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「春、プロローグ」著者: ねごろみちこ

スミ子さんは今日も見つからなかった。
 早春の深大寺はまだまだ寒くて、参道にあるお茶屋の長椅子に座っているのは私たちだけだ。朱傘越しに見上げる空も厚い雲で覆われている。春なんて暦ばかり。
私はマフラーにできる限り顔をうずめて、千吉さんをちらっと盗み見た。嫌な予感的中。千吉さんは、はじめはしくしくと、終いには大粒の涙を流しておいおいと泣き出した。
「スミ子ぉ、どこに行ってしもうたんじゃあ!わしが悪かったぁ!」
(またはじまった……。)
呆れながらもトートバッグからハンカチを出して涙を拭いてあげる。向かいの蕎麦屋の店先で、信楽焼のたぬきが首をかしげてタイヘンデスネと同情してくれている。
「元気出して。明日はきっと見つかるよ。」
「くぅ……美咲殿……かたじけない。」
そう言って、千吉さんはがっくりと肩を落とした。ように見えた。なにしろ千吉さんに肩はない。千吉さんは赤くて真ん丸のだるま、だから。
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一週間前の三月三日  といえばひなまつりだけれど、深大寺が地元の私には、だるま市の日という印象が強い。湧き水の流れる音が静かに聞こえる普段の深大寺とはうってかわって、参道にはりんご飴やら金魚すくいやらの露店がひしめき、境内はだるまと人で溢れかえる。毎年この日は家族で深大寺に出向き、去年のだるまを納めて新しいだるまを買って帰るというのが小さい頃からの習慣だ。
来年は私が高校受験ということで、いつものだるまに加えてもう一つ『学業成就』と書かれただるまも買った。だるま売りのおじさんに、二つ買うんだから、と言って千円値切ったお母さんが、千円分ご利益少ないかもしれないから勉強頑張んなさいよ、と変な激励の言葉をくれたけれど、部屋に持ち帰ってさっそく私がしたことは、学業成就の文字の横にもっと大きく『恋愛成就』と書くことだった。
鼻歌まじりに『就』の字を書き終えたとき、手元から突然男の太い声がした。
「うふっ……、くすぐったい。」
私は反射的にだるまを放り投げて、たぶんギャアッとか無様な声も上げたと思う。びっくりしすぎて飛び出した心臓が、部屋中をバウンドしている。
(気のせいですように、気のせいですように…)
床に転がった赤くて丸いその物体から目を離せずにいると、それはいかにもだるまらしく自分で起き上がり、それから私に深々と頭を下げた。
「驚かせてしまったようで、申し訳ない。わしは千吉と申す。折り入って頼みがある。」

