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「ハナがいなくなった後」著者:悠井すみれ

 深大寺の山門の左、蕎麦処一休庵の角を右に曲がって、横に花屋さんを見ながら石畳の坂道を上る。カーブを描く坂道を少し行ってから左手を見上げると、木々の合間を縫って高く聳える白い塔が見える。深大寺動物霊園の供養塔だ。この一年というもの、ひと月と置かずにここを訪ねてきた私には――多分夫にも――すっかりお馴染みの光景だった。
 夏は、汗と涙でお化粧を乱しながら。秋は、紅葉の鮮やかさに目を細めつつ、ひらひらと舞う落ち葉を追いかけるあの子がもういないのだと思うと胸が引き裂かれた。冬の寒さは首を竦めて俯きがちになってやり過ごして。桜の頃には、やっとあの子もお空で見ているかしら、なんて思えるようにもなって。そして季節はまた初夏が巡って来ている。
「ハナ、また来たわよ。久しぶりねえ」
 犬も猫も、中には小鳥や兎も。供養塔を囲むように建てられた納骨堂の中には、沢山のお宅の亡くなったペットたちの骨壺や位牌、遺影がロッカーのようにずらりと並ぶ。でも、迷うことなんてない。耳をぴんと立て、勢いよく振る尻尾をぶれさせて。笑ったような表情で舌を覗かせるハナの姿を切り取った写真は、いつでも私の目を吸い寄せてくれる。
「おやつのおかわりだよ。お前が好きだったやつだ」
 夫と二人で供えていたおやつを取り換えて、手を合わせる。私は無言のうちに、ハナがいた頃の日々を遠く懐かしく思い返す。あの頃は、賑やかで毎日が楽しかった。
 お参りを終えると、霊園の近くの蕎麦処玉乃屋で食事を取るのが私たちのルーティンだった。デートというには言葉少なでしんみりとして、代り映えも――季節によって多少変わるメニューを除けば――ないのだけれど。それでも、外出すれば何かしらの話題はあるから良いのだろう。家の中だと、どうしても無言になってしまいがちだから。
 夫の天せいろは、私の山菜蕎麦よりも遅れて出された。先に食べ終わった後、黙って蕎麦湯を啜っているのも手持ち無沙汰で、私はわざとらしく明るい声を出してみる。
「もう一年ね。実は、ちょっと心配だったの。段々来なくなっちゃうんじゃないかって」
 ハナの供養を深大寺動物霊園にお願いすることを提案したのは夫の方だった。人懐っこい子だったから「友達」と一緒の方が嬉しいだろう、と言って。確かにハナは初めて会う他所の犬にも物怖じせずに尻尾を振って鼻先を寄せて行っていたものだった。そんな元気だった頃の仕草を思い出すと涙が止まらなくて、それに、深大寺のお坊さんにも供養してもらえるから、と勧められて私は頷いてしまった。でも、ハナが寂しがったらどうしよう、お骨は手元に置いてあげた方が良いんじゃないか、と。心の片隅には迷いもあったのだ。
 夫は寡黙な人だから、必ずしも答えを期待していた訳ではない。けれど今この時に限って、夫はふと目を上げて私を見た。喉が動いて蕎麦を呑み込むと、彼の口が、開く。
「お母さん、ハナがいなくなったら引き籠っちゃいそうだと思ったからなあ。散歩にも行かなくなる訳だし」
「……そんなことを考えていたの」
 夫がは無意識にお母さん、と言ったのだろう。でもその呼び方は私の心臓に針で刺すような痛みを走らせた。ハナがいなくなった今、我が家に「子供」はいない。私たちはもう、お父さんでもお母さんでもないのだ。私たちの間にはとうとう子供が恵まれなかった。
 夫婦仲が悪かった訳ではない。でも、夫がいない時の寂しさや家の中の静かさが耐え難く思えることもあった。それを紛らわすことができれば、と思って引き取ったのがハナだった。夫の同僚の家で生れたのを引き取ったころころとした雑種の子犬は、少し毛が長い柴犬のような姿に成長した。散歩と遊ぶこと食べることが大好きで、私や夫に甘えてはおやつやボールをねだる――ハナがいてくれた十五年の間、あの子はいつも私と夫の真ん中にいた。日々の会話も休日の予定も、あの子が我が家の中心だった。毛艶が褪せ、食べる量が減り、散歩の距離が短くなって。あの子の老いを感じざるを得なくなったこの数年は、ハナがいなくなったら、と思うと、身も凍るような恐怖を覚えてしまうほどだった。
「うん。出かける切っ掛けになれば、と思って、ね」
