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「祖父の瞳」著者:相沢泉見

「良美(よしみ)、大変! おばあちゃんがいなくなっちゃった!」
 大学の授業が終わって家に帰ると、母が血相を変えて飛びついてきた。
 私は今、父と母のほかに、祖父母と一緒に暮らしている。ともに八十歳を越えている祖父母はもともと近くで別居していたが、祖父が足を痛め、祖母が痴呆症と診断されてしまったために、二年前から我が家で同居が始まった。
 祖母は基本的に穏やかな性格だが、痴呆は日に日に進んだ。今では私や母のことはおろか、実の息子である父や、夫である祖父のことさえ忘れている。
 そんな祖母が今日、母が目を離した僅かな隙に家から出て行ってしまったという。
 母はすぐに父に電話した。父は会社を早退して、帰宅するその足で祖母を探すらしい。母自身も愛用のママチャリに跨り、「日暮れまでに見つからなかったら警察に行く」と言って家を飛び出した。
 家の玄関先には、私と祖父だけがぽつんと取り残されてしまった。祖父は眉毛の両端をハの字に下げて、申し訳なさそうな表情を浮かべる。
「迷惑かけて済まないなぁ、良美。儂(わし)らも探しに行くか」
「うん。だけど、どこを探す? おばあちゃんの行きそうなところって、どこだろう」
「これは儂の勘なんだがなぁ、すみ江(え)は……おばあちゃんは、きっと深大寺にいると思う」
「深大寺?」
 私は首を傾げた。深大寺はうちから車で十五分ほど行ったところにあるお寺だ。都内では浅草寺に次いで二番目に古い名刹らしいが、祖母は何故そんなところにいるのだろう。
「良美、そこまで儂を連れて行ってくれないか」
 祖父は真っ直ぐに私を見つめた。皺だらけの瞼の下にある瞳は、とても真剣だ。
 深い色をしたその瞳に背中を押され、私は大きく頷いた。