その赤だるま  千吉さんの話はこうだった。三月三日、だるま市に向かう車の中で(正確には車の荷台の段ボール箱の中で)、千吉さんと奥さんのスミ子さんは喧嘩をした。年に一度のだるま市、だるまの晴れ舞台にスミ子さんは張り切っていた。元々、美人白だるまと評判のスミ子さんだが、さらにこの日のためにお腹回りを一・五センチもスリムにし、最新のだるまメイクも研究してきた。段ボール箱の中でも、ああでもないこうでもないと眉を書き直したり口角を上げてみたりしているスミ子さんに、千吉さんは、どうせ変わらないんだからやめろと言ってしまった。(本当は、あんまりきれいになりすぎて他のだるまに言い寄られるのが心配だった、と後で私に白状した。)そうとは知らず、夫からの心無い言葉に傷ついたスミ子さんは、セクハラよ!パワハラよ!モラハラよ!と叫んで、泣きながら隣の段ボール箱に飛び込み、それっきり離ればなれになったまま、こうして千吉さんはうちに来てしまったというわけだ。
 太い眉も立派な髭もだらりと下がって、しょげ返っている千吉さんがかわいそうで、聞き終わる頃には、私はすっかり一肌脱いでやるかという気になっていた。
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やっと泣き止んだ千吉さんをトートバッグに入れ、お茶屋の長椅子を立って、参道を奥へと進む。深沙堂にお参りするためだ。この一週間、毎日深大寺に来ているうちにほとんど日課のようになってしまった。深沙堂には縁結びの神様である深沙大王が祀られている。
私が生後一ヶ月の頃、お宮参りのために深大寺を訪れたときに、お父さんがこの深沙堂で、美咲が変な男に引っ掛かりませんようにと真剣にお願いして、何十年先の心配してんのよ、とお母さんに呆れられたという、我が家でだけ有名なエピソードがある。
石段を駆け上がって、お堂の前でパチンと手を合わせる。
(清野君が私を好きになってくれますように。清野君は全然変な男じゃありませんので大丈夫です。)
千吉さんもバッグの中で、早くスミ子に会えますようにとお願いしている。
もしかしたら誰かに買われて、どこかずっと遠くの家に置かれているかもしれない。千吉さんにそう言ったことがある。その時千吉さんは、スミ子もわしのことを探している、わしはスミ子を信じておるし、スミ子もわしを信じておる、と当たり前のように言った。それが、きりんの首は長い、とか、一日は二十四時間です、とかいうのと同じくらいの言い方だったので、私は目の前がチカチカした。諦めるのは、まだ早い。
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 ところが、二週間たっても私たちは相変わらず深大寺にいた。そして明日から春休みだというのに、私はこの上なく暗い気持ちで、お茶屋のお団子にたっぷり乗ったあんこをにらみつけていた。原因は学年末試験の初日に大樹がもたらした情報だ。
「清野さ、彼女できたぜ」
へぇ、と興味ないふりをしてみたけれど、一夜漬けした歴史の年号が全部飛んだ。大樹は私の演技なんてどうでもいい様子で、もっともらしく声をひそめて後を続けた。清野君は最近サッカー部が終わった後、毎日いそいそと自転車でどこかに出掛けているらしい。どこに行くのか尋ねてもはぐらかされるばかりで、大樹はそれを『彼女』のところへ行っていると推察した。昔から余計なことしかしない大樹は、お前が清野のこと好きみたいだから教えてやんなきゃと思ってさ、と百パーセントの笑顔で親指を立ててみせた。おせっかいで無神経な愛すべき幼馴染のおかげで私の試験結果は散々だった。
二年生になって一緒のクラスになった清野君は、勉強も運動も、はっきり言って顔も普通で目立つタイプではない。けれどいつも穏やかに笑って、相手が男子でも女子でも先生でも後輩でも、同じように話す。いつだって一言多かったり、思っていることとちぐはぐなことを言ってしまったりする自分とは大違いだ。有馬さん、と清野君に呼ばれると、お腹のあたりがぽかぽかと温かくなって、なんだか急に元気になっちゃったりする。
そのことに気づいたのは、ほんの最近だったのに……。涙が出そうになって、慌ててお団子をいっぺんに三つほおばった。鼻の奥がツンとして、あんこが少し塩からい。
参道を自転車が走って来たので、長椅子から投げ出していた足を慌てて引っ込めた。
「有馬さん。」
顔を上げると、自転車に乗っていたのは清野君だった。とっさに、膝の上に乗せたままの千吉さんを隠そうと急いでバッグを引き寄せたけれど、時すでに遅し。清野君の目が千吉さんに釘付けになっている。
「あー、えーと、違うの。別に、だるまを持ち歩く趣味とか、そういうんじゃないの。なんていうか……。」
「待って!いいの、ちょっと待って!」
急に嬉しそうな表情になった清野君は、背負っていたリュックから何かを取り出した。それは、白くて真ん丸で鼻筋がスラっと通った美人のだるま……。
「うそ!」「スミ子!」「あなた!」
私と千吉さんとスミ子さんが叫ぶのは同時だった。千吉さんはもうおいおいと泣いている。
「……よかったぁ。」
私と清野君の声がシンクロして、思わず二人で声を上げて笑った。清野君が私を見た。
「有馬さん、一緒にお団子食べない?」
でも、と私は言いかけて、清野君が毎日自転車で向かっていた先はここだったんだ、とやっと気が付いた。
「うん、食べる!百個いけそう!」
並んで座った私たちの頭の上で、深大寺の桜がほころび始めている。

ねごろみちこ(東京都)