*

「ビビッド」著者:たてがきるか

 彼女は濃いオレンジ色のワンピースで、僕の目の前に現れた。
 深大寺の萱葺屋根の山門の下に立ちすくむ僕に、記憶より遥かに背が伸び髪も長くなった彼女が微笑みかけてくる。
「再会は、ここって決めてたの」
 冬の凍てつく空気を切り裂くように溌溂とした声が、僕を痺れさせる。
「また新しい『初めて』を経験した?何事も新鮮な感動に勝るものはないものね」
 彼女は当たり前のように僕の右手を引き、山門を潜り抜けた。

 僕と琳が出逢ったのは、中二の四月だった。僕は調布の中学校に転校してきて、最初に隣の席だった琳と仲良くなった。僕は根っからの理系で、琳は文系だった。テスト勉強を教え合ったりだとか、お互い興味はあるけれど理解できない話、たとえば僕は宇宙の構造を、琳は短歌のすばらしさを、休み時間にひたすら語り合って過ごした。
 七月十六日、海の日。中二の夏休みという、青春真っ盛りな季節を目前にした僕らは、深大寺の鬼燈まつりに来ていた。私服で一緒に居るのは、その日が初めてだった。
「鬼燈って、漢字でこう書くんだ」
「そう、小さな提灯みたいでしょ。お盆には、死者の霊を導くための目印の灯りとして飾られたりするのよ」
 山門からアーチ状にたくさんの鬼燈が吊り下げられていた。深大寺は来場者でにぎわっていて、僕は、自分がいわゆる『デート』をしているところを見られるのが少し恥ずかしかった。
 琳は吸い込まれるような足取りで、絵馬所へ向かっていく。
「絵馬とか、七夕の短冊とかって、すごく強い気配がしない?」
「気配?」
 琳の言ってる意味が、僕にはわからなかった。下げられた絵馬たちには、思い思いの願いが掲げられている。
「人の感情が宿されている物とか場所に、不思議な気配を感じるの。手作りの物やリサイクル品、あと廃墟とかも。上手く説明できないけど、そういうものに触れたり眺めたりすると、胸の奥の方がふわっとなるの。ま、理系の旗野くんにはわからないか」
 琳はそう言ってにやりと笑った。僕は絵馬に触れてみる。理系で非科学的なことが苦手な僕を、琳はたまにバカにする。でもそんなこと関係なく、僕にはさっぱり感じられない。
「絵馬には人の想いが込められてるから?」
「うん。切実な感情の集合体ね」
 その言葉を聞いたとき、大きなシダレカツラの木から下がる茂った葉っぱが、琳の上半身を隠していた。僕はなぜだか、とても不安になった。
 そのあと、鐘楼のそばに建てられた簡易テントの中で、おじいさんが手相占いをやっていたので、僕らは手相を見てもらった。僕は占いなんて信じないけれど、琳はとても嬉しそうだった。
「ほほう。お嬢ちゃん、めずらしい手相をお持ちだね」
 両手を出した琳がおじいさんに言われ、僕はその手のひらを覗き込む。
「左手の親指の第一関節、目のような形にしわがあるだろう。これは仏眼と言ってね、先天的に霊感が強くて、予感や第六感の力に優れてるんだ」
 僕と琳は顔を見合わせた。
「これだけでもすごいのに、お嬢ちゃんは右手の親指の第一関節にも、左手の親指の付け根にも仏眼がある。左手に二つある場合はさらにその力が強くはっきりとしているし、右手は後天的、つまり生きている中で自ら身につけた第六感も持っているんだね」
 琳の言う『気配を感じる能力』は、そもそも僕にはない特殊なものみたいだ。
普段から何かと、存在そのものに儚く淡い不思議なオーラを纏っている女の子だった。
僕は純粋に、これからも琳を守りたいと思った。十四歳ながらに、確かに思った。
 帰り際にもらった鬼燈の飾りを揺らしながら、二人で野川のほとりを並んで歩いた。
「初デート、楽しかったね」
「うん。楽しかった」
 僕は今日の思い出を反芻していた。琳の手のしわや、弾んだ声を忘れたくなかった。
「私は他人の残した感情がわかるけど、他にもそういう感覚のある人がこれから深大寺に来たら、たぶんびっくりすると思う」
 琳は自分の顔の前で鬼燈をゆらゆらと振る。
「どういう意味?」
「私も、あそこに深く感情を焼き付けたと思うから。楽しくて、好きだなって気持ちを」
 琳は言ってから、小走りで数歩僕から離れた。そしてピタと立ち止まり振り返る。
「旗野くん。私ね、遠くに引っ越すの」
 琳。たぶん、僕のこの千切れそうな切なさの方が、あの場所に強く刻まれていくよ。今日の分だけじゃなく、これから先の年月の分もずっと。
 その夏、僕は琳を待つことを誓った。記憶に染み込んだ、揺れる鮮烈なオレンジ色と。

