「青い金魚」著者：柏木臨
どこまで持ち帰れば、いや、取り除けばいいのか迷った。寝間着やクレンジングオイルに洗顔料、化粧水、乳液、ヘアアイロンに生理用品。私の残り香がするものは片っ端から袋に詰められれば良かったのだけれど、生憎私と美利はそれらを共用していた。彼女と付き合ってからはじめて自分が女であることを恨んだ瞬間だった。私と美利は四日前に別れた。
美利のアパートから駅までは深大寺を通る。もちろん幾度となく美利と一緒に通った場所だ。私は靴底に力を入れ、雨上がりの滑りやすい石畳に真上から足を載せていく。この道は急勾配が続くから、逢うときはお互いいつもスニーカーだった。女同士、身長差を気にする必要もなかったから。
深大寺でぽつんと浮いている真新しいトイレに目が留まる。こいつにもようやく見慣れてきた頃だというのに、と思うと途端にこのトイレが恋しくなり、吸い込まれるようにして深大寺の境内へと歩を進める。私は水音に耳を澄ませながら美利の声を思い出していた。
「えつ、ごめんねえ」
美利は男を好きになった。二十六歳。彼女は家庭を求めた。
線香の煙が鼻腔を刺激する。何の一種かわからない小さい虫が飛び交っている。こいつが目の中に入ると、涙の海で体が分解されて気持ち悪いんだよなぁ。なんて考えていたら、わあっと涙が溢れてきた。梅干しの味を思い浮かべるとたくさん出る唾みたいに。今さら祈ることなんてない私は本殿へ行く気にはなれなくて踵を返した。手水舎、龍の滝、水車。それぞれが奏でる水音に耳を澄ませながら、水路の傍らにしゃがみこんだ。
「ごめんねお嬢さん、ちょっとそこ、右にいいかしら」
明るい声が境内を照らすように響く。声の主は白髪の女性だった。七十代くらいだろうか。折り畳み式の椅子に腰かけて水彩画を描いている。
「すみません」
私は我に返り、頬の涙を乱暴に拭って彼女の視界から消えようとする。
「待って、気分を害された？」
彼女は左手に持っていたパレットをベンチに置き、私に駆け寄ってくる。
「いえ、ちがうんです。あなたのせいじゃ……」
「ごめんなさい」
彼女は私の肩を抱いて小刻みにさすった。久しぶりに触れたおばあちゃんの手(、、、、、、、、)が妙に生ぬるくて懐かしくなった。
「あの、本当に違うんです」
私が顔に熱を感じながら慌てると、女性は目を丸くした。
「じゃあ、どうして泣いていたの？」
「恋人と別れたんです」
口に出すと、胸の澱がまたざわざわとかき回される感覚がした。女性の馴れ馴れしさに少し辟易としつつ、自暴自棄になっている私もいた。
「……まあ」
二人の間の沈黙を水車の音が撫でている。
「ひどい顔なんで、あんまり見ないでください」
私が冷たく言うと女性は初めて気まずそうに目を伏せた。さすがにきつい言い方をしすぎたかもしれない、と小さく頭を下げる。すると女性は私の手を引っ張り、自分の画材を置いたベンチの上へと導いた。その手の湿り具合に私はまたあたたかい恐怖を覚える。
私は美利との別れの経緯を彼女に話した。いや、話すというより独り言ちるといった具合に。その間彼女はずっと無言で絵を描いていた。午前十一時。境内は温室のように生ぬるい。
美利と私は付き合って三年半を迎えるも同棲には踏み切れていなかった。私の両親が美利との関係を知り、怒り、嘆き悲しんだからだ。どうして普通の男じゃだめなのか、どこで育て方を間違えたのか、だとか。付き合って一年が経った頃にこの事件が起きて以来、私たちの関係は友人にもひた隠しにするのが暗黙のルールとなった。でも私の心は確実に、一枚一枚鉋で削られたようにすり減っていった。美利を愛する気持ちが強くなるほど。愛し合う二人が、互いの人生から互いの存在を殺しながら共にいられるわけがなかった。存在の否定は、尊厳の否定でもあるからだ。
美利から好きな男ができたと言われたとき、私は胸のどこかで自分が安心し、絶望していることに気がついていた。美利との関係、美利の存在を否定し続ける日々から解放される。そして美利はいつかその人と結婚して、子どもを作るかもしれない。妻として母として、美利は決して失うことのない尊厳を手に入れる。それは私が美利の幸せを願う上で最も幸福な、けれど私は永遠に与えることができないという劣等感に苛まれる、最も妬ましい未来だった。
私が男になればよかったのだろうか、とも思った。でも人間の性がそんな簡単に割り切れるものではないということを、私自身がよくわかっていた。私は美利を愛していたけれど自分に父性があると感じたことはなかったし、子どもが欲しいと思ったこともなかった。たとえ身体を変えたとしても私は私のまま、美利は美利のまま。結局は人間と人間の人生の問題なのだ。
相手が女性であることを伏せて話し終えると、私は思い切り身体を二つに折りたたみ、顔を覆った。女性の絵筆は止まらない。陽がさらに高くなり、頭に熱が広がっていくのがわかった。
「いたんじゃないかしらねぇ。私たちの時代にも」
女性の言葉を聞き、私は背中に冷たい雫を落とされたような心地になった。
「今よりもっと風当たりは強かったし、きっと心に秘めていたんでしょうね」
「あの……」
「男同士だろうと女同士だろうと男と女だろうと、愛し合っていた二人が離れてしまうなんてことはいくらでもあるわ。たとえどちらかが、どちらかのために人生を賭けられるくらい愛していても」
私は突き動かされるようにして彼女を見上げる。青紅葉の形をした木漏れ陽が瞼を鋭く刺す。
「私、その」
「わかるわよ。別れた恋人の家に行って来たっていうのに荷物が極端に少ないし、洋服はきちんとアイロンがけしてある。マメな子だったのね、きっと」
彼女は風景を見つめる目をゆっくりと細めた。私はその目尻の皺を見つめながら、美利の家へ行くと毎回きれいになっていた排水溝や、汗染み専用洗剤をつけられてから洗濯されていたワイシャツの襟元を思い出していた。
この街の坂を上るとき、私は美利の手を握って一緒に駆け上がってあげなければいけなかった。水車小屋の影でひっそりと抱き合ってキスしなければいけなかった。いくら反対されても両親を説き伏せる強さを見せてあげなければいけなかった。美利は形あるものにすがり、私を捨てたとばかり思っていたけれど、美利を裏切り続けていたのは私のほうだった。
「深大寺って薄暗いけれど陽が差すと明るくて、水音は涼やかだけれどセミの鳴き声も聞こえて、昼間は賑やかだけれど夜は本当に静かでしょう。陰と陽が見え隠れする場所なのよね。だから自然と吸い寄せられてしまうのかもしれないわ。人生に疲れたときに」
女性が絵筆を水にくぐらせる。小さなバケツの中を泳いだ毛先から、美しい青が溶けだした。真っ青な魚が陽の当たる水中を舞うように。
「あの、紫陽花」
「ん？」
「もう枯れてますけど」
彼女が絵の中に咲かせている紫陽花の実物は、とうに散って葉となっている。
「いいのよ、花なんだから。咲いていたほうがいいに決まってる」
「いい、のかな。そんなに適当で」
「幻想でも理想でも、欲でも、祈りでもいいの。いいのよ」
筆が画用紙の上で踊る。青が浮かんでは吸い込まれ、浮かんでは吸い込まれていく。
柏木臨（東京都武蔵野市／22歳／女性／学生）