 食事を再開し、海老天を頬張る夫にかける言葉を探しあぐねて、私は何となく窓の外を見た。玉乃屋と霊園は本当にすぐ近くだから、何本も並ぶ紫色の幟が自然と目に入る。幟には、奉納した人の名前に加えて、ペットたちの名前も記されているのを私は知っていた。この席からは見えないけれど、納骨堂の入り口近くには、亡きペットへの感謝や労いの言葉を綴った絵馬も掲げられている。それだけ大切にされた子たちと同じ場所に眠るならハナもきっと幸せだろうと、それも慰めになっていた。でも、夫の口振りだと、この霊園を選んだ理由はハナの魂のためだけではないようだった。これでは、まるで――
「私のため、だったの……?」
 恐る恐る、声に出して尋ねてみると、夫は箸を止めて少し困ったように笑った。私の言葉が困らせたのだ。余計なことを言ってしまった、と。夫は表情で語っていた。
「ハナのことも思ったよ。でも……結局は僕のため、かな。二人きりが、少し怖くて」
 言い訳めいた口調は、罪悪感からだろう。私には分かる。同じ思いを抱えてきたから。
 子はかすがいと言われる。私たちにとってはハナがそうだった。たかが犬だと人は言うだろうけど、あの子は確かに私たちの家族だった。でも、犬と人間は違う種族だ。どれだけ愛情を注いでも、あの子の方が先に逝ってしまうことは動かせない。私たちはいつかは二人きりに戻ってしまう。それは、最初から分かっていた。分かっていた、のだけど。
「私も、怖かったのよ。貴方と何を話せば良いのか、話題なんてあるかしら、って」
 この一年、私の心には常に冷たい風が吹いていた。ハナはいなくなってしまった。夫とどう過ごせば良いのだろう。夫は私をどう思っているのだろう。それが不安で、心配で。
 また次の子を、なんて気軽に言えない。十年、十五年後には私たちの介護だって必要になっているかもしれないのだから。老いた生き物の世話の大変さは、ハナの晩年で身をもって知っている。子も孫もいない老後のイメージをどう持てば良いのか、私には全く分からなかった。でも、「我が子」を亡くしてまず思うのが自分のことだなんて、なんて勝手なことだろう。ハナの死を純粋に悲しむのではなく、夫との仲で頭が一杯だなんて。
「だからってハナを口実に使うなんて……ね。優子さんに怒られそうだと思っていた」
 違う。私は小さく首を振っていいえ、を示した。私こそ夫に眉を顰められるの怖かった。これまで不安を口にはできなかったのはそのせいだ。でも、夫は今、私と同じ思いを吐露して目を伏せている。ハナのお参りを通して、私たちは互いの距離感を探っていたのだ。
 夫は、私のことを今度は名前で呼んでくれた。そのことに心臓が小さく弾む。ハナの「お父さん」と「お母さん」としてだけではない、夫婦としての繋がりを、感じたから。
「そんなことない。二人で――二人だけでも出かけることができて、私は嬉しかった」
 震える声を絞り出しながら、私はこの一年の間に見た深大寺の風景を思い出していた。夏の蝉の声。街中では痛いほどだった日差しが、バスを降りれば鬱蒼と茂る木々の葉で遮られて涼しかった。鬼燈まつりやそば祭りは混雑を避けて行かなかったけれど、ポスターなんかを見るだけでも浮き立った雰囲気を感じることはできた。その折々に、私はちゃんと夫と言葉を交わして、笑うこともあったはずだ。無言の時だって、決して居心地が悪いだけではなかった。雪が降った日は、夫は滑らないように私を支えてくれたではないか。
 子供の笑い声に少しだけ胸を刺され、足元にまとわりつくハナがもういないことに時に目が潤むのを感じながらも。私は――私たちは、ずっと一緒にいたのだ。
「ありがとう。……その、私のことを考えてくれてたなんて。それで……それに。また、一緒に来ましょう。来たいわ。何度でも、ずっと――和彦さん」
 お父さん、ではなく。あなた、でもなく。意識して夫の名前を口に出して呼ぶのは、私にとっては久しぶりのことだった。だからどこかぎこちなく、取ってつけたようにも聞こえただろう。でも、夫は嬉しそうに、ほっとしたように微笑んでくれた。
「うん、もちろん――こちらこそ。これからもよろしく。……優子さん」
 もう一度私の名前を呼ぶと、夫は――和彦さんは、背筋を正すと軽く頭を下げた。ああ、そうだ。この人のこういう律儀で丁寧なところが私はとても好きだった。どうして忘れていたのだろう。好きな人との暮らしを、どうして不安に思ったりしていたのだろう。
「ええ、こちらこそ」
 涙ぐみそうになるのを堪えて、和彦さんの目を真っ直ぐに見返して、笑う。
 心のどこかが緩んでとけた。ハナを亡くした悲しみのことではない。あの子のことを、私も夫もきっと死ぬまで忘れない。時に泣くこともあるだろう。溶けて解けたのは、埒もない不安。根拠のない怯え。夫がいるのに孤独な老後を思い浮かべていた、勝手な私。
 二人きりは、もう怖くなかった。

悠井すみれ(東京都世田谷区)