「いつ、戻ってきたの」
 右手には彼女の手の感触がある。冷たくて細い指。信じがたい現実だ。
「1週間前よ。成人式にちょっと顔を出したら中学の子たちがいて、旗野くんの連絡先を聞いたの。風邪ひいてたんでしょ?」
 年が明け、平成も残すところあと四カ月となった一月、僕らは成人式を迎えたが、当日僕は風邪で寝込んでいた。災難だったけれど、思い出の場所で彼女と再会を果たせた。こんな運命的なサプライズのために身を削ったのなら、神様を許そう。
「鬼燈色だね」
「え?」
「そのワンピース」
 彼女が歩くたびにひらひら揺れるワンピースの裾が、まるであの日、僕らの目の前で揺れていた鬼燈のようだった。僕の言葉を聞いて彼女はクスクス笑う。
「実はね、戻ってきてすぐに、懐かしくて一人でここに来たの。相変わらず絵馬の辺りに惹かれて行ったら、なんだかすごく胸にずんと来る感覚があって。呼ばれてるみたいに」
 彼女に導かれ、僕は、枝ばかりのシダレカツラのそばにある、絵馬所に来ていた。彼女は左上の方に掛かっている、何枚も重なって埋もれた一つの絵馬をつんと触る。
「これ見たら、決心がついて、旗野くんに連絡した」
 それは僕が元旦に書いた絵馬だった。頬がじわりと熱くなる。
「就活が上手くいきますように。琳が戻ってきますように。旗野光」
 彼女が読み上げる。透き通るような繊細な響き。いとおしい声色で僕の名前が呼ばれると、魔法にかけられたような気がした。
「旗野くんの感情が、発光してるみたいだった。だからすぐ見つけたの。私泣いちゃった」
 僕だって泣きたい。嬉しさと照れくささと、この六年半ため込んできた「好き」が爆発しそうだった。口数も少なく、感情がそんなに表に出ない僕が、唯一心を掻き乱されるのは、琳のことを考えているときだけだった。
「待っててくれて、ありがとう」
 彼女の華のような笑顔が辺りいっぱいに広がる。僕は衝動的に、彼女を抱きしめた。
初めてデートした場所で、初めての『運命的な再会』を遂げ、初めて女の子を抱きしめた。何事も新鮮な感動に勝るものはない。先程の彼女の言葉が頭によみがえる。
止まっていた時が動き出した。僕の感情は彼女によってこの心に刻まれていく。身体という器に経験が積まれていく。やっと逢えたんだ、琳に。
 そして僕らは一緒におみくじを引いた。彼女が僕の手の中にある紙を覗き込む。
「鬼燈の花言葉、〝半信半疑〟なの。でも、今目の前に私がいて、縁結びで有名な深大寺で授かった神様からのお言葉なんだから、ほんとうのことよ」
 彼女に笑いながら言われて、僕は強く、おみくじの恋愛欄を読み上げた。
「この人を逃すな」
 疑うものか、絶対に。

たてがきるか(東京都/26歳/女性)