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「光の果て」著者:春日慧

 いえ、決して、誰かにときめいているなどという話ではありません。けれど来年には還暦を迎える私が、恋についてお話しするなんて、みっともないことだと思います。それなのになぜこんなことを話し始めたのか、自分でもわかりません。この街を出ていく感傷からでしょうか。深大寺に程近い、親の残した家を売り、私は明日からA市で暮らし始めます。私の長い長い恋の終わりを見届けるために。
 子供の時から何度訪れたかわからない深大寺に、今朝、最後の参拝をしてきました。一昨年でしたか、このお寺のお釈迦さまは国宝に認定されました。関東でこれほど古い仏像が見つかるのは本当に稀なことなのだそうです。この仏像が当時の都に近い場所で造られたのか、それとも、仏像を作るだけの技能を持った渡来人たちがこの地で造ったのか、説は二つあって未だにわからない、と市の郷土博物館が発行した冊子に書かれていました。私には何だか後者に思えてなりません。遠く旅して武蔵野の地にやって来た渡来人たちは、持っている技を尽くして仏さまを造り、これから暮らす未開の地に祀ったのではないでしょうか。このことは私の心に、少し勇気をくれました。こじつけと言われても仕方ありません。でも私もこれから心を込めて、恋の終わりを見届けるつもりでいます。
 年号が令和に変わりましたね。平成の間に結婚し、子供を産むこともなく離婚しました。父母も既に亡く、一人娘の私に今、家族はありません。長く続けた経理の仕事は定年まで一年を残して退職しました。とてつもなく自由で何もない、灰色の雲のような未来が私の前にあります。その雲の中に僅かに光が見えます。私も心にずっと持ち続けていた光です。向こうにある間もなく消えていくであろうその光についてお話しするには、少し複雑な私の家族の話から始めなくてはなりません。
 時代は昭和の初めに遡ります。祖父の石沢毅(たけし)は戦前、満洲に渡り鉄道関係の仕事をしていました。妻のキミとの間に兄満男(みつお)、妹松江(まつえ)の二人の子に恵まれました。兄の満男が私の父にあたります。幸せな生活は敗戦で一変。風土病だったのか、キミは日本へ戻る途中、急に発熱し亡くなりました。苦難の道中を経て、二人の子供達と日本に帰ってきた祖父は深大寺に程近い場所に住み着きました。緑の多いこの地が気に入ったのでしょう。
 二年ほどが過ぎた頃、祖父は急に後妻を迎えます。祖父四十五才、千葉の漁村の出だという、みち(、、)という名のその女性はまだ二十八でした。当時十九才の満男、十六の松江もこの結婚には大反対でした。年齢差はもちろんのこと、みち(、、)には何と二才になる男児があったのです。しかし祖父は強引に話を進め、みち(、、)を貰います。浩司(こうじ)という名の男児も可愛がりました。浩司は愛くるしい子供で、最初はみち(、、)につらく当たっていた満男たちの心も次第に緩んでいきました。浩司には人の心を捉える天性のものが備わっていました。
 やがて満男は大学を出て税理士となり、私の母である佐代と結婚。松江は嫁いでいきました。私が幼い頃には、祖父の毅と後妻のみち(、、)、子供の浩司(私は当たり前のように叔父さんと呼ぶことになります)、それに父と母と私の六人での賑やかな暮らしがありました。核家族や一人暮らしが多い現在と違い、当時はまだ大家族が多かったのです。
 子供の頃の記憶の真ん中には、いつも浩司叔父がいます。叔父は十五才年下の姪をおんぶや抱っこをして遊んでくれ、本を読んで聞かせ、庭でのかくれんぼにも付き合ってくれました。樫の木の後ろに隠れた私を、「菜津子(なつこ)みーっけた」と後ろからやってきて、大きな手で抱きとってくれたとき、私は大きな幸せを感じました。叔父と自分に血縁関係がないことは何となくわかっており、子供心にそれは不思議なことでした。大好きな叔父と何のつながりもないなんて、寂しいような気持ちでした。しかし成長するにつれ、寂しさはわくわくするような思いに変わっていきます。私と叔父さんは他人なのだ、と。
 やがて祖父が他界、みち(、、)おばあさんも後を追うように亡くなります。家の中で叔父は肩身が狭くなったようでした。母の佐代はそんな叔父に親切でした。叔父もお義姉さん、お義姉さんと慕っていました。そう、浩司叔父は、いつも人の心を掴んでしまうのです。
 叔父は専門学校を出て、自動車の部品を設計する仕事をしていました。私が小学校六年の頃、仕事を極めるためにドイツへ行きたいという叔父を父がそんな夢みたいな話をするな、嫁でも貰え、と大声で叱り飛ばしたことがありました。父は資格がある安定した仕事が一番という考えでしたから、叔父を理解できず、血縁のない弟を持て余している風に見えました。その後もぎくしゃくした父と叔父の関係は良くならず、叔父は家を出ました。
