「恋する野球少年」著者:藤原美香子
俺の初恋は小学5年、相手は少年野球団のチームメイトだった。
隣の小学校に転校してきたあいつは入団早々俺のエースの座をおびやかした。身長は俺と同じくらいなのに華奢な奴で手もひとまわり小さかったが、コントロールも頭も良くて打たせてとる省エネ投法の見本のようなピッチャーだった。俺はあんなひょろっこい奴に負けたくなくて走り込んで下半身を強化しようともがいていたが、ある朝同じコースを走っているあいつを見かけてたまらない気持ちになった。
走り込みを始める前から、あいつがチームの誰より早く練習にやって来てグラウンド整備したり道具を整えたりストレッチしたりシャドウピッチングしたり・・・つまり様々なことをしているのを知っていたが、その上早朝の走り込みまでしているとは思わなかった。あいつは野球がもの凄く好きで、俺以上に負けず嫌いな奴だったんだ。
それからはダブルエースとして奮闘して、6年生の最後の大会では見事に優勝した。あの日誰かれなく抱き合って喜んだが、あいつの華奢な体を抱きしめたときに感じた他の連中とは違う胸の痛みで「俺やっぱりこいつが好きなんだ」と観念した。
相手が同性だろうと好きなものは仕方がない。と、子供ながらに達観したものだった。
「ねえ、雅樹くんの初恋はいつで誰だったの?」
クラス会も中盤になると皆酒が回って遠慮と言うものがない。さっきから「君が好きだったんだ」「やだ、言ってくれればよかったのに~」などと言う会話が飛び交っていた。
「小5。黒田博樹」
「あ~、黒田な。女子にはわからないだろうけど、元プロ野球のピッチャー。漢(おとこ)気(ぎ)あって広島とメジャーでも活躍した人。雅樹好きだったよな~」横から説明が入る。
「やだ~、女の子は~? 野球部だったのは覚えてるけど、彼女いなかったの~?」どちらもほぼ酔っ払いだ。酔っ払い相手に大事な思い出を喋る奴はいないだろ。
朝5時半に家を出て、野川沿いを走り天文台通りに入り坂を上る。東八を走り武蔵境通りを下って深大寺に寄り道して家に帰る。あのコースは小5から高3まで毎日走った。ダブルエースになった頃からはあいつ、汐音(しおん)を見かければ並んで走った。言葉を交わさなくとも相手の走りを見れば調子の良し悪し、機嫌の良し悪しはわかった。汐音もそうだったらしい。時間が許せば深大寺の境内でひと息つき話もした。
「でも、雅樹くん高校のとき彼女がいるってもっぱらの噂だったよね」
「五分刈りの野球野郎に彼女なんかいるわけなかろ? なぁ雅樹」
「え~、大会の応援に行ってた雅樹くんのファンの目撃情報だったけど」
まわりが勝手に盛り上がっているのは放っておいてビール瓶とグラスを持って席を立った。五分刈りの野球野郎は紆余曲折と脳内天変地異をかましていたんだよ。
中学へ進学した時仰天した。入学式で会った汐音は紺のネクタイじゃなく、赤いリボンをつけていた。あれだけ一緒に汗かき走り投げていたのに、あいつが女の子だったなんてまったく気づかなかったんだ。青天の霹靂って言葉を辞書で引いたのは初めてだった。俺がずっと汐音を男だと思い込んでいることを知っていた母親が大笑いしてその言葉を教えてくれた。確かに青天の霹靂だったけれど、「同性だろうと好きなものはしょうがない」と悟っていた俺だが、「あぁ、女の子を好きだったんだ」とハードルが低くなったような気がして嬉しかったのが正直な気持ちだった。
汐音が中学の野球部に入った時「女には無理だ」と汐音を排除しようとする先輩たちがいた。でもあいつはあきらめず、好きな野球を続けるために影でかなりの努力を続けていた。夕方遅くまでしごかれて、男に混ざって同じだけ走らされても翌朝5時半には何でもない顔をして野川沿いに現れた。深大寺の境内でも泣き言は一度も言わなかった。俺はただただ惚れ直すばかりだった。
