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「日々とこれから」著者:大野尚

「深大寺ビールかあ。ビールはやっぱり瓶だよな」
清三がいうと、かぶせるように祥子が声を張り上げた。
「まさかまた飲んでるの?」
「飲んでねえよ」
「本当?」
「当たり前だ。家帰って見てみろ」
祥子は訝しげな目を清三に向けたまま、指先でつまむようにして、ビールの小さな広告が入ったプラスチック板をぱたんと倒した。
父も酒飲みなんです。ああ、それは気をつけておかれたほうがいいですね。お酒はやはり認知機能に影響しますし、何より情動が不安定になりますからね。お父さまももう、初期の段階ではあると思いますよ。
清三はひと月前の病院での会話を思い出した。酒飲みが、ぼけていると言った。このおれの目の前で。おれがいないかのように。
あのときの感情が鮮やかによみがえる。おれは酒乱じゃない。怒りっぽいのは昔からだ。医者の細かい説明などどうでもいい。
「お父さん、またそんなぶすっとして」
「うるせえ!」
清三の怒鳴り声が、小さな蕎麦屋に響き渡った。格子窓が音を立ててふるえた。
「あ、お母さん。どうしたの? 立たないで」
みつこが能面のような顔で立ち上がり足踏みを始めた。綾子が止めるが、なかなか席につこうとしない。
店員に謝罪をする娘二人に非難の目を向けられた清三は、奥歯を噛みしめて、腹に残った怒りをしずめようとした。みつこの目は、木の玉のように鈍い色をしていた。  
外はまだ重く曇っていた。三日続いた雨も今朝で終わり、昼過ぎから晴天になるはずだが、そんな気配はまるでなかった。
「二八蕎麦二つと、天ぷら蕎麦二つになります」
みつこがなんとか席につくとすぐに、つやつやと光る蕎麦がはこばれてきた。久しぶりの蕎麦だった。
気をとりなおしかけたそのとき、祥子がかばんから白いものを取り出した。プラスチックでできたそれは、おもちゃのはさみのようだった。
祥子は蕎麦を塗りのお椀に少しとりわけると、おもむろに蕎麦を切り始めた。あっけにとられた清三は、思わず立ち上がって手をのばした。
「おい、ばか、おまえ。なにやってんだ」
「なにって、お蕎麦切ってるんでしょう」
「だから切るんじゃないと言ってるんだ」
 清三にひるむことなく、祥子が一段高い声でひといきに説明した。
「お母さん、お蕎麦つまっちゃうからだめなんだって。でも、どうしても食べたいって言うから、先生も細かくして少しならいい、って。それで今日来たんじゃない。お店の人にも断ってあるよ」
「お姉ちゃん。あんま言っても、わかんないよ」
綾子のささやくような声が、ずいぶんと遠くきこえた。あんま言ってもわかんない。それはおれのことか。
そんな話は聞いていない。情けないことに、そう言い切れなかった。
急に力が抜けて、清三は目の前のみつこが細切れになった蕎麦をスプーンで口に運んでもらうさまを、ぼんやり見つめた。
「お父さんも食べなよ。香りが飛んじゃうよ」
綾子が軽快に蕎麦をすする。つられて清三も箸をとった。黒塗りのせいろに、蕎麦が山になって盛られていた。
勢いよくすすってみたものの、すぐに戸惑いをおぼえた。香りというものがしないのだ。代わりに鼻先が、つんとなる。
「大丈夫、お父さん。わさび入れすぎた?」
綾子に水をわたされたが、わさびじゃない。蕎麦が胃に落ちるたび、清三の体は小さく揺さぶられた。その感情がなにかわからない。にじむ視界に、色々なことが浮かびかけては消えていった。どれひとつはっきりとした形にならず、ひどく焦った。
「お母さん、おいしい?」
祥子が子どもに話しかけるような口調で話している。
「ふるさとホームでも、おそば出るからね。楽しみだね」
みつこの目は宙を向いている。ふるさとホームがなんだ。どうして家に帰ってこないんだ。清三は蕎麦をかきこんだ。腹がたぷんと、音を立てた。
蕎麦屋をでて街道を行くと、四方に新緑を過ぎた草木が生い茂っていた。雨でたっぷりとうるおい、一段と色濃く見える。
深大寺の山門まで来たところで、四人は立ち止まった。目の前に勾配の急な階段坂があった。一瞬の沈黙のあと、とりなすように綾子が言った。
「あっちから回れたっけ」
左に曲がると、にぎやかな出店が続いていた。その奥に、裏側から山門へ回り込むような形で、ゆるやかな上り坂が見える。
「よさそうよ」
少し先を行く綾子が手招きした。
「最後まで階段なし?」
祥子が小走りで追いかける。つられて早歩きになったのか、横にいたみつこがつまずいた。清三はとっさに腕をかかえた。
二ヶ月の入院でみつこの体はずいぶん小さくなっていた。清三はそのまま手をにぎった。乾いた手の中でみつこの手がかさかさと音をたてた。ここには何度も来ていたのに、こうして手をつなぐのは初めてだった。
親同士の仕事の関係で、一度は反対された結婚だった。見合いを断り続ける頑固なみつこを、清三が半ば強引に迎えに行ったのだ。それなのに結婚してからも苦労をかけてばかりだった。この手を振り払い、泣かせたこともある。
いろいろなことがあったと思う。だが思い出せるのは些細な一瞬一瞬で、全体を水からすくいあげようとしてもうまくいかなかった。
子どもたちが幼いころによく行った公園での、いつかの妻の横顔。二人きりで見た、伊勢か瀬戸内か、鏡のような凪の海。
取り出せない記憶がモザイクのようになって清三の体の深いところに存在していた。そっと手を入れると、無数の断片が舞い上がるようだった。においもてざわりももう少しで蘇りそうな、たしかな存在感があった。
そのまま飲みこまれそうな怖さを感じて、清三は顔をしかめ横を向いた。だが、手だけは離さなかった。重なった掌で二人の体温が混ざっていく。
「大丈夫そうだよ」
本堂までざっと見てきた二人が戻ってきた。片手をあげわかったと伝えながらみつこを見ると、みつこは反対側を向いていた。視線の先では、池の真ん中で亀が四匹、重なって甲羅を干している。
亀は皺だらけの首を思い思いの方向に伸ばして、目を細めていた。雲が薄くなり、細い光がさしはじめていた。空気にこまかな粒が舞っているのが見えた。
「やだあ、かわいい」
「みんな気持ち良さそうね。あんなに重なって」
祥子と綾子も寄ってきて嬉しそうに言った。つないだ手がしっとりと温かかった。
「みつこ」と名を呼んだ。
「はい」
みつこの声が光のなかでやわらかくひびいた。

大野 尚(東京都府中市/37歳/女性/会社員)