 私はとても寂しくなりました。学校から帰ってきてもつまりません。それでも時々、叔父は遊びに来てくれました。嬉しかったものです。母も喜んで食事を作っていました。家に帰ると早い時間なのに叔父がいて、不自然に明るい母の声が聞こえることがありました。
 中学生くらいになると、度々来る叔父はその都度本を貸してくれるようになりました。別に世に言う名作ではなく、流行の作家のものだったのでしょうが、私は読むことで外国の街に行った気になり、まだ知らぬ男と女に起こりうることを想像して、頬を赤らめたりしていました。そんなことが続くうち、私は叔父が来る日に父の出張が多いことに気がつきました。父は新宿に事務所を持っていましたが、仕事が少ないと日中でも家にいることがありました。反対にこの頃は、顧客の支社が大阪にできて出張の多い日を過ごしていたのです。叔父に父の出張を告げることのできるのは母だけです。私は呆然となりました。読書のせいか、叔父の来る理由を推察できるようになっていたのです。
 中学二年になった年の秋のこと、私は中間試験中で早く帰宅しました。父は出張の日です。母は長く習っているお茶の先生の家に不幸があり、急に手伝いに行かねばならなくなって出掛けました。するとそのとき、浩司叔父がやって来たのです。母は出掛けたと私が言うと意外そうな顔をしました。やはりこの人は母に会いに来ているのだ。私の中で膨らんだのは嫉妬の感情でした。何とかこの人の気持ちを自分に向けたい、と願いました。
 その日、叔父に前に借りていた本を返すと、叔父は「どうだった?」と感想を求めました。その本には赤裸々に男と女の行為が描かれた場面がありました。それを頭の片隅に感じながら、私はただ「面白かった」と答え、叔父を見つめました。すると叔父は「そうか、面白かったか、菜津子はもう、わかるんだね」と言ったのです。短い時間の後、私は叔父に身体を投げかけていました。叔父も黙って私を抱きしめ、客間の畳に横たえました。甘美な光が私たちを包みました。そのあとのことはよく覚えていません。十四才の私は、二十九才の叔父とついに幸せな時間を共にしたのです。
 しかし光に包まれた時間は短いものでした。母が帰ってきたのです。起き上がった私たちを見て、何がなされていたか一瞬でわかった母は、金切り声で叫びました。叔父は服を着ながら家を飛び出して行きました。それを見送る母の目に怒りが満ちていました。その怒りがどこに向いていたのか、今も私はそれを考えることを避けています。母がこの事件をどう父に告げたのか知りません。ただこれ以後、叔父が来ることはなくなり、母はホッとしているように見えました。私の大好きだった叔父は手の届かない世界に行ってしまったのです。十四才の私に父母に隠れて叔父を探す術はありませんでした。
 父と母は終生、円満な夫婦のふりをし、私も彼らの良い娘であるふりをしました。浩司叔父など初めから存在しなかったかのように、叔父のことを話すこともありませんでした。
 でも私はその後の長い年月を、自分の中に宿った甘美な光をずっと消えないように抱いて生きてきました。浩司叔父と私は、あの日間違いなく同じ光に包まれたのです。大学時代の彼氏も、結婚した夫も、私の光を消すことは出来ませんでした。彼らと別れたのも、結局はそれが原因だったのかもしれません。
 そんな私に思いがけないことが起こりました。昨年、A市の介護施設のケアマネージャーを名乗る女性から連絡が来ました。「石沢浩司さんをご存知ですか?」電話の向こうの声は、忘れようもない叔父の名前を言いました。施設で親族の保証人を求められた際、叔父は私の名を出したのでした。人の心を掴むのが得意だったはずの叔父は孤独な晩年を迎えていたのです。同時に叔父の身体は弱っており、残された日々が多くないこと、認知症を患っていることも告げられました。ケアマネージャーは、私を探すのに手間取ったそうで、その間に叔父の症状はずいぶん進んでしまったようでした。会いに行くと叔父は私が誰だかわかりませんでした。それでも痩せこけた手で私の手を取り、にこやかに笑いました。施設の人が今日は浩司さんの機嫌がいい、と言ってくれました。あたりまえです。私たちは同じ光で繋がっていたのですから。
 叔父は曖昧になる記憶を辿り、人生の最期に私を頼ってくれたのに違いありません。私たちには同じ光が宿っていました。きっと叔父はずっと私が来るのを待っていたはずです。 私は明日から施設の近くに暮らし、毎日叔父に会いに行きます。ふたりに宿った光が消え行くのを心を込めて見つめます。それが私の長い長い恋の最終章となるでしょう。

春日慧(東京都調布市/54歳/女性/会社員)