俺や同級生の援護もあり、汐音を先輩たちに認めさせようと実力を発揮できるチャンスを作りまくったかいあってうるさい連中を鎮静化させることはできたが、男たちがグングン成長するなか華奢な汐音はほとんど背も伸びず体重も増えず、ワンポイントもしくは短いイニングでしか投げる機会はなかった。最上級生になり誰にも「女なんかに」と言われることはなくなったが、リリーフエースのまま引退試合を迎えた。
中学最後の大会で負け、引退した翌朝から汐音は野川に現れなくなった。校内で見かけるあいつは日焼けの色も落ち髪も伸びてきて何処をどう見ても普通の女子だった。卒業式間近の日、いつものように走って深大寺の境内に入るとベンチコートを着た汐音がいた。
「やっぱりわたしと走っていたときよりここにつく時間が早いね」
「走りに来たのか?」と聞くと汐音は首を振り、俺を待っていたと言った。
「ずっとお礼を言いたかった。先輩たちの攻撃をそらして守ってくれてありがとう。みんなもそうだけど、雅樹が一番体張ってくれてたの知ってた。自分に矛先向けてとばっちり受けて罰走くらっていたよね」
「お前もう野球しないのか?」
「進学先には野球部がない。って言うか、ない所を選んだ。もう男子にはかなわないもん」
「じゃあ暇だな。俺の試合見に来いよ」おまえの分まで投げるから。とは続けられなかったが、ここで伝えたいことを言わなきゃこの先チャンスはないと思った。
「〝女子高生〟を満喫するから暇じゃないかもね。でも、雅樹が背番号1とったら行くね」
「すぐにとる。だから毎回見に来い」
「……雅樹は良い奴だからすぐに良い彼女ができるよ」
「今ここでできるほどか?」
汐音の色白の頬が赤らんだ。
高校に入学してからエースナンバーをもぎ取るまで1年かかったが、汐音は高校入学の春から暇なときには必ず応援に来てくれた。
「おーい、雅樹久しぶり! 野球部の奴に聞いたぞ、お前結婚したんだって?」
宴席に遅れてきた友人の声にまわりの連中が「えぇっ?」と奇声を発した。
嘘でしょ、早すぎ、誰と、どうして……などと言いたい放題。
初恋から十五年。俺にはこれ以上先延ばしにする理由がなかった。「結婚しないか」と言えたのは給料で家庭が持てると確信してからだが、ふたりともそのつもりでつきあってきた。
伝えたのはいつものように汐音が気が向いてひょっこり現れ、一緒に走ったあと深大寺の境内でひと息ついているときだった。「なんでこんな汗だらけで疲れてぼろぼろのときに言うの」と文句が出たが、汗をぬぐう紅潮した汐音が綺麗で独占欲丸出しになったからなんて言えない。
「ありがとう。もちろんよろしくお願いします」ただし条件がある。と汐音は続けた。
わたしが少年野球団のコーチを続けることを承認すること。と最初に言った。汐音は高校入学時からチームの補佐に行き、大学に入ってからは正式にコーチに就任した。今では女子部員も増えているが汐音の功績が大きいようだ。
結婚式はここで挙げたい。もうひとつの条件は深大寺で挙式することだった。
「子供の頃からここは特別な場所だった。朝ここまで頑張って走ると大きな腕で迎え入れられるような気がした。雅樹とふたりで話せたことが嬉しかったんだろうけど、野球で悩んでいた時もここに来ると『大丈夫、たいしたことないがんばろう』って気持ちになれた。大切なここで雅樹と一緒になって新しい生活をスタートさせたい」
「了解。今日寺務所が開くときもう一度来て申し込む。式はいつにする?」
「そんなに簡単に決めて良いの?」
「選択肢がいくつあってもここにする。簡単なことだ。で、いつが良い?」
「雅樹のそういうところが最高だよね。じゃあ、庭の綺麗な時が良いな」
「ここはいつだって綺麗だろ。紅葉か? 雪景色か? 桜か? 新緑か? なんじゃもんじゃか? 紫陽花か? 百日紅は勘弁してくれ。一年も待たないぞ」
汐音は汗を飛ばしてキラキラ飛び切りの笑顔でまた俺を魅了した。
クラス会は楽しかったが「明日、早朝少年野球団のコーチに行くから」と、二次会の途中で抜けて来た。家に帰れば負けず嫌いが起きて待っていることだろう。早く帰ろう。
藤原 美香子(神奈川県川崎市)