「入院」の言葉が、パズルみたいに嵌っていって、崩れそうな体を駅の壁に押し付けて、ようやく立っているみたいに見えた。
「月子は、私の友達なんだ」
 ようやく言えた。言ってやった。私はくるりと背を向けて、JRの改札を潜り抜けた。

 悟志が交通事故を起こしたのと同じ頃、月子も事故で意識不明という連絡を受けた。まさか二人が同じ車に乗っていたなんて、思いもしなかった。月子は意識が戻らないまま地元の病院に移されたと聞いて、見舞いに行った。
「月子ね、東京で男の人と会っていたみたいなの。SNSで知り合ったらしいの。その人と一緒に事故に遭ったのよ。杏奈ちゃん、知ってた?」
 おばさんに、その人の名前を聞いて愕然とした。知ってるどころじゃない。私の彼氏だよ。月子とは、地元に帰るたびに会って色んな話をした。もちろん悟志の話も。写真も見せた。カッコいいねって言ってた。私の彼氏だから興味を持ったの? それとも本当に偶然、SNSで出会ったの? おばさんに月子のスマホを借りて見た。ロックもかけてない無防備なスマホの中に、あの写真を見つけた私の気持ち、想像できる?
 ねえ月子、私今日、悟志と深大寺に行ったよ。月子と同じように石段で写真を撮って、お参りして蕎麦を食べたよ。悟志はちょっと女にだらしないところがあるけど、私の友達に手を出すような人じゃない。だからね、月子の裏切りが許せない。許せないけど、私は神に祈った。月子が目を覚ますように祈ったよ。
 ねえ月子、目が覚めたらケンカしよう。罵り合って、泥沼みたいなケンカをしようよ。
 私の涙が、動かない月子の白い指を濡らす。すっかり暗くなった空に、偽物みたいな月が浮かんでいた。

伊東葎花(茨城県稲敷郡/女性)