 私と祖父は、電話でタクシーを呼んで寺の近くまで行った。深大寺の前には参道が伸びていて、趣深い佇まいの蕎麦屋や土産物店が軒を連ねている。
 その道を、祖父は弱った足を引きずりながら進んでいた。いつになく厳しい顔つきをしており、「少し休もう」などと言い出せる雰囲気ではない。それだけ祖母のことが心配なのだろう。
 やがて、山門に辿り着いた。階段を上がって茅葺屋根の門をくぐると、途端にお線香の香りに包まれる。境内に人気(ひとけ)は少なく、夕暮れの光が伽藍を照らしていた。
 そこでようやく、祖父の表情が緩んだ。入ってすぐのところに、祖母が佇んでいたのだ。
「お散歩ですか?」
 祖父が優しい声を掛けると、祖母は訝しげに首を傾げた。祖父のことが誰か分からないのだろう。しかしすぐさま、こんな言葉が返ってきた。
「わたしは、ここで待ち合わせをしているんです。竹(たけ)蔵(ぞう)さん……仁木(にき)竹蔵(たけぞう)さんを待っているの。わたしはあの人と、結婚を誓ったから」
 今度は私が首を傾げる番だった。祖父の名は総一郎(そういちろう)だ。仁木竹蔵という人など知らない。さらに、祖母はその人と結婚を誓っているという。一体、どういうことだろう……。
 疑問だらけの私をよそに、祖父は何でもないような顔で祖母と会話を始めた。
「待ち合わせのお相手は、いついらっしゃるんですか」
「分かりません。でも竹蔵さんはきっと来ます。わたしはもう少し待ちます」
「そうですか。まだ待ちますか……」
 祖父は溜息を吐きながら私の方に戻ってきた。私は思わず、矢継ぎ早に訊いてしまった。
「おじいちゃん。竹蔵さんって誰? おばあちゃんの結婚相手ってどういうこと?」
「竹蔵というのは儂の幼馴染だ。同時に、おばあちゃん……すみ江の恋人でもあった。すみ江と竹蔵は、結婚の約束をしていたんだ」
「えぇぇっ、おばあちゃんが別の人と結婚を誓っていたなんて、信じられない!」
 しかも、祖母はその人をいまだに待っているという。物忘れをしているとはいえ、祖父を目の前にしてそんなことを言われると、孫としてはどこか忍びない気持ちになる。
「儂らは昔から三人一緒で、この深大寺の辺りでよく遊んだ。年頃になると、竹蔵と儂は揃ってすみ江のことを好きになった。そして、すみ江が選んだのは竹蔵だった。それだけのことだ」
「それだけのことって……。でも、実際に結婚した相手はおじいちゃんなんでしょう?」
「いろいろと事情があってなぁ……。竹蔵は家業の自動車工場を継ぐために、名古屋の自動車会社に勉強をしに行ったんだ。帰ってきてから、すみ江と結婚することになっていた。だがその名古屋で、竹蔵は別の女性と所帯を持ってしまったんだよ。継ぐはずだった工場(こうば)も、親も、すみ江のことも……すべてを放り出して、駆け落ち同然だった」
「要するに……おばあちゃんは捨てられたってこと?」
 すぐ近くに当の祖母がいるので、私は声を潜めた。祖父は小さく頷く。
「とはいえ、すみ江の気持ちは収まらなかったんだろうなぁ。竹蔵はすみ江に、深大寺で待っていてくれと言い残していたらしい。だからすみ江は毎日のようにここに来て、愛する人を待った。一年待って、二年待って……それでも竹蔵は帰ってこなかった。五年経った時、儂はすみ江に結婚を申し込んだんだ。深大寺の参道にある蕎麦屋でな」
「おばあちゃんはそこで、結婚を受け入れてくれたのね?」
 私は当然のようにそう言ったが、祖父は軽く笑って白髪頭に手を当てた。
「いや……にべもなく断られてしまったよ。わたしは竹蔵さん以外の人を好きにならない、とね。すみ江は、それからも相変わらず深大寺で竹蔵を待ち続けた。儂も寺にやってきては、すみ江に求婚した。何度か一緒に蕎麦を食べて、近くの神代植物公園で梅や薔薇を見て……。竹蔵がいなくなってから七年目に、すみ江はようやく頷いてくれたんだ」
 佇んでいる祖母に、祖父の眼差しが注がれる。私もつられてそちらを見やった。
 祖母はじっと誰かを待っていた。頬を軽く染め、瞳をキラキラと輝かせるその顔は、まるで初々しい少女のようだ。恋する少女の顔をしながら、「竹蔵さん……竹蔵さん」と呟く。祖父の方など、見向きもせずに。
 祖母は今、ほとんどのことを忘れてしまっている。自分の年齢も、産んだ子のことも、結婚した相手のことも。
 祖母の心に残っているのは、足を引きずってここまでやって来た祖父ではなく、別の男性なのだ。祖父のことは跡形もなく記憶から消えている。おそらく、この先もずっと……。
「この深大寺には、縁結びのご利益がある。すみ江がここで竹蔵を待つことにこだわったのは、そのせいだろう。だから、きっと今日もここにいると思った。儂の勘は、大当たりだったなぁ」
 祖父は、心だけ少女に戻った祖母を見つめながら淡々と言った。それを見ていたらひどく悲しくなって、私は頭(かぶり)を振りながら叫んでいた。
「おじいちゃんは、おばあちゃんに一番に好きになってもらわなくてもよかったの? おばあちゃんに忘れられちゃって、それで本当にいいの? 私はそんなの、嫌!」
 しかし、私の剣幕とは裏腹に、祖父は穏やかな微笑みを浮かべた。
「これでいいんだ。年老いて迷子になっても、すみ江には必死になって探してくれる息子やその嫁さんがいる。元気に成人した孫もいる。すみ江が幸せなら……いいんだよ」
 祖父の瞳は海のようだった。その海で、恋する少女がゆったりと泳いでいる。
 祖母が誰を好きでも、自分のことを忘れてしまっても、祖父はその深く澄んだ眼差しですべてを包み込むのだろう。おそらく、この先もずっと……。
「さて。そろそろすみ江の気も済んだかなぁ。帰ろうか」
 祖父はそう言って私を見た。
 今、私も祖父の瞳に優しく包まれている。

 それから数年後、祖母は竹蔵氏の名前を呟きながら息を引き取った。祖父はその翌年、祖母の写真を胸に抱きながら不帰の旅に出た。
 私は今でも、祖父の優しい瞳を覚えている。深い海と同じ色をしたその眼差しは、どんな宝石よりも美しく、心の宝箱の中でいつまでも輝くのだ。

相沢泉見(千葉県船橋市/39歳/女性/家事従事)